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第3章 さようなら、ホモ・エコノミクス


 夏至の前になると、5時をまわっても日暮れの気配が近づかない。

 天井の古いシーリングファンが、〈Patina〉の空気をゆっくりとかきまぜている。


 ネイビーと酒卸の健司さんがカウンターに並び、賄いメシを食べていた。忙しいときは配達まで手伝うパワフルな社長が、首に掛けた手拭いで頭の汗をぬぐい、中ジョッキの氷水を飲んで、ひと息つく。

「あんた、こんなうまいもん、毎日食べてるの?」

今日の賄いは、一見ふつうの肉もやし炒めだが、肉は北海道美唄で地元特産のアスパラを食べて育ったホゲット羊、もやしは青森県大鰐の温泉熱で栽培されたもの。それに鷹の爪とクミンが、素材の味を消さない程度に、さっと効かせてある。

「タエさーん、うまかった!」

ネイビーが厨房に向かって声をかけると、店のバックを仕切る女性がニコニコと顔を出す。

「なぜかおいしい物のほうから、わたしに寄ってくるのよ」


〈Patina〉は、酒類、食材、食器から観葉植物まで、タエさんのセンスで構築されている。

 健司さんが納品伝票を彼女に渡す。

「今日の注文にヘベロフカ(チェコの薬草リキュール)が1本入っていたけど、出そうなの?」

「ウチはカクテルをやらないし、ちょっと、バリエーションで面白いかと思って……」

ネイビーは、シェーカーを振らない。たまにこだわったオーダーがあれば、シェーカーや酒類ごと一式、お客さんに渡してしまう。お酒マニアのお客さんたちは、えっ、自分でつくっていいのと驚き、うれしそうにマイカクテルを振る。

「来週、ホームページを改修するから、リストを見てよ。またお宅の賄い時に来ようかなぁ。ごちそうさん」

健司さんは、URLの書かれた名刺型チラシを置いて、仕事に戻った。




 めずらしく、開店と同時にお客さんが入った。スーツ姿のビジネスマンが4人、大テーブルで生ビールをオーダーする。見慣れない顔なので、近郊のコンベンション施設あたりへ出向いた帰りだろうか。

 今日のおつまみ三品は、アスパラ羊の香草串焼き、ひよこ豆のダルカレー、プラムの実。

 常連たちは、7時前あたりから集いはじめる。いつものように、クマくんがカウンターの右隅。隣りにはシュウトくん、L字の角を1席空けて、アッちゃんとKeiさんが座る。

 ネイビーは、先ほど仕入れたヘベロフカのボトルを、これ見よがしにカウンターに置き、自分もショットグラスで試飲している。


 大テーブルのビジネスマンたちは、空の残光が消える頃、タエさんのところで会計を済ませた。

 帰り際、その中のひとりがアッちゃんに話しかけてきた。

「あれ、MBAの才女が、こんなところで」

「こんなところで悪かったな」

アッちゃんが身体を固め、顔を下げて小さくつぶやく。


 最上俊之は、アメリカ東海岸のビジネススクールで同期だった。

 シュウトくんが、小さく声を出す。

「アッちゃんさん、MBAホルダーなんだ」

「いま、どんな仕事なの? 敦子さんならガチでご活躍でしょう。たまにはボストンのリユニオン(同窓会)にも顔を出してくださいよ」

 最上さんは名刺を配りはじめる。わたくし、ゴールド&レイノのエグゼクティブ・ファンドマネージャー、サイジョウと申します。

〈Patina〉の常連は、SNSアカウントの交換はしていても、名刺まで渡し合ったことがない。Keiさんだけが、反射的に胸ポケットからカード入れを出した。

 ネイビーは、カウンターの傍らに置いてあった健司さんのURLカードを、無造作に渡す。

 最上さんは、他人の名前や肩書には興味がないらしい。さっと一瞥して、自分の名刺を手裏剣のように配る。


 そこへ、ひとり。アッちゃんのとなりの空席に、白髪の男がひょいとすべり込んできた。

「ぶは。こわいオッチャンが来た!」

アッちゃんがうれしそうに声をあげる。

おお、お嬢、変わってへんな。

よお、クマゴロウ、スマホ替えたんか。

ハッカーもおるな。

双子は本日、ひとりっ子か。ジョンは休みか?

