序 ロスト・イン・トランスフォーメーション
いま、私たちは、社会創生から業務進行まで〈大転換〉の中で働いています。転換を促すための新しい学びも、企業や教育機関によって、さまざまに提供されています。
では、AIの活用を含め、新たなビジネス・スキルを次々と習得していけば、私たちは本当に希望あふれる未来へ向かえるのでしょうか。
激動の中、毎日の疾走を少しゆるめ、内心に澱んだ〈働くモヤモヤ〉の根元を確かめてみませんか?
本書は、事業開発プロジェクトや創造的人材育成のファシリテーターを務める著者が見聞した、時代変化と向き合うビジネスパーソンたちのさまざまな想いを、ひとつの物語に織り込んだドラマです。
客観的論説ではなく、人間の気持ちの視座から描くことで、既存のビジネス書籍とはまったく趣の違う、フィクション・ストーリーに構成してみました。
主な設定は、市井のひとびとのスモールトーク(雑談、交歓)です。大きな成功体験を誇るわけでもなく、従来通りのルーティンにしがみついているつもりもない。時代転換の中で、働き学ぶことへの期待と不安に揺れる、多くの皆さんと同じ目線の職業人たちが、会話劇をくりひろげます。
スモールトークには、身のまわりの出来事や社会常識と共に、業務内では言い出しにくい心の生声、さらに辛辣な批評なども入り交じり、ただし、それらはたいてい、笑いや寛容に包まれます。
人間関係がフラットな会話は、分析レポートやアジェンダのある会議とは違い、発想の拡散と収束を自由に繰り返し、ときに非論理的で、しばしば異質な気づきの苗床となります。
それは、ドライなビジネス思考をはずれて、ヒューマニティ(人間ならではの知性や感受性)を蘇生するコミュニケーションです。
物語に描いたのは、答えではなく、これからのビジネスパーソンが本質的に考えるべきイシューを探るための素材です。お読みになるみなさんがこの雑談仲間に入り込み、リアルと妄想が交錯する言葉の中から、豊かに働くためのキッカケを、ひとつでも多く見つけていただけると幸いです。
ようこそ。私たちの〈溜まり場〉へ――
【シーン設定】
都心からすこし南へ外れた街に、そのバー&カフェはある。夕立の降る前には、かすかな海の香が風に混じり、天気の先を知らせるような街だ。
私鉄の小さな駅舎を出ると、ハナミズキの街路樹がつづく。かつて短い商店街だった区道は再開発され、いまは新しい戸建てが並ぶ。駅から5分ほど歩くと、戸建ての先に、古いグレーのビルが見えてくる。小ぶりな3階建ての路面には、右手に新装の美容院、そして左手にある、少し褪せた濃紺のスチールドアが、その店に客を迎える。
現在のオーナーは、バブル最後期に建てられた店を9年前に入手した。打ちっ放しのコンクリート壁、チーク古材のL字カウンター、天井吊りのBOSEスピーカーシステムと32インチモニター。水まわりは新しくしたが、内装はほとんど変えず、メンテナンスして使っている。
店のスペースを占めていたビリヤード台だけは、南欧の台所にありそうな、大きくて素朴なアンティークテーブルに置き換えられた。
店の名前は、〈Patina〉(パティーナ)という。
【主な登場人物】
ネイビー
■〈Patina〉店主。
■能美誠一(57)は、いつも白いカットソーに濃紺のオープンシャツを羽織っている。常連からは、ネイビーと呼ばれる。ゆるみの少ない身体。白髪が少し混じる髪を、側面は刈り上げ、上でふわりと七三に分けている。
■彼の経歴が店で語られることは、あまりない。噂では、総合商社で数多の案件を手掛けたらしい。店を営みつつ、旧知のネットワークから依頼される事業開発や人財育成のサポートも行っている。
タエさん
■青木多恵(51)は、仕入れから厨房、経理など、店の奥を仕切る物静かな女性だ。たまご形のつるんとした顔立ちに、幅広の黒いヘアバンド、シャツもパンツも細身の黒。画廊のキュレーターあたりを思わせるスタイルに、なぜか森英恵風の花柄エプロンを合わせている。
■ちなみに〈Patina〉は、メニューを置かない。食べるものは掌サイズの小皿が三品。庶民的な季節の野菜や魚介、フルーツなどが、ていねいに仕込まれて日替わりで供される。
YOさん
■双子の兄、吉岡洋介(45)。平たい顔に、しっかりとした顎。中背だがラガーマンのように厚みのある身体つき。無精なようで手入れされた短いヒゲが、刈り込んだ髪につながる。
■家業の工務店を、先代の父親と拡大した。〈YO HOME〉と胸にネームの入ったベージュ色の作業ジャンパーで、店に現れる。
Keiさん
■双子の弟、吉岡啓介(45)。平たい顔に、しっかりとした顎。中背だが野球選手のように足腰がたくましい。60年代風の太いモミアゲが、大きなウェーブの髪につながる。
■大手食品スーパーに勤め、店舗運営やプライベート・ブランド飲料の開発マネージャーを経て、3年前から人財開発室長。
アッちゃん
■小柄で活発な栗林敦子(36)。肩にかかるあたりで整えられた髪が、顔を動かすたびにパサパサと振れ動く。太フレームの黒メガネと細いあごの間で、小さな唇がサバサバと話す。
■子ども向け科学マガジンの編集者で、科学未来センターのイベント企画も手伝う。
クマくん
■白熊のように大柄な佐久間雄二(35)は、常にのっそり寡黙にうつむき、ふくよかな指先で器用にスマホを触る〈検索マスター〉だ。カウンター手前の右隅が、彼の定席になっている。
■首都圏の民間鉄道会社に入社以来、こつこつとダイヤグラム(運行表)のシステム管理を担当するエンジニア。
ジョージ
■ジョージ・ラウ(33)の父親は香港、母親は日本出身。10歳のときに両親・妹と日本へ移住。広東語・英語・日本語に対応できる、小柄でおしゃべりなピュア・パーソンだ。
■外資系コンサルティングファームで、デザイン・ディレクターとして働く。
リョウコさん
■仙場良子(48)は元ドイツ首相メルケルさんに似た、活力あふれる太っ腹おかあさん。
■生命保険会社のシンクタンク(調査部門)で働いた後、地域のカルチャーセンターなどを支援する学びのNPOに転職。子どもの農業体験から、エクセル初級講座、ご先祖の墓じまいセミナーまで、多岐にわたるプログラムをコーディネートしている。
シュウトくん
■バルセロナFCのユニフォームに、シンシナティ・レッズのキャップを被った鈴木秀人(21)は、華奢で頼りなさげな中学3年生に見えなくもない。
■8歳でPCを組み立て、12歳で利益が出るパズルゲームを上市。17歳の時、誤ってNASAのシステム・バックドアを突破してしまった。防衛省日米サイバー防衛戦略ワーキンググループに招集される、ネット界隈では、やや名の知られたハッカー。
オッチャン/セイちゃん
■清野泰(57)は、白いワイシャツ、炎のようにボアボアの白髪が、映画『バック・トゥー・ザ・フューチャー』のマッド・サイエンティスト、ドクを連想させる。
■ギョロ目で話す毒舌関西弁に愛嬌がある、ネイビーの元同僚。現在、私立大学経営学部教授。
**本編は、参考資料で裏付けのある事実以外は、実在する企業・団体・個人と一切関連しません。
*本文中に略述した参考資料については、巻末に正式名を記載します。




