第2話:不思議な催眠術師と、天然の防壁
夏休みも終わりに近づいた、ある蒸し暑い夜のこと。
くるみが住む町の神社では、毎年恒例の夏祭りが開かれていた。
境内には提灯がズラリと並び、焼きそばやりんご飴の甘ばしい匂い、そして盆踊りの賑やかな太鼓の音が夜空に響き渡っている。
小学四年生のくるみは、母親に着せてもらった朝顔柄の可愛らしい浴衣に身を包み、人混みの中をぽてぽてと歩いていた。
「くるみ、はぐれないようにちゃんと手をつないでなさいよ。それから……」
母親は、くるみの小さな手をギュッと握りしめながら、釘を刺すように言った。
「今日は絶対に、余計なものを買わないこと! お面も、水風船も、スーパーボールもダメだからね! これ以上、あんたの部屋にガラクタ……ゲフン、物が増えたら、本当に床が抜けて家が壊れちゃうんだから!」
母親の悲痛な叫びには、切実な理由があった。
先日、空き地から保護してきた子猫(『むぎゅ』と名付けられた)を迎え入れたことで、くるみの汚部屋はさらにカオスな状態へと進化していたのだ。
子猫が安全に歩けるスペースを確保するため、くるみは床に散乱していた空き箱やプリント類を「縦」に積み上げ始めた。その結果、部屋の中にはジェンガのように不安定な塔が林立し、ドアを開けるたびに何かが崩れ落ちてくるという、トラップダンジョンのような有様になっていたのである。
「はぁい、わかってるよぉ。今日はお祭りを見るだけ!」
くるみは、綿飴のようにふんわりと笑って頷いた。
欲しいものがないわけではない。だが、くるみの頭の中には「これ以上新しいお友達(物)を連れて帰っても、お部屋の中がぎゅうぎゅうで、みんな苦しくなっちゃう」という、彼女なりの切実な思いやりがあったのだ。
そんな約束を交わし、親子で金魚すくいなどを眺めていた時のこと。
「あら、お隣の奥さん! こんばんはー」
母親が、町内の知り合いを見つけて立ち話に花を咲かせ始めた。
「くるみ、ちょっとここで待っててね」
「うーん、わかったぁ」
母親の手から離れたくるみは、ぽややんとした顔で周囲を見回した。
賑やかな参道から少し外れた、神社の裏手。提灯の光が届かず、薄暗くなっている木立の方に、ポツンと奇妙な屋台が出ているのが見えた。
屋台といっても、食べ物やオモチャを売っているわけではない。
黒い布が掛けられた小さな机があり、その奥に、黒いシルクハットとマントを身につけた、ひょろりとした怪しげな男が座っていたのだ。
机の上には、怪しく光る水晶玉や、得体の知れない石のペンダントが並べられている。
「わぁ……お月様みたいにキラキラしてる」
光るものに惹きつけられるように、くるみはフラフラとその屋台へと近づいていった。
「……おや」
男は、近づいてくるくるみを見て、シルクハットの奥で目を細め、ニヤリと唇を歪めた。
この男は、祭りの屋台に紛れ込んで子供や気の弱い老人を狙う、自称・催眠術師……もとい、悪質な詐欺師であった。
言葉巧みに相手の心理を操り、暗示をかけ、机の上に並べたただのガラス玉や石ころを「幸運を呼ぶ魔法のアイテム」として高額で売りつけるのが彼の手口だ。
(ヒヒッ、カモが来たぞ。動きがとろそうで、いかにも頭の弱そうなガキだ。お小遣いを全部巻き上げてやる)
男は、くるみが机の前に立つと、わざとらしく低く、響くような声で語りかけた。
「迷える子羊よ……。お嬢ちゃん、この美しい石に惹かれてやってきたのかな?」
「こんばんは。おじさん、魔法使いなの?」
くるみは、男の怪しげな風貌を全く怖がる様子もなく、大きな丸い瞳で不思議そうに見つめ返した。
「いかにも。私は人々の心の中に入り込み、望むものを与える魔法使いさ。……さあ、私の目を見なさい」
男は懐から、先端にキラキラと光る銀色の振り子がピカピカと光る鎖を取り出し、くるみの目の前でゆっくりと揺らし始めた。
ゆらり、ゆらり。
一定のリズムで揺れる振り子。そして、男の低く単調な声が、くるみの鼓膜を心地よく叩く。
「君はだんだん、この振り子から目が離せなくなる……。周りの音が遠ざかり、私の声だけが頭の中に響いてくる……。そう、君の心は今、真っ白なキャンバスになった。とてもリラックスして、私の言うことを何でも素直に聞きたくなる……」
男が使っているのは、人間の無意識に働きかけ、思考力を低下させる本格的な催眠誘導の技術だった。大人でも、隙を見せれば一瞬でペースに巻き込まれ、暗示にかかってしまうほどの熟練の技だ。
男は、くるみのまばたきがゆっくりになったのを見て、「かかった」と確信した。
(よし、ここからが一気に畳み掛けるところだ!)
