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第1章 知覚センサー、機能不全


 初夏の日が暮れる頃、〈Patina〉に常連が集いはじめた。

 今夜はカウンターの右隅から、クマくん、ジョージ。L字の角を回って、アッちゃん、その先に双子のYOさんとKeiさんが並ぶ。少し離れた奥の席には、50代前半ぐらい、スーツ姿の男性が飲んでいる。ネイビーはその男性に近い端で、10センチ角のアイスキューブを、黙々と球形に削る。


 日替わりのおつまみ三品は、浅蜊と小かぶの炊き合わせ、トラジ(桔梗の根)のキムチ、茂木のビワ。小腹が空けば、タエさんが鶏ガラで出汁をとった温麺も供される。

 天井吊りのモニターでは、字幕付きの海外ニュースを微音量で流している。いま画面は、幸福度No.1の国であるフィンランドが、伝統に基づいた〈しあわせ〉を学ぶ専門コース(Masterclass of Happiness)を設立する、という報道を映し出していた。常連たちは、モニターにぼんやりと目をやりながら、助走をはじめるかのように、話の火種を探していく。


「マスタークラスって、修士課程なのかな?」

「しあわせの論文を書くの?」

「おお、サウナを教室にしているぞ」

「それだけで充分、しあわせそうだよ」

「世界中から10人募集だって」

「たぶん人数は、サウナのサイズで決めたんだ」

「しあわせって、誰も教えてくれなかった」

「うまくなるなら、教わりたいよ」


 Keiさんが、瓶ビールを自分の小グラスに注ぎながら、みんなに話しかける。

「……しあわせかぁ。いま、会社で揉んでいるんだけどさ、〈創造性〉っていうのも、ふつうの学校じゃ科目にないよね……どうやって学びをつくればいいんだかなぁ」

 ネイビーが、獲物を嗅ぎつけたかのように、すーっと会話に寄ってきた。

「それな。どこの会社も〈創造性〉って言うけれど、おれにはどうも、本気で取っ組み合っているように感じないんだ」


 今夜のみんなの集合地点が、浮かび上がった。




 Keiさんは、3年前の年明け、〈創造性〉案件のはじまりを思い返す。プライベート・ブランド飲料の開発を仕切っていたある日、和田常務から呼ばれた。

「ウチの人財育成を頼みたい」

和田さんは、Keiさんが個店運営を手がけていた頃の、エリア統括マネージャーだった。現在は人事領域を担務する元上司から、青天の霹靂オファーが降ってきた。

「梶原副社長が、経営革新の旗を振っているだろ? その流れで、ウチを変えて欲しいんだ」

……梶原さん?


 Keiさんが勤める食品スーパーの現場は、中央集権的に本部が指示する販促政策や、新商品投入の加速に疲弊していた。個店の社員は業務のスピードが上がるほど、自身の任務にのみ視野狭窄していった。

 会社は梶原副社長をリーダーとして、現在の事業モデルを抜本的に改めようとしていた。


「当社には、異端と大胆が足りない。創造的人財の育成を、本気でやりたい」

梶原さんは、次期経営戦略会議の冒頭で、そう言った。

「経営もマーケティングもマーチャンダイジングも、形ばかりの戦略なら何パターンでも描ける。その図面通り、一生懸命に働いてもらったって、楽しくもなんともないだろう。

〈食べる〉という人間の豊かさを、ひとりひとりが暮らしの地面にしっかり足をつけて、改めてとらえ直そう。各地の現場こそ、アイデアの苗床にすべきなんだ。地域採用も増やす。職種や勤務地選択の自由もひろげる。働くことに、もっとワクワクする会社になろう」


 経営陣は、スケールメリットに依存した事業モデルから、地域ごとの食文化に新しい価値を提案する、自律分散型ビジネスモデルへの転換を構想していた。そのためには、各地の風土に深く踏み込み、単なる郷土物産の販売を越え、地元の生産者や消費者と共に価値創造を企てるような、発想力の豊かな人財育成が課題だった。


「……どうして、私なんですか?」

Keiさんが、かつての上司に訊く。

「吉岡が店をつくっていたとき、〈パートさん合コン〉って立ち上げただろう? あの感じがね、これからの現場に必要だと思うんだ」

……合コンって、〈井戸端会〉のことか?




 もう12年以上前のことだ。おれがはじめて任された小ぶりな個店では、正社員とパートさんの間に、微妙な溝を感じていた。顔を背けているわけではないが、お互いに感知し合うのを避けているような……どうにもムズムズして、勤務シフトをやりくりしながら、パートさんとおれたちが話すお茶会を企画した。テーマはない。そんなものを設定したら、おざなりな連絡会や勉強会になってしまうのが目に見えたから。


 はじめはみんな、モジモジと他人行儀だった。評判もイマイチ。でも、1年は絶対にやろうと決めて、粘って粘って続けていくうちに、みんな少しずつ井戸端会に慣れていった。職種や職階を越えて、ひとりの人間としておおらかに世話ばなしをする。誰もが、下町のおばちゃん遺伝子を持っているのだ。


 ある日、パートの島森さんが話をはじめた。

 お客さんの中に、買った商品のラップやプラ皿を全部はがして捨てて、ポリ袋に詰め直すひとたちがいるの。あたしはやらないけど、気持ちは、ちょっとわかる。家でプラごみをいっぱい出すのが、いやなのよ。