「オッチャン、彼はジョージだよ」

「だいたい合ってるやん」

ネイビーが元同僚の大学教授に、ヘベロフカを注いだショットグラスを滑らせる。

「セイちゃん、元気か?」

「ワイは元気か? ふつうや。相変わらず学生には人気ないわ」

ひと口飲んで、オッチャンはグラスの中身に目をやる。

「なんやこれ、新種の養命酒?」

「チェコの薬草酒だよ。あんたが飲んだら、200年は生きるだろう」

オッチャンは、ショットの酒を一気に飲み干す。

「もう一杯、大盛でちょうだい」

……オッチャン、長生きしたいのか。



 関西弁の男が突然現れ、たじろいでいた最上さんが、後ろから話しかけた。

「あのう。ひょっとして日本創生大学の清野先生でいらっしゃいますか? わたくし、ゴールド&レイノのサイジョウと申します。わたくしのクライアントが、先生の経営者向けセミナーにうかがい、衝撃を受けておりました。わたくしもいつか、ご高説を賜りたいと存じます」

オッチャンは最上さんのほうに上体をひねり、両手で名刺を受け取ると、うつむきながらじっくり眺め、しばらく口をつぐんだ。

 そして顔を上げると、一変。牧師さんのように姿勢を正し、最上さんにやさしく語りかけた。


「あなたは必死に勉強されて、素晴らしい知識とプライドを身につけられたことと思います」

最上さんは微笑んで、頭を少し下げた。

「市場原理主義や新自由主義は、成功を望むビジネスマンにとっての信仰でした。しかしいま、その信仰は崩れ去り、公正な〈見えざる手〉を持っているはずの神は、どこにもおわしません。過剰な欲望と深刻な格差が、増産されるばかりです。あなたはその知識とプライドによって、重い十字架を背負ってしまったのです」

オッチャンは、店に入ってきた当初とは別人のように、口調と物腰がやわらかい。

「知には栄枯盛衰、ときには、光と影があります。それに気づかない者は、かつての学びにしがみついて、今度は逆に、時代の抵抗勢力となってしまうんですわ。モガミさん」

最上さんは、口をポカンと半開きにして聴いていた(あの、わたくし、サイジョウです)。

「モガミさん、アメリカへ行っても突出していた、中谷巌さん *1や司馬正次さん *2をご存じですか?彼らのように、ご自身の信条をへし折って進化するかたがたもいらっしゃいます。どうか反省して、自己批判して、あなたもさらに先へ。このどうしようもないホモ・エコノミクスの時代から、脱出を先導してください。あなたのように優秀なかたの……それは、義務です」


 清野先生は、またくるりとスツールを返し、ヘベロフカの大盛ダブルロックに戻った。

「ああ、ワイの血管が、じわじわ清らかになりよる」

ネイビーが、立ち尽くす最上さんと、そしてアッちゃんを気にしながら、たしなめる。

「ビジネススクールにも、原理主義に陥らない、素晴らしいところはたくさんあるぞ。最近は、経営管理ばかりじゃなくて、哲学や社会学とか、教養も分厚く教えている」

この元同僚が、荒れたストレートしか投げないピッチャーのような性格であることを思い出した。初対面の人に、真っ向からそこまで言うか。

「ワイの指摘しとるのは、ビジネススクールそのものやない。市場原理主義やら、金融資本主義やら新自由主義あたりに巣食うとる、上から目線のTOP GUNごっこや」


「オッチャンさん、ホモ・エコノミクスって、なんですか?」

シュウトくんがぽそっと訊ねる。

「ほれ、クマゴロウ、検索GO!」オッチャンが丸投げする。

クマくんはすでに指を動かしていて、短めの解説文を選んで読む。


〈ホモ・エコノミクスは、経済合理性に徹して、自己の利得を極大化させること目指す。他者の利得を考慮することがない。そうした行動基準をとる人間の類型をいう〉*3


「おのれの利益のために、世の中すべてを計算づくで判断する人類のことや。ホモ・エコノミクスを布教・増産したんが、まぁ、ミルトン・フリードマンを教祖とする一派と言うても、ええやろ」


 オッチャン節が、高揚しはじめる。

――社会の中から経済が突出して、主役化してもうた。それやから企業経営の、そして競争優位のスキルを握っているヤツらが、まるで自分たちを全知全能のように勘違いするのや。

 ホモ・エコノミクスをマイモデルに据えたエリートは、市場で純粋に勝負するのが、自由な人間の正当な活動やと考えた。

 しかしヤツらは、自由主義と言いながらも人間の尊厳を考慮せんわ。ひとを利益製造装置のパーツとして嵌め込むことが、企業価値を最大化する王道であるかのようにふるまう。

 ビジネスの世界は、その教えをまるでバイブルのように崇めてきたやないかい。どこが自由やねん。

まったく、ナニさまでおわしますかは知らんけど……。


 アッちゃんが、クスっと笑う。

「オッチャン、怒ってること全部、フリードマンっていうひとに放り込んでるよ」

「酒場には、ヒールが必要なんや。もはや彼の時代でもないんやけど、残念ながら、その薫陶を信じた人間が、いまのリーダー層にぎょうさん残ってんねん。あれは学問の功績以上に、経済学へ権力闘争を持ち込んだ、イデオロギストやないかな……ワイはな、なにごとも短絡的にやり過ぎると、ある種の選民思想に行き着くんちゃうかと心配なんや」