「お嬢ちゃん。君は今、机の上にある『幸福のペンダント』が、喉から手が出るほど欲しくなっている。それを持っていなければ、君は明日からとても不幸になる。逆にそれを持っていれば、君の部屋は幸せの光で満たされるのだ……! さあ、君のお小遣いをすべて出して、このペンダントを買いなさい!」
男は、声に強烈な圧を込めて命令を下した。
普通に暗示にかかった子供なら、ここでぼんやりとした顔のまま財布を取り出し、言われるがままにお金を差し出すはずだ。
しかし。
くるみは、振り子を見つめたまま、コテンと首を傾げた。
「……お部屋が、光で満たされるの?」
「そうだ! このペンダントの力で、君の部屋は素晴らしい空間になる! だから今すぐ……」
「うーん……でも、ダメだぁ」
くるみは、申し訳なさそうに眉を下げて、はっきりと首を横に振った。
「……は?」
男は、予想外の拒絶の言葉に、思わず間抜けな声を出した。
「だって、お部屋にはもう、ペンダントさんが光る『場所』がないんだもん」
くるみは、頭の中で自分の部屋の惨状を、極めてリアルに思い描いていた。
ベッドの上には、クマの『くま吉』とウサギの『うさ美』たちがぎゅうぎゅうに座っている。
机の上には、図工で作った『マカロニの塔』と、綺麗な空き箱がマンションのようにそびえ立っている。
床には、最近やってきた子猫の『むぎゅ』が遊ぶためのおもちゃと、捨てられないプリントの山が、ギリギリのバランスで保たれている。
もし、このキラキラ光るペンダントを連れて帰ったとしたら?
机の上に置けば、マカロニの塔が崩れてしまう。ベッドに置けば、くま吉のお尻の下敷きになって息ができなくなってしまう。床に置けば、むぎゅがイタズラしてプリントの山が雪崩を起こすかもしれない。
「ペンダントさん、こんなに綺麗なのに、私のお部屋に行ったら、きっと狭くて暗くて、苦しい思いをしちゃうよ。……可哀想だから、連れて帰れないの」
くるみは、振り子ではなく、机の上に置かれたガラス玉のペンダントを、心底悲しそうな、慈しむような目で見つめていた。
(な、なんだこいつは!?)
男は内心で激しく動揺した。
催眠術や暗示というものは、「相手の想像力」を利用して欲求を増幅させるものだ。
しかし、星野くるみの頭の中には、男の言葉が入り込む余地など一ミリもなかった。彼女の脳内はすでに、「自室の超過密な住宅事情(汚部屋)」と、「そこに新たな物を迎えた時の物理的な配置シミュレーション」で完全に占拠されていたのだ。
圧倒的な現実の物理問題(汚部屋)の前に、心理的な暗示など、厚さ十センチの鉄板に豆鉄砲を撃ち込むようなものであった。
「い、いや! 違う! そうじゃない!」
男は焦って声を荒らげ、再び振り子を激しく揺らした。
「君は、部屋が狭いことなど気にしなくなる! どうしても、何が何でも欲しくなるのだ! 君の心は今、このペンダントの魅力に完全に支配されて……!」
「おじさん、手が震えてるよ?」
「へっ?」
男の言葉を遮るように、くるみがふんわりとした声で言った。
見れば、男の右手は、焦りと苛立ちから、小刻みにブルブルと震えてしまっていた。
「……おじさんも、苦しいの?」
くるみは、屋台の奥に座る男の顔を、真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、相変わらず一切の敵意も、疑いもなかった。ただ純粋な、心底からの『心配』だけが浮かんでいた。
「ずっと暗いところに座って、キラキラした石を揺らして……。本当は、おじさんもペンダントさんを置く場所がなくて、困ってるの? だから、私に預けようとしてくれたの?」
「ち、違う! 私は偉大な魔法使いで……!」
「無理しなくていいよ。手が震えるくらい、疲れちゃってるんだね」
くるみは、浴衣の袖から、いつも持ち歩いている可愛らしいウサギの柄のハンカチを取り出した。
そして、それを丁寧に折りたたむと、男の震える右手に、そっと被せたのだ。
「痛いの、痛いの、飛んでいけー。……おまじない、かけておいたからね」
くるみの手が、男の手に触れる。
その手は小さくて、とても温かかった。
「――――あ」
男の口から、無意識のうちに声が漏れた。
催眠術師として、何百人もの人間を騙し、操り、嘲笑ってきた男。他人の心に土足で踏み入り、欲望を引き出すことしかしてこなかった彼の心に、生まれて初めて「全く悪意のない、100%の純粋な優しさ」が、真っ直ぐに突き刺さった瞬間だった。
(……俺は、こんなちっちゃな子供相手に、何を必死になってんだ……?)
