大人に翻弄される子供たち
サーシャが戻ってきたのは、夜更けすぎの真夜中だった。
「サーシャ様!」
彼女の護衛をアルバから任されているユラが、その姿を見て大声をあげ彼女の元に走り寄ってくる。ユラは突然消えたサーシャを大層心配していたらしく、涙目だった。
「ユラさん。勝手にお出かけしてごめんなさいね。」
サーシャは近づいてきたユラに向かって、小さく呟くように謝った。だがいつもと様子が違い女神は顔が真っ青で、なぜか凍えそうな表情をしている。
「サーシャ様!?」
ユラはもう一度大きな声をあげると、慌てて自分の主の手を握りしめる。と、サーシャの手はまるで氷のように冷えていた。そして顔を近づけて初めて分かったのだが、女神の瞼が微かに腫れていて頬には涙が流れた跡が見て取れた。ユラは驚いて心配の声をあげた。
「な、何があったのですか?」
「なんでもないわ。それより…ユラさん、ちょっと温めさして。」
サーシャはそう憂いのある声でユラに話しかけると、そのままユラを優しく抱きとめた。女神の体は、今にも凍るのではないかと思うばかりの冷えようだ。ユラはサーシャに抱かれながら心配そうに声をあげる。
「こんなにお身体を冷やして…お可哀そうに。毛布お持ちしますか?」
「ううん。いいの。あなたに抱きしめられている方が温まります。」
サーシャは体を震わせながらそう話すと、言葉通りユラを強く抱きしめた。女神の抱擁は、優しくいい香りがまるで彼女を包んでいるかのようだった。黄金色の髪の中に顔を埋めたユラは、思わず顔を赤らめて(わたし女なのに…クラクラするわ)と、そう思ったがこの冷えようはただ頃ではない。
「パルマさん!お湯をお願いします。大至急!」
「お、おう!」
彼女の悲鳴のような声に、店主のパルマは大慌てで厨房の奥へと消えていく。ユラの体で暖をとっているサーシャはまだ震えていた。(この国は暑いのに…どうしたのかしら…)彼女はそう思ったが、まだアルバとサーシャに仕えたばかりのユラはそれ以上は聞けない。
やがてこの店の歌い手であるバイシャリも心配そうにサーシャの元へ寄ってくる。彼女は凍える女神を見ると「まぁっ!」と声をあげ、慌てて女神の背中に手を当てたが、彼女の手は体温が奪われるのではないかというほどのひんやりとした。バイシャリは女神の横顔を見つめながら心配そうに尋ねた。
「サーシャ様…大丈夫ですか?」
「はい、ちょっと無茶しちゃいました。でも、夕方に貴女とお話しできて良かったわ。」
サーシャは微かに笑みを浮かべてそう彼女に言葉を返した。「そう…。」バイシャリは目を細めて必死にサーシャの背中をさする。彼女はこの日の夕方、サーシャとずっと恋愛話に花を咲かせていた。といっても、アルバの話しばかりだったが。と、やがて
「サーシャさん!とりあえず、こっちきて!」
店主のパルマは、厨房から大きなバケツを手にそう叫ぶ。その中には、料理で使うお湯を全部持って来たのか、たっぷりとお湯が入っていた。サーシャはユラに連れられてカウンターに座ると、「パルマさん。ありがとう。」と丁寧にお礼を言ってそのお湯の中に冷えた手をそっと沈めた。
サーシャの細く長い指がお湯に浸かると、「温まるわ…。」と彼女は小さく笑顔を見せる。その表情を見て安心したのか、ユラは安堵の表情を浮かべ「良かった…。」と、思わずそう漏らした。サーシャはそんな彼女を見て申し訳なさそうに、ユラの小さい肩にちょこんと頭を擡げ
「本当にごめんね。ユラ。」
と申し訳なさそうに再度謝った。その優しい主人の言葉に「いえいえ…。」と返したユラは、女神の冷え切った黄金色の髪を温めるようにそっと、手で撫でた。
ちょっとした女神の逃走劇が落ち着いたのを見たバイシャリは、ため息を漏らし呆れたように口を開く。
「サーシャ様は、いったいどこに行かれていたの?」
「ふふ、今はまだ秘密です。」
バイシャリの問いにサーシャは、そう言って微笑んだ。何か思惑があるその表情に、バイシャリは苦笑いしながら、
「あなたの若い王子様が、あそこでお待ちよ。」
とイタズラっぽい笑顔で店の奥の机を指差した。そこには、机に体をもたれかかって眠るシアンの姿があった。
「まぁ…困った坊やね…。」
サーシャはそう言いながら艶っぽい笑顔を浮かべると、バケツからそっと手を出し、美しい白いハンカチで手を拭くと、
