37.横臥
…………失敗したぁ……。
…………やっぱり、船に乗るんじゃなかったぁ……。
レイリーリャは漁船の船縁に頭を乗せ、甲板の上でもたれかかっている。
額に皺が寄り、目は虚ろで、口が力無く開かれたままの顔は生気が無く白い。まるで岸に打ち上げられてから時間が経ち、体色が抜け落ちてしまった魚の死骸のようである。
…………どっかの勇者気取りで、イキがって船に乗ってしまった……。わたしはほんとぉぉぉに身の程知らずの大バカだ…………。
……あの時のわたしをはっ倒―――
喉に突然胸から何かが込み上がってきた。苦しい。気持ち悪い。
口許を手で抑える。喉から込み上がってきたぬめったものが口の中に充満し始める。鼻孔が生臭く、口内が苦く酸っぱく感じる。
慌てて船縁から海面に顔を出す。喉から込み上げ続ける物が口内で止まらず、口の中から溢れそうになり堪え切れない。
「おえぇぇぇぇ」
レイリーリャは口から吐いた。
胃液が混ざって褐色の液体のような嘔吐物が海面に滝のように流れ落ちる。嘔吐物が海面に叩きつけられ飛沫を上げると海上を漂う。
自ら気付かぬうちに、目許から涙が流れ落ちていた。
「おうおうおう、ねーちゃん。まぁたゲロ吐いたなぁ。船酔いかッ。」
船尾にある操舵場から昂った楽しげな声が掛かる。
彼女は目許を拭い、握っていたハンカチ代わりの布きれで口許を抑えながら、声のする船尾の方に目を向ける。口の中に嘔吐物の生臭さと酸っぱさと苦さの混じった物が纏わり付く。鼻の奥が刺さるように痛い。
白タオルを頭に被り口の周りに泥棒髭が伸びている人族の男が、舵輪を握り口許に笑みを浮かべながら彼女をからかう。
そして片手で舵輪を握りながら、船縁の下を覗き込む。
漁船は波に抗い前に進んでいく。
海面に浮かんだ嘔吐物は波に揺らぎ、船尾へと流れていく。
彼女は辛そうに顔の中央に皺を寄せ、船縁に頬を付けて寄り掛かる。
自らの嘔吐物が波に流されていくのが目に入る。
視線の先にくすんだ白い灯台が離れて小さく見えているのに気付き、吐き気で気持ち悪く感じつつも、結構進んだなぁと何か感心してしまう。
「あぁの朱色のジンニン、もう魚が突っついてるぜ。メぇシ、なかなか良いモン食っとるなぁ。寄せ餌代わりになっとるし、網でも打つかぁ?」
泥棒髭は彼女に顔を向いて弄ぶようにからかう。
「ちゃぁんとご主人サマに、可愛がって貰っとるようだなぁ。」
それが耳に入った瞬間、彼女は思わず下を向いてしまう。顔と首許が熱くなっているが気付かない。苛立ちと辛さと嫌気、それに恥ずかしさが混じったものも感じる。
「…………すけべ…………。
……こんな ふねが まものに おそわれて たいへんな ときに、 なに ヘンな ことを いってるん、 ですか……。」
恥ずかしさで泥棒髭に顔を向けられなかった。絞り出すように口から出した言葉は弱々しかった。
「……わたし、 こんなに きもちわるくて つらい のに…………。」
泥棒髭はその態度を見て、他人事のように笑う。口許に笑いを浮かべ面白く感じたようだった。
「海にウンコしたら、けっこー魚寄って来て突っつくんだぜ。ここの魚獲って食えば元気が戻り精が付くから、一発ぶっ放して獲ってやろうか?」
泥棒髭は舵輪から右手を一瞬だけ放し、両手で腰のベルトを掴みズボンを脱ぐ振りをする。
その声は昂り益々調子に乗っている。
「…………そんなモン たべたら、 よけいに はきます…………。
…………どヘンタイ。…………」
レイリーリャは眉間に皺が寄り顔が引き攣る。その頬を船縁に乗せたまま嫌そうに身体を後ろに逸らした。泥棒髭に軽蔑と嫌悪を感じる。