「自由主義は、ファシズムもポピュリズムも生み出せるからな」

ネイビーが反応する。

 Keiさんは、NHKで観た歴史ドキュメンタリーを思い出した。ナチス勢力は、クーデターで政権を取ったわけではない。熱狂的に支持されて、国の統治を任されたんだ。

 シュウトくんも自分の関心領域から、清野式ラディカル・セッションに参加する。

「ビッグテックもいまは批判を浴びているけど。僕らは少し前まで、大きくて古い体制を打ち破るベンチャーとして、応援していたんですよ。それがどうして、こうなっちゃったんだろう」

「ユヴァル・ノア・ハラリさんの『ホモ・デウス』は読んだか? データを支配する少数のエリート層に富と権力が集中して、普通のひとびとが、そのアルゴリズムに喜んで自分を委ねてしまうことを心配しとるんよ。ハラリさんはイスラエルのおひとやから、ナチスの選民思想は意識するやろな」


 ああ、酒がうまい、舌がよく回る、という元同僚のグラスに、ネイビーはヘベロフカを多めに注ぎ足す。薬草酒って……毒舌出しの効果もあったかな?

「僕もそのお酒、飲んでみていいですか?」

シュウトくんなら、クラッシュアイスで、レモネードを垂らすといいかもしれないよ。


 最上さんはカウンターの背後、大きなトックリ椰子の脇で、電柱のように立っている。清野先生の話を聴いて、自分の持つビジネス界のメンバーズ・カードが、有効期限切れにされたような気がした。彼らの話が聞こえてはいるが、まるで脳だけがしゃぼん玉の中に包まれて、その辺にぽわぽわと幽体離脱している心地がする。


 マッド・サイエンティストのような白髪のおじさんが、言葉の機関銃を乱射している。

――リーマンショック以降、経済は大した反省もせえへんかった。ワイらはいまだに、ホモ・エコノミクスもどきが徘徊する市場経済の中におる。

 企業は相も変わらず、時価総額の虚構の山を、ようも飽きずに登りよるわ。グループホールディングス制も、100年もたない、古いモデルになるかもしれんで。企業の参謀本部は、経営説明の書式を社会派っぽく書き替えれば済む話やない。

 そもそも、登る山を変えんと、いつまでたっても屍だらけの、二〇三高地になるわ。


 オッチャンの銃弾が、Keiさんの記憶に刺さる――マーケティング開発にいる後輩と酒を飲んだ時のことだった。

 僕、この前、経営企画の部長代理から呼ばれました。

「ややこしい研究なんかしていないで、バカでも使える装備をつくれ」って言われました。

吉岡さん、そんなことばかりやっていたら、会社全体がバカになってしまいませんか。

 兵隊はカンタンに使える鉄砲でも持って、作戦通りに戦場を走ればいいってことでしょう。僕らは、経営本部さまの単なる駒ですか? こんな会社にいて、僕は成長できるのかな?

……彼の転職を、おれは引き止められなかった。



 最上さんは、新卒で日本のメガバンクへ就職した頃を思い出していた。

――入社前から不良債権問題が深刻化し、欧米ではすでに、いくつかの金融機関もつぶれていた。

 リーマンショックが起きた。

 ある日突然、メディアが一斉に同じ言葉を報じはじめた。

『ついに金融危機が、実体経済にも影響を及ぼしはじめました』

えっ、金融って、実体経済じゃなかったの?

 テレビはどこも、あら、そんなことも知らなかったの?と言わんばかりに、ニュースキャスターが同じ文言を繰り返していた。


 その後は、感情のスイッチをオフにして働いた。顧客のしあわせなど考える余地もない日々。ある事業主が、目を真っ赤にして言った。

「借りろ借りろとさんざん煽っておいて。あんたらはバンカーじゃない。ただの金貸しだ」


 ようやく経済が回復に向かおうとする矢先、東日本大震災が起きた。

 海外留学は、そんな自分にとって仕切り直しの節目になった。カラカラに干からびた心身に、講義やディスカッションが滋養のように沁み込んできた。


――この店のひとたちがしている話、まわりの同僚とまったく違う。誰が何百億、売りを浴びせた。向こうのファンドが買戻しをはじめたぞ。あの投資家、電車に飛び込まないといいな。

 ぼくの世界が虚構だと言われれば、その通りだ。

 もう一度、仕切り直すチャンスはあるのだろうか。でも次は、なにを勉強すればいいんだろう?変わらない線路を暴走するこの列車から、自分はもう、降りられないのではないか。