 そういうお客さんがいることは、他のスタッフも気づいていた……気づいたことを流さずに言いだしてみることが、けっこう大事なんだ。一見、他愛のない話題が何気なくテーブルの上にのって、そこではじめて、みんなのヒントに昇華される。


 考えてみれば、なんでもかんでも〈1パックいくら〉に仕立てすぎていたのかもしれない。商品を手に取ったり、好きなだけ買い、エコに持って帰ってもらった方が、買い物は楽しいんじゃないか……そう、当時はサステナブルじゃなくて、エコっていう言葉だった。


 おれたちは和田さんに提案して、実験的に店の陳列を変えてみた。野菜はなるべくプラ皿を使わない。魚介はモノによって、氷を敷いた上に一尾ずつのせる小さなコーナーを設けた。肉類も一部は量り売りにした。衛生管理の手順改訂や、改装コストもかかったけれど、客足も売れ行きも伸びた。

「お店が、むかしの商店街みたいになりましたね」

お客さんが、笑顔で言った。


 正社員もパートさんたちも、手の空いている時は野菜の盛りを直したり、職場の空気に賑わいが生まれた。近隣の高級スーパーからも、お客さんが流れるようになった。


 なにより変わったのは、セクション間の共働だ。たとえば、厨房でひたすら魚を捌いていた調理スタッフが、陳列の様子を気にして頻繁に店頭へ出てくる。そこで彼らは、以前より商品の目利きをするようになったお客さんの声と出会う。

「タイ料理風に、スパイシーな炒め物をつくりたいんですが、魚なら、どれがいいですか?」

「ホウボウはどうでしょう。三枚におろしますよ。あとは、メカジキも合いますよ」


 こうした出来事が、井戸端会を通じて、総菜担当や販促チームと共有される。

「エスニックな味付けって、あまりやっていなかったわ」

「激辛のシール、つくってみようか」

「それ、試してみましょう」

本部からのデータだけに依存せず、効率ばかりで運営を考えず、毎日みんなで試行錯誤している感じが、楽しかった。


 和田さんは、Keiさんの挑戦を評価した。そして、規模と立地によって導入可能なケースとして、社内でモデル共有した。

「ウチらしい創造性って、ああいうことが、はじめの一歩じゃないかと思うんだ」

「……マルシェ風の店舗デザインは、もうどこでもやっていますが」

「吉岡、デザインより気持ちの部分なんだ。私の反省は、あのとき店づくりの事例として、書類を撒いて済ませてしまったことだ。本当は事例を参考にせよではなくて、〈合コン〉みたいな活動を各地でどんどん起こすにはどうすれば良いのか、もっと根っこを考えるべきだった」


 事例の共有だけではうまくいかない理由が、Keiさんにはわかった。あの時、自分の店では、正社員もパートさんも学園祭の準備をしているような〈熱〉をもったのだ。冷めた図面やマニュアルは、ひとびとの熱までは生まない。

――特別なアイデアを出したわけではなかった。おれがつくったのは、みんなが立場や規定にとらわれず、言い合って試し打ちができる、ぶっちゃけた場だけだ。

 いまはそうした雰囲気を〈心理的安全性〉と呼ぶようだけれど、立派な言葉があるわりに、実際には、打合せ前の小さな井戸端タイムすら、無駄扱いしていないだろうか。


 和田さんは、Keiさんの目をまっすぐ見て、話を続けた。

「人財マネジメントは、経営のど真ん中になる。そんな時代に、管理志向が強くて、人間より組織のシステムを優先するようなリーダーが采配をふるうと、人間が機械部品みたいになるだろう?経営管理セクターには、社員の気持ちが会社から離れていくのは、自分たちの責任だと感じている人間が少ない。現場に変われというのならば、最初に思考を変えるべきなのは、私たち本社筋だ。

 吉岡なら大丈夫だと思う。キミは上から現場を見おろさない。むかし、あの個店を見に行った時に、パートさんから『楽しい職場にしてくれて、ありがとう』って言われたよ。私は、あのひと言が、ずっと心に沁みているんだ」




 ジョージが、シングルモルト・ウィスキーに浸る丸い氷を、指でつつく。

「あちこちで〈創造性〉が言われはじめたのは、イノベーションとセットだったかな。いままで通りの業務改善をつないでいくだけでは、第四次産業革命から取り残されてしまう。これからは、イノベーション、そのためには創造性だ……でも、学びのブームは、いつの間にか冷えちゃったんです。

 イノベーションを勉強しても、イノベーターになれないことがわかってしまい。ボクの仕事周辺では、創造性マターは、教育ではなく、実務的な開発プロジェクトに置き換わったような気がしますが……でも、それでいいのかな? そんなにビシバシ、いいアイデアが現場で量産できるのかな?」

 Keiさんが、若者の話に耳を傾ける。

「イノベーションや創造性は、学んですぐに能力が変わる領域ではないからね。現場は明日から使える実務ノウハウを欲しがるし、そうすると育成部門は、即効性のあるプログラムを優先する。

 ウチもこれまで、ラテラル・シンキング、クリティカル・シンキング、デザイン・シンキングとか、目ぼしいワークショップはさまざま提供してきたよ。ただ、発想や創造性は、どうも余芸というか本質的なスキルではないように思われがちで、根づかない……しぼんでしまうんだ」