くるみの、どこまでも透明で、一切の濁りがない瞳に見つめられていると、自分のやっている詐欺まがいの行為が、ひどく滑稽で、途方もなく恥ずかしいものに思えてきた。
相手を操ろうとしたはずが、いつの間にか、自分自身の心の奥底にある「虚しさ」や「罪悪感」を、太陽の光の下に引きずり出されてしまったような感覚。
それが、星野くるみが無自覚に放つ、最大の『天然の防壁』であり、『浄化の魔法』だった。
どんなに巧妙な言葉も、どんなに悪意に満ちた策略も、彼女の「相手を疑わない純粋な優しさ」というフィルターを通すと、すべてが無力化され、跳ね返されてしまうのだ。
「うっ……うぅっ……」
突然。
男の目から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「おじさん、泣いてるの? どこか痛いの?」
くるみが驚いて顔を覗き込むと、男は「違う、違うんだ……!」と嗚咽を漏らしながら、机の上のガラス玉や振り子を、ひったくるようにしてカバンに詰め込み始めた。
「ごめん! 俺が悪かった! お嬢ちゃんみたいないい子から、お小遣いを巻き上げようとした俺がクズだった! もうこんな商売はやめる! まともに働くよぉぉぉ!」
男は、くるみのウサギのハンカチを握りしめたまま、屋台の骨組みを放り出し、脱兎のごとく夜の暗がりへと逃げ去っていった。
「あ……おじさん、ハンカチ……」
くるみは、遠ざかっていく男の背中に向かって手を伸ばしたが、男は一度も振り返ることなく、あっという間に見えなくなってしまった。
「うーん……急にお腹でも痛くなっちゃったのかなぁ」
くるみは、残された空っぽの机を見つめながら、コテンと首を傾げた。
魔法使いのおじさんがなぜ泣いていたのか、彼女にはさっぱりわからなかった。けれど、「ペンダントさんをお家に連れて帰らなくて済んだから、くま吉たちも安心だね」と、自分の部屋の平和が守られたことだけは嬉しかった。
「くるみー! どこ行ってたの!」
背後から、血相を変えた母親が走ってきた。
「あっ、お母さん。あのね、魔法使いのおじさんがいたんだけど、お腹痛くして帰っちゃったの」
「はぁ? 魔法使い? ……あんた、変な人に声かけられなかったでしょうね? 余計なガラクタ、買ってないわよね!?」
母親が疑いの目でくるみの手元や浴衣の帯を探るが、当然、新しいガラクタは何一つ増えていなかった。
「買ってないよぉ。だって、お部屋がいっぱいだもん」
くるみがぽややんと笑うと、母親は深くため息をつき、くるみの手を再びギュッと握り直した。
「もう……あんたのそのマイペースには心臓が持たないわ。さ、帰るわよ。むぎゅがお腹すかせて待ってるから」
「うんっ! はやく帰って、みんなにご飯あげなきゃ!」
提灯の光が揺れるお祭りの道を、親子の影が並んで歩いていく。
この日、一人の悪質な詐欺師が、一人の少女の『汚部屋』を案じる圧倒的なマイペースによって完全に心を折られ、真っ当な道へと更生させられた。
しかし、星野くるみ本人は、自分がどれほど強力な精神的防壁を持っているかなど、一生気づくことはない。
彼女はただ、誰かが悲しい思いをしないように、そして自分の部屋の大切な「お友達」たちが窮屈な思いをしないように、目の前の世界を真っ直ぐに見つめているだけなのだから。
「お母さん、明日はちゃんとお部屋のお片付けするからね」
「あんた、それ今日で百回目よ。どうせまた、空き箱とお話しして終わるんでしょ」
「えへへ……ばれちゃった」
ゆるふわで、天然で、だけど絶対に曲がらない純粋さを持つ少女。
彼女が『本当の魔法』――保健室の先生という、人々の心と体を癒やす白衣の魔法使い――に出会うのは、もう少しだけ先のお話である。