 こわいオッチャンが、急にくるりと背後を振り返った。

「モガミさん、こちらで一杯、飲みませんか?」

「あのひとがまだいるのを知っていて、しゃべっていたのか?」

ネイビーが目を剥く。

「わかっとった。背中に心眼がついとる」

よくもまぁ、本人に当たり障りがありそうな強い批判ができるもんだ。

 最上さんは、ここで帰るのも逃げるようでイヤだなと思い、誘いにのる。

 ありがとうございます。礼儀正しく挨拶をしてKeiさんのとなりに座る。では、ぼくも先生と同じ薬草酒をお願いします。

「お酒、大盛やで。ワイはジェダイの騎士がこの店に現れるのを、ヨーダのように待っとったんよ。ほな、はじめよか」

 ネイビーは心の中でつぶやいた。みんな、気をつけろ。この滅茶苦茶な関西弁は、毒舌のツノ隠しだ……セイちゃんは、千葉の船橋出身なんだ。


「モガミさん、いまからワイの言うことを、添削してもろてよろしいか?」

「あの、わたくし、サイジョウと申します。恐縮です」

「おりゃ、のっけから添削されたわ」

店の空気が、少しなごむ。


「フリードマンは、もうええな。彼は経済を考える際に、師匠のハイエクが『市場こそ、人知の及ばぬ天の摂理や。政府は余計な介入などせんでよろしい』と言うとる、うわっ面だけをつかみよった……そのハイエクと、ケインズについて、あんたと話してみたいんや」

「〈小さな政府〉と〈大きな政府〉のお話でしょうか?」

「そやそや。その対立関係の、おおもとのところなんやけどね。ケインズもハイエクも、ほんとうは、人間ちゅうのは、どうしようもないやっちゃ、と思うてた」

「ああ。ケインズの課題は、不確実性……経済に関わるひとは、誰も将来にわたって合理的な判断などできないと思っていたようです。特にあの時代は大恐慌がありましたから、大衆のふわふわした不安が、金融のプロの判断も狂わせると」

「さすがやな、サイジョウさん」

「恐れ入ります。経済思想史はいくぶん苦手なのです……わたくし、ふだん、あまりひとに叱られないものですから、ぜひご指摘ください」

「ええねん、だいたいで。酒場で論文を書いとるわけやない。はいっ、では、ハイエクいこか?」

「ハイエクは、たしか……そもそも人間の知識は不完全で、断片的だと言っていたような」

「そこや。な、オモロないか? 対立的な二人の巨匠が、人間はどれだけ利己的・合理的にふるまったところで、ホモ・エコノミクスなんぞには程遠い。そう前提に置いとんのや。思考は分かれたけどな。

ケインズは、どうしようもない人間がつくり出す無秩序な市場を、政策でサポートせなあかんと考え、ハイエクは、断片的な知識しか持たん人間やけど、自由に知恵を競い合えば、過度な政策介入などせんでも、市場はそのうち秩序を自生すると考えた。間違うとる?」

「ざっくり、おっしゃる通りではないかと。改めて考えると、どちらにも一理ありますね」


「ケインズはイギリスに生まれ、斜陽の国を政府の側から考えた。あのひとの政策は、かなりゴチャゴチャしとるように言われるが、あれだけ激動の時代やで。学問の筋などより、変化に対応して次々と手を繰り出すことを優先した、リアリストやと思う」

「そうか、一方のハイエクは、オーストリア生まれです。厳密にいえばオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊して、第一次世界大戦の火元になりました。彼は混乱の中で、貧しい暮らしを強いられた時期もあったようですから……たぶん、〈国家〉というものを、心底では信じ切れなかったのかもしれませんね。うーん、先生。人間の思考には、物語がありますねぇ」

「ワイはこのふたりの考え方の前提に共感がある。サイジョウさん、彼らは同じ母胎から生まれて、立場と経験によって思考が分かれたような気がするんや」

「……不合理な人間観ですね」


Keiさんやシュウトくんも、小さく頷きながら聴いている。

「そや。あの偉人たちは、ただの経済学者やないで。ケインズは純粋な理論で方程式をいじっとったオッサンちゃうわ。大恐慌の時も、ざわざわした市井の気配を、人間として感じ取ったんやろな」

「ハイエクは経済を越えて、哲学や社会思想に思索をひろげます。それもやっぱり、リアルな人間への関心でしょうか」

「おうおう、サイジョウさん、ええ感じや。あんた、ただの官僚的なMBA持ちとちゃうな。ワイらはある意味、名コンビやね♡」

勝手にオッチャンの相方にされた最上さんは、戸惑うことなく、むしろ相好を崩している。

「大変光栄です。ついでに申し上げると、近年では行動経済学や経済心理学などが、人間の意志には不合理があるという前提に立った研究を進めていますが、そちらもまだ、行動や心理をそう純粋には学問上の普遍理論にしづらい……そこは人間の、永遠の課題かもしれません」