「では、私は王子さまの御心を聞いてくるわ。」
と話し舌を出すと、そのままシアンの眠る机と向かっていった。
「シアンくん?」
サーシャが机の上で眠るその少年の背中に手をおいて、優しく声をかけると、やがてシアンはゆっくりと体を震わせながら、目を覚ました。彼は、眠たそうに目をこすりながらゆっくりと体を起こすと、驚きの表情を見せた。…美しい女神の微笑みが目に飛び込んできたからだ。「あ…。」シアンはその吸い込まれそうな憂いのある表情に一気に顔が赤くなった。不意をつかれた格好になった彼は、顔を引きつらせながらようやく声をあげる。
「サ、サーシャ。お帰り。」
「シアンくん…待っててくれたんですか?」
サーシャがそう優しく声をかけると、シアンは軽く自分の頬を掻いた。
「も、もちろん!君は…俺のお姫さまだかんな。」
「まぁ…。嬉しい事を言ってくれますね。」
サーシャは満足げに微笑むと、彼の横にそっと腰を下ろす。と、シアンに女神の優しい甘い香りが届き、寝起きの彼は頭がクラクラするのを感じた。
「シアンくんは、お腹すかない?」
と、サーシャは隣で恥ずかしそうにしている彼を覗き込むように尋ねた。するとシアンはチラッと覗いた彼女の胸元から慌てて視線を外し、サーシャの顔をまっすぐに見ながら首を横に振って、応える。
「いや、いいや。サーシャは、お腹へったのか?」
「ううん。私もお腹いっぱいです。シアンくんがお腹が空いたというなら、手料理をご馳走してあげようと思っただけです。」
と、サーシャは少し残念そうな顔を浮かべた。シアンはその表情を見ると慌てて
「え?いや…。それなら…どうしようかな…。」
と、なんとも情けない声をあげると、サーシャは顔を傾げ
「ふふ、無理はダメですよ。このお店の2階に、私は部屋をお借りしているの。ちゃんとキッチンもあるから…いつでも作ってあげますね。」
と優しい口調でそう話した。その言葉を聞いたシアンは何かを考え込むかのように口を閉ざしてしまった。そんな彼を見たサーシャは更に彼に顔を近づけて、
「緊張してるんですか?」
と小さく微笑むと彼の肩にそって手を乗せる。同時に「あ…。」とシアンは小さな声をあげてしまった。シアンの首筋に、サーシャの親指が微かにふれてしまったからだ。ますます押し黙ってしまった彼にサーシャは少し話題を変えて尋ねることにした。
「シアンくんは、あれから何かを思い出したかな?」
「…え?。」
「私たちの子供時代のこと。」
サーシャは、そう艶っぽい声で彼の目をまっすぐ見て聞いた。するとシアンは目の前のサーシャから目線をずらし、顔を赤らめ下を向く。どうにも胸の高鳴りが収まらなかったからだ。そしてしばらく考えてから、ふと何かを思い出したように話を続ける。
「あ…いや…。そんな急にはよ…。あ、でも…確か…レゴラス宮殿がある街で、よく飴玉を買ってなぁ…って。」
「ふふ。飴玉ですか?」
「俺、大好きだったからさぁ。」
サーシャはそのシアンの言葉に、そっと体を近づけて彼の肩に自分の肩をピタっとつける。すると、シアンはあからさまに体を硬直させた。するとサーシャはその様子にクスッと笑って、話しを続ける。
「確かに、あなたは飴玉をよく買っていたわ。」
「た…確かイチジク味…だったよね?」
「…そうですね。」サーシャはその言葉に苦笑いして答えると、シアンはその答えが合っていた事がよほど嬉しかったのか、
「ねぇ、これで信じてくれただろ?」
と、破顔しながら前のめりになって尋ねた。と、2人の距離が大きく近づく。
「う…。」
シアンは思わず喉を鳴らした。彼の顔を覗き込んでいたサーシャの瞳も、唇もすぐそこにあったからだ。だが、シアンは今度は恥かしがらず、そこから動かない。
「…。」
シアンとサーシャの僅かな距離に、無言の時が過ぎる。やがてその少年が微かに顔を前に進める。だがサーシャは(気が早いのね…。)と小さな声で呟くと少しだけ顔を引いて、自分の唇に指をそっと添えた。その仕草は、シアンの心を大きく揺さぶる。サーシャは、そのままの場所で彼の問いに応えた。
「う〜ん。だいぶ信じてきたわ。でも、もう少し聞かせてほしいの。…ねぇ、聖地にあった小さな湖のことは覚えてる?」
「み、湖かぁ…。あったような、なかったような…。」