「あたし、この前、デザイン・シンキングのオープン講座を受けました」

「アッちゃん、どうだった?」

「うん、面白かったというか、それがどんなものか輪郭はわかったような気がしますが……1日だけのコースでしたから、身についたかどうかは、また別ですね」

「そうなんだよね。私も研修を受ける側が長かったけど、こりゃあ面白いなと思ったプログラムも、やり続けないと身につかない。たいてい、もらったレジュメがPCや机の中にお蔵入りしてしまう」


 Keiさんは焦りを感じている。

 辞令が下りると同時に、コロナ禍がはじまった。職階研修、職能研修、すべての活動をリモートに転換した。それに加えて、サステナビリティ、ダイバーシティ、コンプライアンス厳格化、社会教養などのプログラムも、新装・拡充しなければならなかった。部門のひとりひとりが、必死だった。そして、リ・オープンと共に、多くの研修を対面型に戻す……。


 そのあたりから、新たな根本課題がふくらんできた。

 人的資本経営――企業はひとを〈資源〉ではなく、成長する〈資本〉としてとらえ、その力を最大限に活かす。それによって、企業価値の持続的向上を目指す。そんな経営のあり方へ急速なシフトがはじまった。

 人財育成は、和田さんの言葉通り、経営の主要な戦略論点となりはじめた。

 いまや、勉強する時間がたっぷり欲しいのは、おれたちのほうだ。そんな繁忙の中で、自分が現在のポジションに呼ばれた理由である〈創造的人財の育成〉が、ぽかんと宙に浮いていた。




 奥の席にいた男性は、タエさんのところで会計を済ませ、すでに帰っていた。ネイビーはみんなの話を肴にしながら、カルバドスをオンザロックで飲みはじめている。

――多くの企業は、デジタルなど装備の更新/職能のリスキリング/組織や制度、管理指標の改正で、事業進化を促せると思っていた。

 ところが、その前提にあるべき、創造的な思考をひろげる個々のモチベーションが、熟練でも若手でも、シワシワに縮んでいたんだ。

 経営陣がイノベーションや事業創造の笛を吹けども、たいして誰も踊らず、経営方針のそこかしこに〈創造性〉という言葉が虚しく踊った。その空虚を見透かすように、〈すぐにできます〉を謳う教育パッケージも乱立した。

 問題の根元にある、組織風土をじっくり耕し直そうとする企業は、稀なのかもしれない。


 そうこうするうちに、人財育成は、施策の重心をDX領域のリスキリングへ急速に移していく。創造性は、学びの成果が出にくいジャンルとして、いっそう後回しになっていった。


「そうカンタンに発想が湧きまくる会社には、なれないよなぁ」

ネイビーが、同情する。

「そうなんです。そもそも創造性の豊かな人財、という目利きで採用もしてきませんでした。会社が異質な発想を積極的に認める文化も、これからつくることになります。取って付けたようにハウツーだけ提供しても、浮くでしょう。でもなぁ、やらなきゃなぁ」

「創造性って、誰かに教えられて、方程式でも解くようにできるものなの?」

「……ひとり、気になる講師がいるんですけどね」




 その男は、ひょこひょこと会議室に入ってきた。ゴマ塩の短髪にメタルフレームの丸メガネ。人事界隈では珍しく、スーツを着ていない。チャコールのナイロンジャケットに、ライトグレーのパンツ、細いストライプのシャツ姿。なんだか、軽い。


【ポストスキル~思考の枠をこわすための、新習慣開発】――企画書には、そうあった。研修会社を通じて声をかけてもらった他の講師たちは、聞き覚えのある思考法を、終日ワークショップや週1日×3回コースなど、育成担当にわかりやすく、受講者にも提供しやすいパッケージで提案してきた。


 その男の企画書だけには、従来の教育研修らしいフォーマットがなかった。

「創造性の練磨に、ああやって→こうやって→ほらできた、という解へのフォームがあるとは思えません。受験勉強とは違います。まずは仕事や暮らしの中で、さまざま起きている小さな出来事をたくさん感じ取り、自分なりに解釈する。技術解析や市場分析とは別種の、多彩な気づきを生むクセづくりが、初動なんです。

 ところがいま、周囲や世界を洞察する気持ちが萎えていたり、ピンときたことにあらかじめ論拠がないと、言い出しにくかったりしていませんか。ヘタをすると、予定調和どおりにピンときたりしている。

 特別な思考法を使う以前に、ものごとをいつも主観的に知覚する習慣づくりが、創造性の根本課題だと思います」


 Keiさんのとなりには、人財開発畑のキャリアが長いグループリーダー、石橋美紀が同席していた。テキパキと着実に任務をこなす、信頼できる同僚が面談を仕切ってくれる。

「すいません。習慣というのは、どんなツールで学ぶのでしょう?」

「すいません。ツールはないんです。あえて言えば、好奇心がツールです。そして、受講者が日々感じ取ったことが教材です。たとえば、帰宅時間に電車が止まると、レンタルスクーターを借りるひとが増えているな。最近、町の居酒屋さんは、おじさんではなく若いご夫婦が、旬の食材を学びに来ているんだな、とか。