 ネイビーは思う。この最上という男は、真面目で善いひとなのだ。

 セイちゃんは、タヌキだ。

 ……ん? これはある種のマインドセットをやっているのか、清野先生。


 行きがかり上、聴講生にされてしまった常連たちも、声を交ぜはじめる。

「不合理な人間が合理的に働こうとするから、生きづらいんでしょうか?」

「会社は、自由と統制をどうやってバランス取るんだろう?」

「ホモ・エコノミクスなんて、ほんとにいるのかな?」

アッちゃんは、最上さんに対する態度を、少しマイルドにして訊いた。

「ケインズの本が売れているのは、コロナ禍がきっかけでトレンドになったの?」

「コロナ禍は、どの国も政策介入するしかなかったよね。アメリカですら、自動車会社に人工呼吸器をつくるよう、大統領令が発動されたり。でも実は、パンデミックの少し前に、ビジネスラウンドテーブルが」

最上さんは常連たちに親切な解説を加える。

「……アメリカの財界団体なんですけど、そこが株主資本主義からステークホルダー資本主義への転換を打ち出しています。利益ばかりを追ったコントロールの効かない過剰な競争こそ、自分たちの首を絞めているっていう。資源問題や貧富の格差のほうが、ケインズ復権の要因かもね。いまはもう、ケインズかハイエクか、なんて、派閥争いこそ現実逃避っぽいのかな。災害、戦争、技術革新……いつも非常時みたいだし、ひとつの思考の重箱の隅を突いていてもね」


 オッチャンが大きくうなずきながら、常連みんなに向かって話す。

「現実は、頭で覚えた数式や一義的なセオリーのようには、動かんちゅうことや。どんな流派にも耳を傾けるのがええよ。ひとつの時代やひとりの教えを金科玉条のように信じすぎて、プライドとはき違えてあたりを睥睨するのは、案外もろい。世界は、複雑系で混線系なんや」

 知には、時代に沿うた流れがある。その時々で参照すべき先達の叡知は、変わるんよ。

 そこを読まんと、盛者必衰。おごれるもの、久しからず。


「それとな。ケインズとハイエクには、もうひとつ、こころを同じくする前提があると思うねん」

——道徳というか、モラルというか。ケインズは、ホモ・エコノミクスが道徳的価値観を踏み外すなら、政策で防衛できる場面もあると考えた気がするんやわ。ハイエクは、自由放任主義のように見なされとるが、銀行の活動には規制をかけるべきだとも言うてんねん。道徳的価値観や習慣も含めた法のもとで、フェアにやってこその自由主義やとね。

「これまでは経済合理性がビジネスの道理やった。世界がサステナビリティを言いはじめた時点で、経済合理性は経済道徳性に書き換えられるべきやないかね。つまりは人間の、同胞と生存圏に対する、質的な慈しみや……な、サイジョウさん」

「先生。わたくし、耳の痛いかぎりです」




 Keiさんが訊く。

「オッチャンさん。市場原理主義や株主資本主義をケインズ側……それよりさらに社会民主主義やマルクス主義方面にでもシフトすると、世の中はもっと、生きやすくなりますか?」

「ワイは……ならんと思う」オッチャンが、あっさりと否定する。

「残念ながら、社会や組織集団のシステムに起因する生きづらさは、永遠に解消せえへんと思う」

――さっきワイは言うたで。批判しとるのはMBAやない。資本主義でも自由主義でも社会主義でもないのや。集団になれば一部に必ず現れる、妙なエリート主義が問題やと。

「問題の本質は、ビューロクラシー(官僚的形式主義)と、コンフォーミティ(体制順応主義)や。官僚ちゅうても、公務員の批判やないで。どこにでも巣食うてる、権威的な事務形式主義という意味や。その体質が、現状を動かさん前例主義とセットになれば……そりゃもうな、あかんやろ」


 オッチャンは、一度息を吐きだし、今度は慣れた講義のような標準語で言葉を唱える。

「官公庁、民間企業、マルクスの言うアソシエーションも、商店組合だろうと、あらゆる組織はそれが生み出された時点から、効率的に集団活動を行うための事務局コンポーネントが形成される。つまり、システムと手続きの中枢です」

――効率よく活動したい組織は、大きくなるにしたがって、システムと手続きが増殖します。評価項目、報告手続き、調整会議も増え続け、そのうち管理セクターに匿名的な権限が集中していくのです。

 官僚的形式主義と体制順応主義は、無機質でブルシットな書類も増産します。資本主義であろうとなかろうと、集団が動き出せば、そのドライな権威システムは、必ず成長してしまうのです。組織のデザイン権、予算編成権、管理指標の設定権、そして人事権。これらを統治する事務セクションにビューロクラシーが巣食いはじめると、管理中枢は、人間の群れを歯車に仕立て上げる……当の自分たちでさえもです。