泥棒髭は驚いたように少し目を開くと、変態呼ばわりされた事が新鮮で満更でもないように口許が気持ち上がっている。
「ゾーコン、ムダ口ほざいてねぇで、操舵に集中しぉ!」
皺だらけの浅黒い顔をした黒小人の男が泥棒髭ことゾーコンに向かって叫ぶ。帆に掛かったロープを引っ張っている。
ハイリアルはレイリーリャの側まで寄った。
「……レイリーリャ、お前が船酔いすると解らなかったとはいえ、乗船する命令を出した事を詫びよう。」
彼は額に皺を寄せ彼女に詫びると、自分を責めるように唇に力を入れ口を閉じている。
それに釣られるようにテグドラウも彼女に近寄る。
「ねーちゃん、すまん。ハサミ野郎を片付けるまで港に戻れんから、それまで我慢してくれ……。」
テグドラウは彼女に頭を下げ謝る。
「……オレもねーちゃんの好意に甘えずに、乗せるの止めるべきだったな……。
緊急事態とはいえ、長年船に乗ってるのに、船酔いする可能性があるのを忘れるとは……バカだな……。」
テグドラウは顔を歪め自嘲する。
波に持ち上げられ漁船の船首が上を向く。直ぐに船首が下を向くと飛び込むように海面に落ちた。
レイリーリャの身体もその瞬間浮き上がり、船と共に落ちる。落ちた瞬間付けていた船縁に頬が当たり、気持ち悪さだけでなく痛みも感じる。
「……ぶな酔いすぅやつなんか、作業の邪魔になぅかぁ、端に寄せてこぉがしとけや。」
浅黒く皺だらけのフルーデルが苛立つように帆を張る縄を引きながら、集まっているテグドラウ達に向かって叫ぶ。
「そぉそぉ、手鋏鮫狩ぅ用意せい。」
皺だらけのフルーデルが指さす遙か先には、側面や背後を砕かれた漁船が手鋏鮫から逃げているのと、それに向かっている小舟があるのが見える。
「……そうだな。舳先に行く。にーちゃんはオレに付いてきてくれ。」
漁師は平静さを保とうと意識するかのように表情を作ると、握った手から出した親指を舳先に向け、ハイリアルに呼びかける。
「魔法が使えるんだろう。それならオレの後ろから魔法で支援してくれ。」
「了解した。」
ハイリアルは同意する。テグドラウはそれを確認すると舳先に向かった。
彼もそれに付いて行く。
「……ただ、氷魔法と火魔法は水中でも効果ある物を放てる程達者ではない。
「……風魔法も、水中では…………どうだろうなぁ……。」
彼は歩きながら眉間に皺を寄せ考えながら呟く。
「そんなら、ハサミ野郎が水面に浮上した時に得意な魔法で殺ってくれ。オレがこの銛でぶっ刺してやるから。」
テグドラウは右手に握った銛を彼に見せるように上げる。
「…………解った…………。」
彼は同意した。しかし眉間に皺を寄せ無言で何か考え始めた。
手鋏鮫が追いかけている漁船に鋏を叩きつけると、漁船は大きく左右に揺れた。漁船から上がった悲鳴が波の音に遮られる。逃げる漁船の後ろに浮かんだ赤黒い血溜まりが、波によって拡がり海水と混ざり色褪せていく。
レイリーリャは、どこにいれば邪魔にならならずに済むのか解らなかった。そこでとりあえず帆柱と操舵場の間に移ると、その上に横たわっていた。
彼女は相変わらず船酔いで気持ち悪く感じている。それだけではなく、皺だらけのフルーデルが言った文句に対して、無意識のうちに受け入れたくないが同意してしまい、気持ちが沈んでいる。
そこに皺だらけのフルーデルが近付いたのに気付いた。
力が出ないまま上半身をゆっくりながらも上げた。
「……やくに たてなくって すみません……。」
彼女は頭を下げる。
皺だらけのフルーデルに大事な時に動けない事を叱られるのではないかと疑う。
