53.ホットミルク
テグドラウとレイリーリャ、それにハイリアルの三人は漁民ギルドの建物の中に入り、部屋の入口に辿り着く。
テグドラウがこの前で立ち止まり、振り返って二人に告げる。
「おう、ここだ。ギルドの食堂はここだ。この時間やってるのかな。」
首を伸ばし食堂の中を覗く。
レイリーリャも釣られるように室内を眺める。
その中はテーブルが並び、中に居る者はまばらでほとんどいなかった。
その壁はモルタルか何かの壁面に塗られた塗料が、経年劣化でくすんでいる。しかし床にゴミが落ちていたり汚れがへばりついておらず、不潔感は感じられなかった。
彼女はここまで付いてきたハイリアルの意向が解らなかった。それで不安を感じながら彼の顔を見る。食堂に行くのを彼が拒否しないか、食事させずに一緒にいるよう命令をしやしないか解らなかった。
彼は彼女の顔を見ると無言で頷いた。許可を下すようであった。
これを見て彼女は彼に頭を下げる。
彼からの要求や命令は出ないというお墨付きを貰えた事で、そうしながら身体の中で張り詰めていた物が緩み、一息付けたように感じる。指示や命令で食事を邪魔されずに食事を摂れるのだ。
そうしてテグドラウに顔を向ける。
「ここまで連れてきてくれてありがとうございました。」
レイリーリャは丁寧になるようゆったりと礼をしながら微かな嬉しさを感じつつ、仕来り通りのやり方を頭の隅で意識する。
「おう、レイリーリャのねーちゃん、こんな事アタマ下げるような事じゃねーぞ。また夜になッ。」
テグドラウは笑みを浮かべ、軽く上げた片手を振る。
その言葉はざっくばらんだったが温かみを感じられた。
ハイリアルはアザラシの漁師の横に並んで立ったまま、見守るように彼女を眺めている。
レイリーリャは空腹感に煽られ直ぐに振り返り、漁民ギルドの食堂の中に入る。そして食品を注文するレジに向かって、並べられたテーブルの間を進んでいく。
「あー、お腹すいたー。おさかなたべたーい。」
歩きながら彼女の口から空腹感が吐き出すような呟きが出てしまう。
さかなという言葉を意識した途端、前に食べた焼かれたギナウの身体に染みこむような塩味の混ざった旨味が口の中に甦ってくる。
食堂内は長年使われくすんだテーブルが規則的に並べられていた。その端には、中年の漁師が椅子の背もたれにもたれかかるように座りながら、漁から戻って独り赤い顔をして酒を呑みながら食事をしている。
彼女は人が付いてきている雰囲気を感じず左右を見る。
しかしハイリアルの姿は見えなかった。
彼は彼女と一緒になって食堂の中に入ってきていなかった。
…………ハイリアルさまは来ないけど、トイレかな?
彼女は歩きながら思う。
しかし振り返ってこの食堂の出入り口を見てまで、彼がいるのを確かめる気にはなっていなかった。
腹が減っていて直ぐにでも何か食べたかった。それで、彼から何らかの指示され、食事を我慢して作業をする事を呼び込みかねないような真似を、無意識のうちに避けていた。
食堂の奥まで行くと調理室があり注文を受け付けるカウンターがあった。だが手鋏鮫の解体で出払っているのか、その中には誰もいなかった。
その右手側の端には購買のレジがあった。
周りにはパンや飲み物などいくつか商品が並べられている。
その後ろにはカーキ色した頭巾を被る黒小人の老婆が、目を閉じたように俯いて座っている。
……うーん…………やっぱり、キッチンで料理している感じが無いし、誰もいないなぁ……。
レイリーリャは調理室の奥を覗き込む。
調理室の中には誰も見つからず、物音や喋る声も無く、戸棚の前や奥の備蓄庫の中にも人がいる雰囲気は全く無かった。
流し台には洗われたまな板が縦置きにされ、火が止められたコンロの上には寸胴鍋が据え置かれたままだった。
誰か一人ぐらい調理人いるかなと思っていたが、全くいなかった。
……これじゃあ、焼き魚とか魚料理は難しいか。うーん……。
彼女は口を閉じて唇を噛んで唸ってしまう。
その口は魚の味を求め続け、胃は圧迫して空腹を訴え苦しく感じる。
その額には皺が寄り、左右の口許が下がる。
……そうなると、食べれるものは、……出来上がりのモノになっちゃうのかぁ……。
彼女はレジの側まで近付き立ち止まると、パンなど食べ物が陳列されている棚に目を向ける。