 いまや資本家が労働者を搾取しているというより、組織メカニズムにおけるビューロクラシーが人間を隷属させている。暴走する経済が搾取しているのは、地球資源だけではなく、人間性そのものです。


「ネイビー、もう一杯注いでくれ」

ゾーンに入ったらしいオッチャンが、息を継いだ。

 金融ファンドの最上さんが、真剣な表情で聴いている。組織だけじゃない。ぼくは金融システムに隷属して、自分の人間らしさを搾取されていた。前だけ向いて、足元を見ずに走っていた。


「ワイから言わせてもらえば、東と西、北と南で対立しようと、右と左が闘争しようと、宗教同士が憎み合うたところで、虚しいもんや。あらゆる陣営がビューロクラシーとコンフォーミティに侵されてるやん。リーダーが言葉でええことを言うても、管理中枢が官僚主義的計画経済のような態度を取りだせば、どんなこころざしを以てしても、実態は人間を疎かにしはじめる。それが人間の性や。

 そしていま、効率を管理するセクターの権威意識が、強くなり過ぎなんや」

根気よくスマホにメモするクマくんの頭の中で、言葉がつながった。

「ホモ・エコノミクスのTOP GUNごっこか」

そこへ、シュウトくんならではの解釈が寄ってくる。

「オッチャンさん、ネット上で、特にDAO(分散型自律組織) *4を提唱するひとたちが、60年代のヒッピー・カルチャーに関心を持つのは、そういうギスギスした仕組みへの反発なんでしょうか?」

「……かもしれん。ガチガチの反体制運動というより、ピースフルな連帯への憧憬もあるやろな。せやけど、ヒッピーだろうが明るい農村だろうが、集団やネットワークには、いずれ管理支配が頭をもたげる。なんせ人間がそれを好きなんやから。敵は、陣中で育まれる」


 ネイビーが指先でショットグラスを回しながら、元同僚の即席セミナーを聴いている。

――たしかに、好きなのかもな。ホモ・サピエンスはネアンデルタール人より弱かった。それでも生き残れたのは、集団で助け合いながら活動したからだといわれている。我々は組織に依存する。依存すればするほど、孤立を感じないで済む。リスクも回避できる。分業が生まれ、階層が生じ、いつの間にか、その組織の中央集権的な上意下達が、世界の常識だと思いはじめる。  

 人間の内には、自由でいることの不安から逃走する習性があるのだ。それが、ビューロクラシーやコンフォーミティが繁殖するエサだろう。


「で、セイちゃん。どうすりゃいいんだ? これからのひとたちは」

オッチャンが、カウンターの後進たちを見回しながら、静かに語りかけた。

「ワイらには、時代の変化に対して、自分も変化する権利がある。体制順応主義というのは、変化に適応したがらない主義とも言える。組織において、自分が想うほどの変化が許されへんようなら、時代に淘汰される前に……逃げろ」


――いくつになっても、どんなエラい階層になっても、システムへの嵌め込みから解き放たれようと、あきらめず、もがき続けるんや。やりようは、新規案件でも転属でも転職でも起業でも、なんぼでもあるはずや。組織が凝り固まってんのなら、自分を流動化してええんよ。

 自分の人間存在まで、押し殺して働くな。


「……あのう。ひとつ、いいですか?」

Keiさんが訊ねる。

「かまへんよ。な、サイジョウさん」

最上さんがオッチャン・システムに取り込まれていく。

「副業・兼業は、どうでしょう? 本業に逃げ場のないような閉塞感があって、もし、副業にそれがないとしたら、少しはガス抜きになりませんか?」

最上さんが謙虚に受ける。

「副業・兼業には、収入アップのための単純なバイトとか、自分の可能性をひろげるためとか、さまざまな意図がありますよね。それにもよりますかねぇ。あ、発言、失礼いたしました」

「確かに副業・兼業の〈質〉は、一考の余地があるわな……しかし、大きな企業の思考には、しょうもない盲点があるな。あんたら大企業は、自らは間違いなく本業であって、『副業を許可する』と言うやん。ところで許可された社員が、実は副業のほうにエンゲージメントを高く持っとったら、どないすんねん。ああ、大好きな副業ではよう食えん。本業ではリスク抱えず、タラタラ稼いどくか」

「まいったな。あり得るな」

「Keiクンの立場で、社員と一緒に先へ行くんやというのなら、徹底的に仕事を多様にして、ひろくオモロく提供するか、転職したら手に入らんほど、学んで成長する機会を用意するしかないわ。