皺だらけのフルーデルは淡々と顔に感情が現さずに、片手に持っていたコップを彼女の前に差し出した。
「ほぇ、水だ。飲め。」
コップの中には水が満たされている。
予想とは異なっていた。
何か有難く、心が暖かく柔らかくなるように感じる。
「ありがとうございます。」
弱ったままの状態だが、レイリーリャの口許に微かに笑みが浮かび、力無く感謝する。
皺だらけのフルーデルから両手でコップを受け取り、口に付け水を飲む。水は冷えておらずぬるかった。しかしその水は柔らかく口の中に拡がり、身体に沁みていった。
「ぶな酔いが止まってかぁ、はたぁけばいい。」
皺だらけのフルーデルの声の調子は淡々としており、その顔から表情は現れぬままだった。
「そうだそうだ。ねーちゃん。ヌ=エンビの言う通り。」
ヌ=エンビこと皺だらけのフルーデルの言う事を泥棒髭が同意する。
…………このオッサン、何かロクでもないこと言いそう……。
レイリーリャは泥棒髭に心の中で軽蔑する。泥棒髭のいる操舵場の方に背を向けたまま、コップに口を付け黙っている。
「今度大釣り針に抱き着いたまま海の中に飛び込めば、クラーケン獲るのに役に立つから心配するなよッ。」
彼女はコップに口を付けたまま離さず何も言わなかった。
ライトシルバー色の髪が海風に靡く。
それでもゾーコンには躊躇する態度は現れていなかった。
「フピラ蛸は貝殻とか白いモノが好きでなッ、獲る時のオトリにそーゆーの使うんだけどよォ、クラーケンも同じ蛸だから、ねーちゃんの白っぽい髪が良いエサになるんだよッ。」
そう言い切るゾーコンの言葉の調子は平坦に取り繕おうとしているが、語尾が微妙に昂ってしまっている。
……やっぱりロクでもないことだ……。
彼女は泥棒髭の言うおちょくる内容に呆れてしまう一方、その方向性を当てたことに少し満足感らしき物を感じる。
「ゾーコン、バカな思い付きで言ってぅんじゃねぇ。」
ヌ=エンビは泥棒髭を貶す。その貶す口調は鋭かった。
「遊びなんかじゃあ、ないよ。」
泥棒髭は口許をにやつかせたまま、片手を前に出し突き上げるように腰を前後に振る。
レイリーリャは泥棒髭のいる方に一切顔を向けていなかった。それに操舵場の正面は木板で囲われていたので、泥棒髭の動きはその目に入らなかった。
フルーデルは呆れたように泥棒髭に目を向けた。何も言わなかった。そして振り返り彼女の前に来ると、飲み水の入った樽の位置を指さした。その表情は戻り、元の皺だらけの顔だった。
「また水飲みたきゃ、あぇかぁ飲め。」
「……ありがとうございます。おやさしい 人ですね。」
レイリーリャは感謝の言葉を、自らの立ち位置に戻ろうとしているヌ=エンビの背中に向けて投げかける。それを同時にしながら思ってしまう。
―――泥棒髭のオッサンは、どヘンタイ……。
彼女は言い終わってから、ヌ=エンビを褒めたかったのか、泥棒髭を当てつけたかったのか解らず戸惑った。
海風が抑えつけるように頬を叩き続け、翻る髪が陽光で白銀に輝く。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
わたくしも嬉しいです。
街にある本屋が減少し、棚に陳列された本の背表紙を眺め、興味を感じる本を手に取って読んでみるような事は減ってしまったように感じます。
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そうしていただけると、この作者の心が嬉しさで大爆発したようになり、これからの物語を創る励みと自信になります。