シアンはその湖については記憶がなかった。曖昧な返事をしたのは、サーシャの残念そうな顔を見たくなかったからだ。するとサーシャはすぐに次の質問に切り替えた。
「ふふ、覚えてないか。じゃ、街にあった小さなハンカチ屋さんは?そこでよくお揃いのハンカチを買ったでしょう?」
「ああ。そこは覚えてるぜ。パン屋のとなりだ!」
シアンはそう自信満々に話すと、サーシャもにっこりと微笑んで、「うんうん。」と懐かしむように頷いた。やがて彼の肩に女神の黄金色の髪が感じられるまでにサーシャは近づいてきた。
「じゃ、私の部屋にあったぬいぐるみは覚えてる?あなたは、そのぬいぐるみの腕を引きちぎって、私に一晩中怒られたのよ?」
「えっと…クマだっけ?」
「う〜ん。クマではないわ。似てるけどね…。」
外れた事により、サーシャは少し残念そうな声でそう漏らし、彼からそっと体を離してしまった。それに慌てたシアンは、大きく手を振って話題を変える。
「あ、でもさ!街にあった教会近くの時計屋は覚えてる!あそこで赤い時計を買っただろ!?あの時、俺が君にプレゼントした。サーシャはすごく喜んでくれた!」
「ふふ。赤い時計ね。よくそんなことまで覚えているわね。」
サーシャがそう感心するように話すと、シアンはいきなりサーシャの手を握ってきた。もう問答は沢山だと言わんばかりに。
「ふふ。突然、どうしたのですか?」
サーシャは特に抵抗もしないで、悪戯っぽい表情で少年を見つめ続けた。するとシアンは彼女から視線をそらさずに
「サーシャ。俺たちって…やっぱ子供の時に出会ってたんだ。その…ずっと相思相愛で…。」
と懸命に言葉を選びながらそう訴えるように話した。サーシャはその手をチラッと気にするように見ると
「相思相愛ね。確かに、私は子供の時…シアンくんが大好きだったわ。」
と答える。その話す女神の瞳は美しく輝いていて、シアンはそのまま吸い込まれそうになるくらいだった。
「サーシャ。俺たちは選ばれた恋人だ。最初から運命が決まっていたんだよ。」
「まぁ…。」
「サーシャ…あのな…。」
シアンが何かを言いかけると、サーシャは彼の手の握り返し、うっとりした表情を浮かべその言葉を止めた。そして、彼の顔から目を離さないで、ゆっくりと立ち上がると
「さすがに眠くなってきました。あなたのことはベッドの上で、考えるわ。…ちゃんと夢に出て来てくださいね。」
と、意味深な言葉を残すと、そのままゆっくりとシアンの元を離れていった。
シアンは動悸のような胸の高鳴りが収まらず、しばらくその場から動けなかった。女神の甘い残り香に膝がガクガク震える。必死にその血の高鳴りを抑えようと、心臓を強く抑える。目を閉じてなんとかこの場から逃れようとするが、浮かんでくるのは、サーシャの優しい微笑みだ。大きく吸い込まれそうなブラウンの瞳、柔らかそうでふっくらとした唇。自分だけに向けられたように感じた優しい言葉。そして少し冷たかった女神の指先。
(俺は何をしてるんだ…耐えなければ…耐えなければ…)
必死に自分に言い聞かせる。自分に課せられた使命を頭にめぐらせる。彼にはこんなことに感けておれない大事なことがある…だが、その時
フゥー…。
と、シアンの耳元に温かい吐息がかかる。シアンは体をビクッ!とさせ慌てて目を開けると、そこにはこの店で歌手をしているバイシャリの横顔が覗いた。サーシャとは真逆の色っぽさに彼は再び体を固めた。
「あ、あんたは…?」
「フフッ。今は彼女のこと以外、どうでもいいんじゃない?」
と、色っぽい声で呟くと、その女は彼の太ももにそっと手を添えて、そのまま耳元で囁く。シアンは再び唾を無意識に飲み込んだ。
「彼女…あなたに夢に出てきて欲しいって言ってたわね…。」
「…。」
「ベッドの上でぼうやの事、考えるって…。」
バイシャリの色気たっぷりの言葉に、シアンはそこから必死に気持ちを逃がそうと、耳を塞いだ。だが、バイシャリは言葉を止めなかった。
「サーシャ様の彼氏さん…。今、いないのよ。知ってるんでしょ?」
「…。」
「あなた、私たちの話…盗み聞きしてたものね。」
それは、バイシャリとサーシャの恋話のことだ。サーシャは夢中でアルバのことを話していたが、バイシャリは少し離れた場所でずっとこっちを見ていたシアンに気づいていた。だがシアンは、彼女の言葉に慌てて大きく首を左右に振った。