 AIの受付番台みたいに、はい、プロンプト、コピペして貼りました、アタマぜんぜん使うてましぇ~んみたいな、受け身の仕事をぽろんと用意しても、これからのひとたちが寄るかいな」

「おっしゃる通りです」

……でもね、そっちの受け身で働くほうがいいひとたちも、多いんですよ。

「ただし、脱出する側も、よりモラルと能力を問われるやろうね。単にわがままなお子ちゃんが、お肉屋さんよりアイスクリーム屋さんが好きや言うたって、そら、アイスクリーム屋さんのほうにも、なによりお客さんに、価値を選ぶ権利はあるやろ。どんなアイスクリームをつくれば世の中に喜ばれるのか、こころざしも粘りも大切や。〈好き〉にも松・竹・梅の質がある」


「僕、なにが好きで、なに屋になりたいのか、本当は自分でもよくわからないんです」

「シュウトくんは、我が道まっしぐらかと思ってた」

アッちゃん、ちょっとびっくりする。

「メシが食えて楽しいなら、目移りは、ええことかもしれん。考えてみいや。会社の中で、あんたのジョブ雇用は、これでっせ。この職能をリスキリングしてくださいと言われたって、そのジョブがAIに喰われず、2年後にまだあるのかどうかもわからへんのや。

〈うつろえる〉というのも、一種の能力かもしれん。

 それに、組織の都合通りに変化するだけでは、時代が変わるスピードのほうが組織より速い場合、この先、もっと立ち遅れてしまう。自ら学ぶ責任は、いま以上について回るはずや」

――言われた通りにやればいいことは、もう、みんなやっとるわい。自分で工夫して考える能力は、結構、他でも活きるもんや。でもなにかオカシイぞ、そう思ったら、シバリから脱出するチャンスを狙おうや。


ワイだって、逃げ続けておるよ。前の会社から。教授会から。さっきは、教務課の針ヶ谷さんから……そして、誰も見たことがない、ホモ・エコノミクスといわれる机上の人類から。

「すまんな。こうすればビジネス・スター、みたいな答えはないねん。ただな、あんたたちには、揺れて悩む時間が、まだ、ぎょうさんあるやんか。悩むのを、悪いことのように扱うな」

オッチャンは、ひとりひとりと目を合わせながら話す。

「大事なことを言うで。脱出にはそこそこ知恵がいるんや。毎日毎日、しゃあないSNSに頼るより、なぁ、いい本とつき合う時間をつくらへんか。そして自分の内にあるモヤモヤと向き合うんや」


――ひろいひろい知の海から、ひと筋だけの教えにしがみつくのやなく、まずはおのれの感性にたずねて叡知を拾い集めるとええよ。

未来は、良くも悪くも訪れる。

いまは未来へと進むための〈希望〉が薄っぺらなんや。

メディアやトレンドに追随せず、自分と時代の行先を想い描け。まずは、ひとりで考えよ。

昨今はみんな、共創や共創や、どこも言いよるけど。そもそも独創と独創が混ざらんことには、共創なんぞあるかいな。

ほんまに未来を選び取るなら、前例慣習に背を向け、多少の孤独は受け入れて、ひとりで想いを煮詰めなあかんで。

自由方面へ逃走し続けるんやったら、表面的なテクニックとちゃう、良い知を心身いっぱいに吸い込んどき。うろうろ迷ってあがくことこそ、人知の苗床だ。




 しばらく、静かな間合いが訪れた。氷の音をカランと立てて、オッチャンがグラスを置く。

「さあ、ネイビー。ワイは今日もええことを言うた。サイジョウさん、ありがとう。帰ろうか。おーい、タエさん。豚串うまかったで……あれ? おやぁ? ヒツジやったの?」

 こわいオッチャンは、風のように現れ、炎のようにメラメラとしゃべり、煙のように消えていった。

 最上さんは、煙に巻かれて一緒に帰った。




 残った常連が、天吊りモニターの海外天気予報をぼんやり観ている。

 シュウトくんが、ネイビーに訊く。

「オッチャンさんは、むかしからあんな、エッジが効いた感じですか?」

「あのひとは、現場にいるときはジェントルマンだったよ。いまでも表面的なつき合いでは、そうだろう……あんな風に話すのは、みんなのことが好きだからだよ」

アッちゃんがすっぴんの顔を、おしぼりでゴシゴシ拭く。あ~、なんだかサッパリした。

Keiさんは、太いもみあげを指でつまんでいる。

「あのひとの言っていることは、正しいんでしょうか?」

「どうなんだろうね。おれには世界中でなにが正しいのか、実はよくわからないんだ」

彼の話は、きっと専門的には穴だらけだろう。真っ当でもないだろう。でもおれは個人的に、ツカミはだいたい共感するよ。あれは真摯な研究者じゃなくて、仮説の扇動者だと思う。