……えっと、『バサバササンド』に『パッファーレバーバーガー』、『サイフワスレコロネ』は無いのかぁ……。
思わず落胆し、がっくりと項垂れる。
陳列棚に置かれた魚介類が使われた調理パンは大方売れてしまい、値札だけしか残っていなかった。
売れ残っているパン自体、余りなかった。
…………残ってるのは……『ツメエンコパン』って、…………これはぁ、何か見た目気持ち悪いし、さすがに、買う勇気は出ないなぁ…………。
箱の中に売れ残っている、生地の上に小指の先のような物体が数個乗せられた調理パンを見つめながら、額に寄せて悩む。
そんな彼女を老婆は視点が定まらず、ぼんやりとしたような目をしながら見上げる。今まで寝ていて、やっと彼女がいるのを気付いたようであった。
「……娘っ子よぉ。見ない顔だなぁ。ここ初めてかぁ。」
老婆は微笑み、萎んだように皺だらけの口許に笑みが浮かぶ。
レイリーリャはレジの周りに並べられた商品を眺めるのを止め、老婆に振り向きその顔を見る。
黒小人という種族は顔などに表れた肌艶や皺などから、実年齢以上に歳を重ねているような見かけをしている。だがこの老婆は、数多くの深い皺が顔に刻まれた上に、振る舞いが老いて弱々しくなっていた。大分老齢のように彼女には見えた。
「そうです。ここに来たのは初めてです。手鋏鮫退治を手伝って船に乗っていました。」
彼女が応える声のトーンは微かに弾むように昂ぶっている。
老婆が彼女に対して好印象を抱いているように感じられた。
「あぇま。こんな若い娘っ子だのに、ぶねに乗って手鋏鮫やっつけぅたぁ、ぶったまげたなぁ。」
老婆は顔を上げ両手をゆっくりと少し広げて驚き、その声が昂ぶる。
「若いのが来ぅだけでもめずぁしぃのに、肝がぶっといのう。
「わしぁの若いこぉでも、ぶねにのぅことさえ恐がったのに……。」
老婆は口許に笑みを浮かべて感心しながら、言葉が自らの身体の中に響いていくように何度も上下に揺れている。
彼女はその言葉を聞くと苦笑いを浮かべ、手を左右に振って否定する。
「わたしが手鋏鮫を倒したワケではないですよぉ。
「やっつけてくれるまで船に乗ってて、お昼ご飯食べ損ねてしまいまして。」
喋りながら老婆を見つつも、並ばれている商品を眺める。
老婆と喋るのを避ける事に対して申し訳なさを感じつつも、商品を眺め食べたいものを探すのに専念したいと思っている。
「この後、やっつけた手鋏鮫を料理して、みんなで食べる事になってまして。
……今お腹減っちゃっているんですが、今たくさん食べちゃったらこの後で食べれなくなってしまいますから、どうしようかなぁと。」
彼女は手鋏鮫に関する話題を切り上げようとする。
それは船中では船酔いで寝込んでいた事や、ロープで引き上げている最中に我慢し切れずに吐いた事位で、彼女自身にとっては恥だと見做されかねない話題ばかりだった。積極的に喋りたいとは思わなかった。
その上に、空腹を堪えるのは辛く、さっさと何かを買って食べたかったのだった。
「……お魚で出来た何か食べたいんですけど、まだ有りますかねぇ。……」
彼女は食欲に正直になる。
なお一番食べたいものは先日食べたギナウの焼き魚では無かった。先日ハイリアルが食べていた白身魚のクリームソースがけであり、彼女が一度も味わった事が無い食品であった。
老婆は振り返って調理室を見る。
だがそこには誰もおらず、調理器具だけが残されている。
「魚ねぇ…………。いょうぃにんは手鋏鮫の解体して、ここにおぁんかぁ、定食は出せぬのう…………。」
老婆は調理台を見つめながら、何か考えるように唸っている。
…………うーん、この様子じゃあ、魚料理は難しいのかなぁ。残念だけど…………。
レイリーリャはその様子を眺めつつがっかりして、我慢するように口を閉じる。
老婆に目を向けつつ、ちらちらと陳列棚を見る。そこの端に丸まったパンが一個残っていたのに気付くと、それに手を伸ばして取る。
ミカン色した溶けたチーズが上面を覆っている。
彼女は老婆が考え終わって何か振る舞い始める事を待てなかった。
相変わらずその口は、魚の味を求めている。
内心このパンに対して食欲を感じず気乗りはしなかったが、レジカウンターの上に置いた。
「……えーとぉ、良いですか?」
注文しようと老婆を伺う。