 それに、毎日観るニュースの中にも、流さずに一度立ち止まって考えると、通常の業務分析とは異なる、時代や人間の欲求が見つかるかもしれません。そうやってずっと、日常を感じ取り続けて、隠れた意味や兆しに気づき、自らチャンスを発想する習慣を育てます」

「ずっと、ですか……6か月間×週1回の全体ブレストに、他にもSNSで、毎日の出来事を対話し続ける」


「あのう、石橋さんは学生の頃、なにかスポーツや音楽など、されていましたか?」

「わたし、ずっとギターをやっていました」

「たとえば、クラプトンと同じギターを買っても、上手く弾けるようにはなりませんよね。毎日絶え間なく音楽を聴いて運指の練習をしてこそ、上達があるはずです。

 私は創造性の練磨って、勉強より、部活というか修行に近いところがあると思うんですよ。吉岡さんは、なにか、なさっていましたか?」

「私は、野球部でした」

「野球で言えば、バットとかスパイクとか、ツールをいくら揃えたところで、やっぱり素振りを続けないと、身体が球に反応しないでしょう? 毎日素振りを続ければ、野球の感性が変わるはずです。

 私は本来、創造性の源泉というものは、ツールや方法に発想の糸口があるのではなく、地道に日常と向き合う、アティテュード(態度)の問題だと思うんです」




 Keiさんがビールグラスを片手に、記憶をかいつまんで話してくれる。

 クリエイターのジョージが、興味深そうに聴いている。

「確かに日常のことって、ちゃんと気にしていないかもしれない。その講師は、新しいメソッドを勉強する以前に、そもそも人間のセンシビリティが弱っているんじゃないかって、そう言っているんですよね」


「そういえば……あたしは最近、子どもたちのことが、ずっと気になっているの。コロナ禍からリ・オープンになって、子どもたちが学校の行き帰りに、大勢で楽しそうにくっつきながら道を歩いているでしょ。  それは微笑ましいんだけど、なんだか、まわりのおじいさんとか自転車とか、ぜんぜん避けないのよ」

「オトナは、『すいません』とか『失礼』とか、まわりに声をかけ合わなくなっているな」

「ランチの行列店なのに、食べ終わってずっとスマホを見ているヤツ、増えてないか?」

「ラッシュ時間の通勤電車で、足を投げ出して座るひと、また復活したね」

「暴走するママチャリが、最近、スレスレで向かってくるような。もう、神技ですよ」

「いやぁ、暴走ママはまわりに気を使いなさいなんて、子どもには教えないだろう」

「そのうち日本のおもてなしも、すたれていくのかしら」


 YOさんが常連を見回して言う。

「なんだよなんだよ。世間を気にしないで生きている人間が、コロナで増えちゃったのかい? 家に閉じこもり過ぎて、みんなおかしくなったのか?」

全員、やや下を向いてしまう。自分もなにか傲慢なことを、やらかしていないだろうか。

「まわりに気づく知覚センサーが壊れたら、どうやって治すの? 神経内科? 整体?」

「おい、Kei。知覚センサーが治る食べ物、なんかないのか? 売れるぞ」

「もし本当に、コロナ禍がきっかけとなって、まわりと気づき合えない感覚不全が、世界中で増えているとしたらさ。子ども、大人から、それこそ政治家とか」

 それまで口をひらかなかったクマくんが、ビワの皮を丁寧にむきながらつぶやいた。

「……絶滅ですね」




 会議室では、石橋さんの手が企画書のページを何度もめくり返していた。

「五感を使って発想の入り口をひろげるのは、デザイン・シンキングでもやりますね」

「はい。私はデザイン・シンキングをリスペクトしています。適当に共感するなという意味では、ラテラルやクリティカルな思考法にも意義を感じます。ただし、こうしたメソッドを使う手前に、考えるべき点が二つあると思うんです」

――ひとつは、人間の外部にあるプロセス通りに思考を進めても、そもそも内面の感受性が磨かれていないと、常識的な発想をアウトプットしがちです。

 それから、もう一点。組織全員が同じフレームやメソッドに沿って、忠実に考えれば考えるほど、異端の発想は生まれにくくなります。

 多様な個の独創を促すのなら、思考の手順をあまり細かく規定しないほうが、発想の幅はひろがるのではないでしょうか。

 これから時代がどう変わろうとも、AIを活用する新しい発想がひろがるとしても、まずは、ひとりひとりの知覚習慣を磨いておくことが、創造性のしっかりとした土台になるはずです。


 石橋さんが訊ねる。

「受講生は1クラス25名程度とあります。わたしたちは、できればなるべく早く、多くの社員に学びを提供したいのですが」

「石橋さん、お気持ちはわかります。ただ、創造的人財は、短期間で大量生産できません。量産すると、結果、同質化します。ゼミナール・サイズでディープにやることを、おすすめします」




 ネイビーは、その講師の話に響くものを感じる。

――企業は、人間の創造性ですら、量産可能な工場製品をつくるかのようにとらえる。いままでは、共有された作業プロセスに自分を従わせて、主観を捨てた情報処理や作業分業に秀でていることが、有能の証とされてきた。異端と大胆は、会社という生産ラインの管理規格から外れた風来坊だった。