……まわりにそういうオジサンも、いないとさぁ。


 ネイビーは、一夜で空瓶になったヘベロフカを片付ける。

「セイちゃんは、学校が就活の場みたいになっているのに、学生たちの前でも、サラリーマンなんか目指してどうする、なんて煽っちゃうんだ。本人は人気がないってボヤくけど、彼のゼミは、起業家やソーシャルな活動をする若者とか、尖ったチャレンジャーの梁山泊みたいになっているらしいよ」

清野は、これからのひとたちが希望をもって仕事に打ち込んだり、思いもしない職業を発明したりするエネルギーに、少しでも着火しようとしているんだ。そのためには、停滞と仲良くするなって。

 あのオッチャンの言っている「逃げろ」は、「攻めろ」なんだよ。




 アッちゃんが、ひとり残った。

 モニターや大テーブルのスペースは電気が消され、カウンターまわりだけが、おだやかな光に包まれていた。タエさんが、アイス・アールグレイをデキャンタで置いてくれた。

 普段より少し落とした声で、アッちゃんはネイビーに、ひとり語りをはじめる。


――あたしは、いわゆるリケジョなんだ。理工学部応用化学科。でも就活は総合職で応募して、欧州系メーカーの日本支社に決まった。4年目に、運よくビジネススクールへ行けることになって。修了後は、間をおかず、スイス本社へ転属になった。

 そこで繰り広げられていたのは、アフリカ大陸の希少資源を狙う、熾烈な利権競争だった。富と覇権を奪い合う酋長になることを、あたしにも要求されているのかと思い悩み、すこし心を傷めて退社した。


――日本に帰国後は、科学未来センターのイベント企画を手伝うようになった。

 ある時、金沢で催されたコロンビア大学のDeath Lab(都市と死について考える研究チーム)の展示を観に行った。クリエイティブ・ショウケースの中に、印象深いものがあった。

 ニューヨークに、マンハッタン・ブリッジというランドマークがあるでしょ。その橋の下に、無数のお棺が安置されている。お棺に内蔵されたバイオマスのテクノロジーで、人間が土に還る最後のエネルギーをいただいて、橋のあかりを灯す、というアイデアだった。

……科学技術の行き先は、もっと文学的なファンタジーじゃないのかな。

 あたしは自分の学んできたことに、すこしだけ希望を取り戻した。


――イベントの手伝いをするうちに、子ども向けの科学マガジンから、編集の仕事をいただけるようになった。

 ある日、地方の大学に所属する研究所を取材した。そこでは毎夏、地域の子どもたちを招いて科学の実験イベントを開催していた。研究所を率いるのは、フンボルト賞を受賞するような立派な研究者さん。リモートのインタビューで、その先生が話してくれた。

「子どもたちに会うのが、毎年毎年、ほんとうに楽しみだったんですよ」

当時はコロナ禍で、ほとんどのイベントが中止を余儀なくされていた。

「子どもってね、我々でもアッ! と思うような質問をしてくる。研究者同士で話をするより、よっぽど面白いんだ。早く子どもたちに会いたいです」

――あたしたちは、いつ、どうして、すごい科学者がアッと驚くようなイマジネーションを失ってしまうのだろう。あたしの関心は、次第に科学から、子どもの無心な感性へと移っていった。


「よく、キラキラのビジネススターが『やりたいことをやれ!』っていうけれど、あたしはなにをしたいのか? ブラブラ働きながら、ずっと考えていた。

 あるとき、わかった……これから旦那をみつけられるか、できるかどうかはわからないけど」

アッちゃんは最上さんの名刺をカウンターの上でくるくる極細に丸めながら、顔を上げる。

「あたしは、いいお母さんになってみたい……それじゃ、ゆるいのかな」


ネイビーは、グラスを拭きながら、眼尻の笑い皺をいっそう深くしてつぶやいた。




「……アッちゃんも、ヒューマンなんだよ」





本文 注釈


*1 中谷巌 

細川内閣、小淵内閣ブレーンとして、規制撤廃、構造改革を推し進める急先鋒であったが、行き過ぎた新自由主義や市場原理主義、グローバル資本主義のもたらす弊害に限界を感じ、警鐘を鳴らす側に転向する


*2 司馬正次 

TQMトータル・クオリティ・マネジメントの世界的権威として知られるが、インテル創業者のアンドリュー・S・グローブ著『パラノイアだけが生き残る』(日経BP社)に衝撃を受け、常識を越えたブレイクスルー型マネジメントの必要性を解くようになった。デミング賞本賞受賞


*3 ホモ・エコノミクス 

ブリタニカ国際大百科事典より


*4 DAO 

分散型自律組織。ブロックチェーン技術によって透明性が確保された、非中央集権型組織

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