「き、聞いてない。聞こえなかった…。」
「本当かな…?」
「ほ、本当だ。」
彼が強く否定するのを見たバイシャリは肩を竦ませる。彼女はポーカーフェイスで有名だ。10代のシアンにその心のうちは読み取ることは不可能だ。だが彼女は、逆に彼の心に眠る欲望を分かっているかの様に話を続けた。
「じゃ、教えてあげるわ。彼女…彼がいなくて、とても寂しがっていたわよ。」
「…それが?」
シアンはとても悔しそうに、バイシャリを睨む。彼にも当然、思惑はある。だが今はその事より、サーシャが自分だけに向けた笑顔を忘れる事ができない。先ほどまで、自分だけを見ていたと思っていた彼女の目が、実は他の男に向けられると思うと気が狂いそうだった。だが、彼女は追い打ちを掛けるように話を進める。
「彼が帰ってきちゃったら…元に戻るわ。ぼうやには分からないだろうけど…」
「俺が…何を分かっていないんだ…。」
「フフッ。あなたは本当に子供ね…彼女が迷ってること…気づかなかったの?」
「…ま、迷ってる?」
「う〜ん。むしろ…待ってる…あなたが来るのを。」
そこまで言うとバイシャリは、うっとりとする笑顔を浮かべ、彼の耳元からそっと顔を離した。
「そ、そんなわけ…。もしそうならサーシャから何か言ってくるはずだ!」
「フフッ。おバカさんね。彼氏持ちの女が、自分から誘えると思う?」
「…だけど。」
「ぼうや。女の子の方から誘って貰おうなんて虫が良すぎるわよ? あなたから…彼女に脱ぐ理由を与えてあげるの。貴方は…それを持ってるんでしょ?」
バイシャリはそう話すと立ち上がって座って固まっている彼を見下ろす。
「ぼうや、可愛いから教えてあげるわ。今夜が最初で最期のチャンスよ。…2階の一番奥の部屋。」
彼女はそう言い残し、ゆっくりとステージの方へと戻っていった。
バイシャリがステージに戻ると、彼女はまるで何もなかったような顔で、一つの席の前で立ち止まった。ため息もつかず、無表情なままのバイシャリは背筋をのばし堂々としている。すると、その横の暗がりの席から声がしはじめた。
「貴女って凄いわ。スカウトしたいくらい。」
「つーか、やりすぎだ…。」
「私…、ドキドキしてます…。」
それは3人の女性の声だった。バイシャリは微かに微笑みを浮かべながら、その3人と話を続けた。
「ふふ。私は、夜の女よ。色仕掛けなんて…お手のもの。ましてやあんな坊やじゃねぇ…。彼、まだ女を知らないもの。」
「…大人の女性って…恐ろしい…。」
「ふふ。貴女たちは英雄だけど、女としてはまだまだね。」
「…返す言葉もない。」
「フフッ。でも女神さまは、あの坊やにカラダを預けるかしらね…」
「やめてくれ。あんたが言うと、妙にリアルだ。サーシャに限って…」
「アルバ様を見るにつけ、女神さまは年下好き。うるうるした目でお願いされると、もう断れない。アルバ様を思いながらも、恥じらうお顔で、全てを求めてくる少年の愛を受け入れる女神さま…。背徳っていいわぁ、ゾクゾクしちゃう。歌がつくれるわ。」
「変態かよ…。つーか、あんなガキにサーシャが落ちるかよ!」
「あら、知らないの?彼女、押しに弱いわよ?」
「へ?」
「女神さまには、へんな小細工や駆け引きなんて効かない。むしろ、ストレートな想いの方で落ちるタイプ。つまり、子供じみた押しに弱いの…。あの坊やの欲しがり様は、きっとすごいわよ。彼女…耐えられるかしら…。」
「いやいや…サーシャは、清廉の極みだぞ?」
「それは偏見よ…。そういうのは彼女の肩書きがそうさせるのであって、ベッドの中で一人の女としては…どうかしらね…?」
「妙な説得力が嫌なんですけど…。」
「じゃ、もうひとつ…」
「…あんま聞きたくないんだけど…」
「アルバ様がいなかったら、私はいつでも彼女を抱けるわ。自信あるわよ?」
「…あんた、女だろ?」
「フフッ。誰が女が女を抱いちゃいけないって言ったの?そんなこと教団の教典にも書いれないわよ?」
「普通、そんなこと教典にかかねーだろ…。」
「フフッ。あなたたち、これからサーシャ様のお部屋にいくの?」
「そこまで聞いて、行かないわけには行かないだろ?」
「おやめなさい。それは野暮ってもんよ。」
バイシャリはその3人を見ようともしないでそう色っぽい声で呟いた。
(子供を揶揄うのって、おもしろーーい!)
と、思いながら…。