 集団が効率的に動くための、組織教育における暗黙の了解は、人間をスキルという名のひな型に嵌め込み、標準化された物差しで測り、性能を均質化することではなかったか。

 イノベーションは廃れたのではなく、できなかったんだ。


 人間ひとりひとりは、もともと歪んでいる。違う遺伝子や身体感覚、価値観を持ち、違う家庭環境や地域特性で育つのだから。それぞれの心身が持つ感受性は、世界で唯一無二だ。

 ピカソもビリー・アイリッシュもスティーブ・ジョブズも、創造人は、みんな歪んでいる。人生もロックの歌詞も新商品も、毎日の出来事をどう感じ取って、いかに意味づけるか。それが創造性の原点だろう。


 おれたちは、パッケージ化されたノウハウを学んで働く引き換えに、いびつで大切な感受性の偏りを、丸い氷のように削り取ってきたんじゃないか。




 会議室で、ひょこひょこ講師が話を続けている。

「私にはどうしても、リスキリングという言葉がうまく呑み込めないのです。そりゃ、DXは必要でしょう。でも一方で、『自分の頭で考えよう』とハッパをかけるわりには、他人の頭が考えたフレームばかり、いじっていませんか。

 人間の脳に、新たな職能マニュアルをダウンロードして、人間を標準パーツ4.0にバージョンアップするようでは、結局、デジタル・オペレーションに沿って無難に整然と動く、相変わらず異端のない組織になるだけじゃないですかね。しかもそれを、できるだけ効率よく、手っ取り早く、『できた!』と思わせるような学びばかりだったら」

男は、ちょっと目を伏せながら、ため息のような小声で言った。

「いまの企業の教育は、ゆとり教育になっていませんか?」


 私の説明は、人事方面にさっぱりウケないんです、という講師をエレベーターまで見送り、Keiさんと石橋さんが執務室へ帰っていく。

「お疲れさまでした」

石橋さんが上司のほうへ顔を向ける。

「スキル研修は、ダメだっていうことなんでしょうか?」

「いや、職能のリスキリングは必要だと思うよ。あの講師が言っているのは、必要だけど、創造的に働くには充分ではない、ということじゃないかな」

「わたし、あのひと、なんか癪にさわるんです……でも、ちょっと気になる」




「なんか癪にさわるんですよ……でも、気になる」

Keiさんが、ビールグラスを空ける。

「癪にさわるのは、痛いところを突かれたからだろ?」

ネイビーが、新しい瓶ビールの栓を抜く。

「気になるのは、マトを射ているからだろ?」

兄が弟のボトルを横取りする。

「おれはおまえの話を、ふんっ、と思って聞いていたんだよ。言わせてもらえば、創造性のない建築屋なんてあり得ない。職人のおじいさんだって、毎日、切磋琢磨しているぞ。

 キミたちサラリーマンは、実に〈よく回る歯車〉として躾けられ、魂を抜かれてアンドロイドみたいに働いているんだよ。創造性が深刻な問題になること自体、おかしいだろ」

弟が、兄から自分のボトルを取り返す。

「深刻というか、おれたち、慣れていないんだよ。真逆に進んできたから。職人さんたちのように、こつこつと技術や勘を磨いていくようなことは、生産効率が悪いというのが、組織の定説になってしまっていた。

 それに、研修に関して言えば、ツカミのいいプログラムとディスカッション、振り返りもしましょう、みたいなパターンで提供して、あとは現場のOJTや個人の掘り込み次第だと、割り切っていたところはある。社員研修で、なんでもかんでも背負えないよ」

「それで現場が若手に、パターンに嵌った仕事ばかりさせたり、個人が自分で先へ学ぼうとしなかったら、本物のプロフェッショナルは、絶滅するんじゃないか?」

「……もう絶滅は、はじまっているかもしれない」


――働き方改革にも、功罪があった。後進に、もう少し質を上げよう、粘ってみようと促せば、それって残業の申請になりますけどいいんですか? と返ってくる。

 甘い仕事を叱った管理職が、パワハラのレッテルを貼られてしまうこともある。他方では、後進たちに跳び甲斐のあるハードルを提供しているとは、とうてい言えないような、ロボット・マネジメントも横行していた。


 組織は、自身が思うより質の低いレベルで効率化してしまったのかもしれない。この状況では、試行錯誤が生命線の〈創造性〉なんて、たまったもんじゃない。


 YOさんが、弟に語りかける。

「道具もすさまじく進歩しているけどさ、道具を替えてトリセツを覚えても、腕は上がらないよ。おれたちだって、小さな小さな歯車だ。それでも地道に腕を上げる修行は、大切にしているヤツらがいるよ」

 Keiさんがゆっくりうなずく。

――本当は、毎日モヤモヤしている些細なことと、粘り強く取っ組み合うっていうことなのかな、働くということは。イノベーションとかゲームチェンジとか、大っぴらに旗を立てるよりも。


 アッちゃんはいつも、ケンタッキー・バーボンロックを2杯飲む。そのあとは、濃い目のアイス・アールグレイに切り替える。ネイビーが2杯目のメーカーズ・マークを注いだ。

 彼女もジョージと同じように、丸い氷をつつきながら、自問するように話す。

「あたし、確かに、カンタンにやろうとしすぎているのかもしれない。なんだか、アッサリわかって、キレイに論理化できて、スマートに仕事を進められるひとが、優秀の鑑! みたいに思ってた」 

