第57話 番人
祝宴を前にして、僕の一日はさらに忙しくなる。
午前中はクリフや文官の人たちとの領地についての会議。
昼食を終えると、持ち越してしまった会議と決裁作業を済ませる。
そしてティータイムを挟んでから始まるのが――。
「初めまして、殿下。私はマリーダと申します」
いくつものハイテーブルが並んだ小広間に顔を出すと、すでにエイダさんと共にいた貴婦人が僕へ頭を下げてきた。
ブラウンの前髪を頭頂部で高く盛り上げた、いわゆる貴族らしい髪型の女性。
彼女が、祝宴までの間、僕の教育係になってくれる人だ。
そう。五歳から始まる王侯教育を前にして、今日から祝宴でのマナー講座が始まるのだ。
「はじめまして、しりるです!」
歩み寄りながらそう名乗ると、マリーダさんは青い瞳を僅かに見開いた。
そしてそんな目を細めて、ビシッと言ってくる。
「殿下。私などに敬語をつかってはいけませんよ」
「あ、つい……」
慣れないことだけど、僕は意識的に敬語や敬称を使わないようにしている。
貴族社会では、立場が上の者が下の者を敬うと、相手から挑発と見做されることがあるらしい。
昔、今よりもずっと争い事が多かった時代に、『我が首、獲れるものなら獲ってみろ』という意味を込めて立場が下の者へ敬語を使って話して挑発した文化の名残りだそう。
なんとも恐ろしい。
だから僕も、エイダさん以外にはそうしている。
「ふふっ、この感じ、懐かしいわ」
僕たちのやりとりを見ていたエイダさんが笑った。
どういうこと? と見上げた僕に、懐かしむように語ってくれる。
「マリーダ夫人はわたくしが王宮に入る際、一から立ち居振る舞いを教えてくれた方よ。今回、シリルの教育をお願いするにあたって、夫人しかいないと思ってお呼びしたの」
「光栄でございます」
恭しく頭を下げるマリーダさん。
お年は召しているようだけど、凛と伸びた背筋と優雅な身のこなしからは若々しい品格を醸し出している。
か、かっこいい。
「では、わたくしはここで。夫人、お願いするわね。シリル、頑張って」
「お任せください」
「うん!」
それだけ言って、エイダさんは小広間を出て行った。
マリーダさんを振り返ると、彼女は取り出した扇子で逆の手を叩いた。
うっ、扇子を見るとヴェロニカのことを思い出す。
「それでは殿下。早速ですが、私は来賓役を務めます。坊っちゃまは此度の祝宴の主催。私が挨拶に訪れた際、どのように対応しますか?」
「い、いきなり?」
まだ何も教わっていないけど。
戸惑う僕に、マリーダさんは鋭い目を向けてくる。
「ただ教わっただけでは身につきません。まずは一度間違え、なぜそれが正しくないのかを指導させていただきます。さぁ、来賓が現れましたよ」
マ、マリーダさん、さっきまでと雰囲気が違う。
スパルタだ……。
え、ええと。
……あ、そういえば、以前にルーティスさんが屋敷を訪ねてきた時、エイダさんがこう言っていたような。
僕は朧げな記憶を頼りに胸に手を当てて軽くお辞儀する。
「ようこそおこしくださいました。にーるこうりょうりょうしゅ、しりる・おぶらいえんです」
し、舌がまごつく。
でもにこりとだけ笑って、噛みそうになったことを誤魔化す。
「――――」
「……まりーだ?」
固まったまま、何も言ってくれない。
もしかして、これでは不足だろうか。
でも他に何を言えば……。
戸惑う僕の声に、マリーダさんは弾かれたように扇子を広げ、口元を覆った。
「も、申し訳ございません。少々驚いてしまいました」
「えっ?」
「殿下の対応は素晴らしいものです」
「ほ、ほんとに?」
なんとなく、エイダさんの見よう見真似だったけど。
「エイダ王妃は、『まだ幼いから最低限で大丈夫』と仰られておいででしたが……これは私も、本気を出す時が来たようですね」
「ん?」
な、なんだ……?
マリーダさんの目元に炎が見える。
「ぼ、ぼくのさほう、まちがってなかったんだよね?」
思わず不安になって訊ねると、マリーダさんは首を縦にも横にも振らず、ジッと見つめてくる。
「殿下のお年でしたら、十分すぎるものでした。殿下の教育係のお話をいただいた折は、このぐらいを目指すつもりでしたから。……ですが、私は殿下の聡明さを侮っていたようです」
パチン、と。
開いていた扇子を勢いよく閉じ、マリーダさんが笑う。いや、嗤う。
「こうなれば、私が殿下を社交界一の紳士に育てあげてみせましょう!」
「い、いや、そこまではべつに、いいんじゃ……」
エイダさんも別に『最低限で大丈夫』って言ってたんでしょ?
それに僕も五歳になれば王侯教育が始まるわけだし……。
抵抗する僕を、マリーダさんは睨みつけた。
「先ほど殿下の挨拶を素晴らしいと表現しましたが、それはあくまでも殿下のお年を考慮したもの。社交界一の紳士を目指す上では、正確ではない箇所が四箇所ございます」
いや、僕別に社交界一の紳士を目指しては――。
「よろしいですか? まず殿下のお名前ですが、ニール公の爵位を名と姓の間に――」
あっ、聞いてない。
それから陽が沈むまでの間、僕はマリーダさんにみっちり叩き込まれた。
その日の夜。僕はサイラスさんから、マリーダさんが貴族の間で『社交界の番人』として恐れられていることを知ったのだった。