老婆は振り返り彼女を見る。
「これとホットミルクをお願い出来ますか?」
レイリーリャはチーズパンの他に、飲み物として温めた牛乳を頼む。
「んだぁ、ちょっと待っててなぁ。」
老婆は立ち上がりゆっくりとした足取りで調理室の冷蔵庫の前まで行くと、そこから金属のポットを取り出した。それを抱えコンロまで行くと、小さな鍋を取り出し、牛乳を注いで暖め始める。
真っ白い牛乳が入った鍋の縁に多数の細かい泡が拡がりまとわりつく。
老婆は暖めた鍋を持ち上げカップに注ぐと、こぼさないよう気を付けながら小刻みな足踏みで持ってくる。
「はいよぉ。ホットミゥク時間が経っちゃったものだかぁ、お代はチーズパンだけで良いよぉ。5まぅ銅貨なぁ。」
レジに置かれたチーズパンの横にホットミルクが入ったカップを並べる。
ミルクの柔らかく優しい香りがレイリーリャに届く。
「良いんですか?」
彼女は内心嬉しく感じるが、ただで貰うのは少し悪い気がして聞き返す。
「良いンだよぉ。もう少し時が経ったぁ捨てぅ物だかぁねぇ。」
老婆は口許に笑みを浮かべ、返す口調は軽かった。
それがこのミルクの商品価値が下がり、彼女にあげても問題ない事を物語っていた。
「捨てぅんだったぁ、飲んでくぇた方が無駄になぁんで良いしのう。」
「ありがとうございます。」
レイリーリャも口許に笑みを浮かべ礼を言うと、丸銅貨を5枚置いた。そしてチーズパンとホットミルクが入ったカップを持つ。
カップの取っ手からホットミルクが入った温かみが掴む手に伝わる。
彼女は窓の側に据えられた空いている席を見つけると、行ってそこに座った。
そこのテーブルの上に置かれたホットミルクのカップから湯気が立つ。
「……やっとお昼ごはんか。」
レイリーリャは両眉を下げ苦笑いを浮かべる。
胃は空腹で押しつぶされるように圧迫され、食欲が腕となって現れ、胃の中からパンを掴み取ろうとしているようだった
カップを取ると縁に唇に付けて傾ける。
ミルクの表面に張っていた膜が波打ち皺が出来る。
含んだ口の中にホットミルクの暖かく優しい味が広がっていく。
…………おさかなじゃないけど、結構おいしい……。
レイリーリャは両目を瞑り口の中に残るミルクを味わう。口が魚の味を求めていたが、そんな欲求など完全に潜んで感じなくなってしまう。
…………あのおばあさん、このミルク捨てるって言ってたけど、これはもったいないよねぇ。充分飲めるし……。
舌の上に残るミルクの甘みに浸る。
窓ガラスを通り抜け陽の光が彼女を照らす。
船上で波飛沫や海風を浴びて冷やされた身体が温められ、両頬に赤みが増す
…………お魚食べれなくても、これはこれで、満たされるよね……。
彼女には心地良かった。
この温かみが全身に広がっていって染み込み、肩に張っている余計な力が抜け落ちてしまったように感じる。
思わず深い息を吐き出してしまう。
…………本当にありがたいよね。
彼女は両目を瞑り老婆の『配慮』に、改めて感謝する。
頭や胸の中といった上半身の内側から、温められたミルクの滋味が染み込み拡がっていくように感じる。
本当にこれが単なる老婆の残飯処理であったとしても。
彼女はハイリアルの存在が意識の外にある。
従者として行わなくてはいけない職務と行動も意識の外にある。
レイリーリャはカップを片手に持ちながら窓の外を眺める。
窓の向こうには港が見え、灯台が傾き始めた陽の光を浴びて赤みを帯びる。
そこから港を囲むように伸びる防波堤に、外海から打ち寄せる波が当たり白い水飛沫を上に飛び散る。
波風が窓ガラスに吹き付けられる度に揺らぎ、ガタガタと音を立てる。
風も窓ガラスによって、彼女の身体に当たって冷やす事無く遮られる。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
わたくしも嬉しいです。
街にある本屋が減少し、棚に陳列された本の背表紙を眺め、興味を感じる本を手に取って読んでみるような事は減ってしまったように感じます。
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そうしていただけると、この作者の心が嬉しさで大爆発したようになり、これからの物語を創る励みと自信になります。