「やっぱりキミたちは、アンドロイドに憧れているんだ」YOさんが茶々をいれる。


「優秀に働くって、どういう感じなのかな?」

「アッサリわかって」

「キレイに論理化できて」

「スマートに仕事を進められる」

「知識がいっぱい」

「仕事が早い」

「計画性がある」

「あまり悩まない」

「金儲けがうまい」

「偏差値が高い」

「説得力かな」

「お客さんの信用」

「ほらな、創造性って、誰も言わない」

「単に作業をこなしているだけかも」

「あたしの優秀観、けっこう昭和かも」


 双子にビールをもう1本。ジョージ、ハイボールでいい? クマくん、ジンライム。ネイビーは、お客さんの酒をひと通り満たす。彼は飲食業のベテランではないが、テニスのフェデラーやアイススケートのキム・ヨナのように、しぐさにゆらりと余裕があって、無駄がない。ネイビーさんという名前は、海兵隊かどこかで鍛えたからですか? と訊くお客さんもいた。

 紺色のオープンシャツの店主が、みんなのほうを向く。


「それとさ。人間の仕事は、もうAIとの協働は避けて通れないよね。そいつは、人間より優秀に仕事をこなすようになるの?」

――AIには、アウトプットの真偽、偏向、著作権、セキュリティ、そもそものエネルギー負荷……さまざまな問題が山積みしている。だからといって活用を進めず、その可能性にフタをするという判断は、もはや現実的ではないだろう。

 インターネットも、初期にはPTAなどに大反発を受けながら社会に浸透し、その進化と共に、モラルやルールがいまでも改訂され続けている。テクノロジーに対する期待と不安の追いかけっこが、また加速したのだ。


 ジョージがゆっくり言葉を考えながら、ネイビーに話しかける。

「AIは、まず、ものすごいスピードでオペレーション業務を支えてこなすようになるでしょう。浸透してからしばらくは、〈作業の効率が上がる〉という認識が強いのかもしれません。たとえば、データ処理、書類作成、タスク管理……フローを任せられるみたいな」

「そうだね。まずはDX改革の流れで浸透するよな。相当、便利になるだろうね。でも……そうか。便利なひとのことを、優秀とは言わないよな……言う?」

「AIは、人間を超えて大量の情報を扱えます。そういう意味では、優秀なんでしょうか?」

「人間より、うまいロジックや編集で返してくるところも、あるしな」


 YOさんの職人魂が、声をあげる。

「なんつうか……頭にいっぱい詰め込んで、整理して出してくるだけじゃ、そいつ、つまんねえヤツだな」

「そうなんです! 問題は、その先ですよね。AIが情報をさまざまに組み合わせ、その情報編集の中には、人間がなかなか思いつかない着想も入ってくる。そこに創造性を感じることもあるでしょう。ボクは、AIと一緒に話しているうちに、とんでもないWOW! っていう、サプライズが生まれることを期待しています。AIは業務処理アプリじゃなくて、クリエイティブ・パートナーです」


 ネイビーがKeiさんを見る。

「仕事の主流は、どちらかというと、パターン処理派だよね。創造的人財育成というのは、ジョージが言う、WOW! っていう、サプライズ派が増やせるかどうかだろ?」

「おっしゃる通りです」

Keiさんは、うなずきながらも、考える。

――でもね、ネイビー。ひとはみんな、いままでにない大胆な発想を〈したい〉のかな。もともと人間の行動自体が、かなりパターンでしょう。買い物とか、会議の進行とか、お酒の飲み方とか。いまは就活面接のために、笑顔のパターンまでコーチングしてくれるらしい。

そういう定型が大好きで、効率が上がるのなら、それ以上は業務範囲を外れたくないひとも、たくさんいるわけですよ。ずっと、左の脳ミソが、右の脳ミソを封殺してきたから。


 アッちゃんが、イマジネーションを飛ばす。

「前に友達と話していたんだけど。恋愛も古今東西で、50ぐらいのパターンしかないかもねって。そうすると、自分の想定を越えたパプニングだらけの恋愛をするよりも、パターン03と24を組み合わせたアンドロイドとつき合ったほうが、合理的にしあわせ……そういうひとたちも、少なからずいると思うのよね」

「うわ。むかしは人間同士が、理不尽でどうしようもない恋愛をしていたんだな、バカじゃないの?みたいな未来か」

「ボクは、恋愛をPDCAやKPIみたいに進行したがるひとたちを、知っています」

Keiさんが頭を整理する。

「システマティックでバグもなく、働くことをパターン通りにコントロールしたいひとたちと、人間の曖昧でわけのわからないインスピレーションやサプライズを楽しみたいひとたちと、そこはかなり分かれるような感じですかね」

「あたし、どっちなんだろう? Keiさん、創造性の本当の問題は、ノウハウじゃなくて、生き方みたいなことなんでしょうか?」


 みんなのやり取りに、ネイビーが返す。

「本当は誰もが両利き使いになるといいよな。システマティック派もサプライズ派も、どっちみち煩わしい手続き作業をAIに任せていくわけだから。余った時間でやることは、結局、創造性方面に向かうしかなくなるんじゃない? ……そんなに都合よくは、いかないか」

――これからテクノロジーに代替される職務のひとほど、発想や妄想に関心を示さず、むしろそれを効率の悪い粗野な仕事とみなしているところもあるだろう。


 じっと聴いていたYOさんが、小さく手を挙げる。

「ちょっと、いいか。もしおれが、恋愛パターン19と35がセットのアンドロイドとつき合ったら。それは、浮気でしょうか?」

「やめとけって」

Keiさんは、工務店の経営を牽引する、女ターミネーターのような勝代義姉さんを思い浮かべる。

「その……恋愛パターンだけじゃなくて、顔とか、ボディとか、パーツもバラバラに選択できるとありがたいな。おれは恋愛的人財に、人間もアンドロイドも、両利きで必要だと思うぞ」

「あんたが義姉さんにバラバラにされる」


 アッちゃんが、小さくのびをする。

「みんなふだんは、メチャ面白いことに気がついて、言ったりしているのに。どうして仕事になると、アンドロイドみたいに、スマートになっちゃうのかな」


 ネイビーがKeiさんのほうへ、ねぎらうように声をかける。

「人財ごとは、大変な仕事になったね」

「我々にも、パターンに依存しすぎた反省はあります。創造性だって、フレームの中に手順良く情報を穴埋めしていけば、すぐ答えが出るだろう、ぐらいに考えてきてしまったのかもしれません。

 しかし、これは教育研修の手に負えるのかな。かといって、現場に預けても難しいでしょうね。いやぁ、まいったなぁ。でも、やらなきゃなぁ」

「企業の土壌を変えるのは、時間がかかるよね。短気な組織の成果基準とぶつかるようなら、横にスルっと、実務の流れから、はみ出して置いとけないのかね」


「……はみ出す?」




 Keiさんと石橋さんは、和田常務とも話をした。

 単にプログラムの良し悪しではなく、経営戦略の中で人財開発が寄与できることは、多忙な現場に配慮した2時間~3日の研修やワークショップだけでいいのだろうか。また、どれほどの期間想定と規模感で、創造的人財の育成を考えていけばいいのか。

 ひょこひょこ講師の話は、改めてハウツー以前のおおもとを考える叩き台になった。

 和田さんは、そりゃスキル教育ばかりじゃないよな。修行もあるし、あとは対話集会みたいな、ムーブメント形成も大事だと言いつつ、梶原副社長と話す機会を持つことにした。



「ご相談があります」

石橋さんが梶原さんに、簡潔に説明する。

 これまで創造的人財育成の領域でおこなってきたこと。根づかなかったこと。そして、やや異質な企画に遭遇したこと。それは、人財開発が業務管理や成果として認識してきた方向と、かなり違うこと。

 梶原さんは、にやにやしながら聴いていた。

――いいねいいね。こいつらは、どこかに書いてあるような、無難でカンタンにできることを持ってこなかった。『創造的人財は量産できません』……確かにその通りだ。『日常と向き合う態度』……我々の商売の原点だよ。『標準人間4.0』……もうそれ、やめようよ。


 和田さんがフォローする。

「23年度から人的資本経営の開示がはじまりましたが、まだ各社、周縁のバズワードを横並びで整理しているところでしょう。エンゲージメント、ウェルビーイングといった概念や、女性活躍、男性育休、健康経営、キャリアパス多様性などの制度とか。ヘタをすれば数字合わせとか。

 経営戦略に合わせて、社員成長の内容を独自に磨き抜いていくのは、当社も含めて、どこも山登りの一合目です」

「会社から見れば、人財は成長のための資本だが、我々みんな、血の通った人間だ。工場監査のマニュアルみたいに、人間を機能視しすぎた評価測定はしたくない。特に創造性は」

「わかります。〈組織改革〉が、お題目を並べ替えた〈書式改革〉になってはいけませんよね。いつもの絵に描いた餅になってしまいます。

 今回は、経営管理があんまりそっちへ行き過ぎると、教育にもROIを求めるような、逆にひとが萎えることになる懸念も持っています」

「とにかく社内のみんなが、関心と期待を持ってほしいね。達成指標ばかりじゃなくてね」


——バブルの頃は〈24時間働けますか〉的な量的エネルギーの時代、その後は長引く停滞の中でリスクを恐れる萎縮の時期が続き、働き方改革で効率が主流となった。その〈失われた30年〉といわれる間に、なにより働くモチベーションが、失われてしまったような気がする。

 いま、効率から価値創造へ、経済から文化風土へと、時代がまた変わりはじめた。価値創造は、効率の方程式では生まれない。みんなで、ああだこうだ揉み合える組織にならないと、新しい価値など芽生えないのだ。

 変化に対する危機感の共有は、じつに難しい。


「我々がはじめた改革は、組織と人間の信頼関係を、もう一度つくり直すという意味もある。みんなでどう楽しく働き合えるか、中心は気持ちの〈質〉だと思う」

「梶原さん、そこが根元ですね。まだまだ世の中は、効率主導の文脈で、経営と人間を計画経済のプラモデルように考えていそうですが。熱い〈質〉にしていきましょう。わははは」


石橋さんは、ちょっと面食らっていた。わたしたちが職務の新しいオペレーションだと思って勉強していることを、上層部は平然と解釈を変え、飛び越えていく。そして、ひとのことを想っている。


「吉岡くん、そのセンセの企画、〈パートさん合コン〉に似ているじゃないか」

梶原さんが、言う。

「あはは、みなさん〈合コン〉って覚えているんですね。毎日の出来事に目を凝らして、耳を澄ませ、立場を越えてフリーに話すところは……たしかに、あの井戸端会に似ています」

「感づき合いというのかな。そうした場づくりが、職階・職能を軸とした人財開発のルーティンかといわれれば……みんな、そこのギャップで悩んでくれたんだと思うけど。

しかし、そもそも企業における学びとはなにか、この際、ちゃぶ台をひっくり返してもいいんじゃないか?」


和田さんが応える。

「創造的人財育成は、『研修受けたら、はい、できました』というたぐいのものではないですね。短絡的な学びだけではないことに、提供する側も受ける側も、目をつぶってきたのかもしれません」

「創造性は、全員で、ずっと磨くべき土台だ。営業も、本社筋だって、他人ごとにしてはいけない。

DX推進もみんなのおかげで軌道に乗ってきたことだし、改めて創造性のアクセルを踏もう。まずは、今後のはじめ方だな」



梶原さんは、窓の外を眺めて考えた。本社18階のかなたには、白く輝くソリッドな入道雲が湧いている。最近は、初夏も夏も、一緒くたにやってくるな。

「これは、単なる人事領域の問題じゃない。私は、社員だけではなくて、学生も生産者も、創造性の豊かなステークホルダーが当社に集まってくれるようにならなければ、数字を利口につくったところで、先がないと思っている。

本当に変えたいのは、ドライな経営が苦手としてきた、会社の文化風土だ……この件は、人財開発からちょっとはみ出して、ふくらませてみようか。というか、私のところで直轄プロジェクトにしよう。一緒にやろう」

――どこかで経営学の導師が言ってたな。イノベーティブな経営案件は、トップが直接指揮を執るべきだ。新しい仕事は、現存するセクターではなく、新しいセクターで執行すべきだ。


「和田さんのところには、育成だけでなく、評価制度や採用戦略の見直しも含め、すでに経営企画と連携して、さまざま動いてもらっている。文化風土の醸成は、広報室や総務部にも話をしている。現業のほうも、こうしたプログラムを起点に、もっと積極的に巻き込もう。各部門で機能分担していたが、今後は連携の核を鮮明にして、全社の新しい運動体にしたほうが良いだろう」

梶原副社長が、にっこりと3人を見る。

「私から『修行の道場をはじめる』って旗を振ったら、忙しい現場も文句を言いにくいだろ」

人財開発にムーブメントづくりがあってもいいと思っていた和田さんも、賛同する。

「ありがとうございます。今回の改革は、制度ありきではなく、本当に人間ありきで考えたいですね。キャリアシートを改訂するよりも、とにかく会社が面白いことになりそうだと、思い直してくれるきっかけが、実に大切だと思います。これは社員の能力開発というより、組織への期待開発ですよ。どうかな、そう考えたほうが、腹落ちがいいだろう?」

和田さんの言葉に、2人がうなずく。Keiさんが上司に確認する。

「規模的には、どうですか? 半年で25人、一年で50人……。人財の量産はできませんが」

「まず、一番苦労しているミドルマネージャークラスが受講して、自分のグループに体験を持ち帰ってもらい、『もっと日常のことを話し合ってもいいんだ』という場づくりを各地にひろげていこうか?うーん、どうも吉岡の〈合コン〉みたいになりそうだな。わはは」

石橋さんが、不思議そうな顔をしている。おれがパートさんと、合コンばかりしていたと思っているのだろう。


「そのセンセは、どんなひとなの?」

梶原さんが、石橋さんに訊く。

「ひょこひょこしていますけど。本気なんだと思います」

「一時のお祭りに終わらないよう、じっくり取り組んでください。突出したタレントを選抜するのではなく、じわじわとでも、みんなの中で異端と大胆が、多様に芽吹くといい。創造的人財は、即席量産はできないか。そうだよな、腹をくくって。少しずつでも新しいチャレンジが起こるといいな」

梶原さんが、両膝をぽんと叩いた。

「よし、こっちも本気なんだ……私だって、もう遅いかもしれないけど、改めて感受性の修行をしてみたいよ」

経営は、スキルではない。あらゆる学びによって磨かれていくものは、結局、人間ひとりひとりの芯にある、感性や想いなのだ。




執務室へ帰るエレベーターの中で、石橋さんがKeiさんに、ぺこんと頭を下げた。

「今日は、上層部が本当に会社を変えたがっていること、強く感じました。それにわたし、個人的にどんなことを学びたいかといわれたら……わたし、毎日の通勤途中でスマホばかり見ているんです。日常の細部なんて、あまり感じ取っていませんでした」

「私だって似たようなもんだよ。こちらも楽しんでやろうよ」

おれはいままで本気で、データからこぼれ落ちるような、生活するひとびとや仲間の日常にひそむ、声なき声を知覚してきただろうか。それが必要ないのなら、おれの仕事はAIに代替可能だろう。


「ところで、石橋って、ギターでどんな音楽やっていたの?」

「えっ……パンクとか、グランジです」



ネイビー、おれたち、はみ出したがっているんだ。



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