第10話 片鱗
それまでの和やかな空気が一変したのがわかった。
前方に現れた黒髪の女性は、何人もの側仕えをぞろぞろと引き連れて、僕たちの方へ歩み寄ってくる。
彼女は長髪のサイドを縦ロールで纏め、扇子の色と同じ赤と黒を基調にしたドレスを身に纏っていた。
この緑の多い庭園で、一際苛烈に見える。
乳母車に寝かされたまま、近付いてくる女性を眺めてそんなふうに思っていると、隣でエイダさんがこれまで聞いたことのない冷ややかな声音を発した。
「どうしてこちらに?」
「あら、いけなくて? 良き天気に誘われて、宮殿の庭園を散策していただけよ? それともあたくしが出歩くのに、あなたの許可が必要でして?」
「っ、いいえ、とんでもございません」
すっと頭を下げるエイダさん。
その表情はどこか苦しげ。
流石の僕も、目の前の女性がエイダさんにとって好ましくない相手というのはわかる。
それに、王子である僕の母親――つまりは王様の妃であるエイダさんがこうやって頭を下げる相手だ。
立場的にも相当上の人なんだろう。
突然、営業先に放り出されたような。そんなピリついた空気に、僕は思わず身じろぐ。
「……!」
そんな僕の気配を察して、エイダさんが頭を下げたままこちらへ視線を向け、にこやかに微笑んできた。
まるで僕に「大丈夫よ」と言ってくれているみたいに。
エイダさんがそんな目配せをしてくれている中、黒髪の女性はさらにこちらへ近づき、パチンと扇子を閉じた。
「その坊やが?」
「……ご紹介いたします、ヴェロニカ王妃。こちらがわたくしの息子のシリルです」
王妃? そうか、この人も王妃なんだ。
エイダさんが頭が上がらないあたり、同じ王妃でも正室と側室的な違いがあるんだろうか。
まあなんにしても、家族であることに変わりはない。
ちょっと嫌な感じがするけど、初対面で相手を決めつけちゃダメだ。
この間、王子や王女――つまりは僕の兄姉だけど――たちにしたように、乳母車を覗き込んでくるヴェロニカさんへ向けて手を挙げる。
「あーい!(シリルです!)」
元気よく名乗ると、隣でエイダさんが嬉しそうにしていた。
ふとヴェロニカさんの後ろを見ると、側仕えの人たちも意外そうに目を丸くし、表情を柔らかくしている。
だけど、当のヴェロニカさんは、かえって不満げに顔を顰めた。
「挨拶のつもり? 随分と賢いのね」
「恐れ入ります」
「他人に取り入る術は母親譲りってことかしら。ねえ、エイダ王妃」
「……ッ」
……なんだこの人。
嫌な感じとかそういうレベルじゃない。
完全にエイダさんを目の敵にしている。
今のやりとりで、後ろに控えていた側仕えさんたちも表情を引き締めなおしていた。
何も言い返せずにいるエイダさんへ向かって、ヴェロニカ……さんは僕を見下ろしたまま憎々しげに告げる。
「あの人譲りの金色の髪。まったく、あたくしにとっては忌々しいことこの上ないわ。……ああでも瞳はあなたと同じ青緑。よかったわ、あなたの汚い色も受け継いでいて」
「…………」
あの人、はたぶん僕の父親――国王様のことを言っているんだろう。
その特徴を僕が受け継いでいることが、なぜ彼女にとって忌々しいのか、話を聞いているうちになんとなく察しがつく。
彼女にも事情があるんだろうし、生まれたばかりの僕がそこに口を挟むつもりはない。
……だけど、一つだけ。
「あう、あーう!!(エイダさんの銀色の髪と青緑の目は、綺麗だよ!!)」
僕が大声を上げると、ヴェロニカとエイダさんが息を呑んだ。
僕の後ろで控えているメイドさんもまた、驚いた様子だ。
乳母車のハンドルを握る力が強まったのが、車体の軋みで感じられる。
正直僕が何かしても面倒ごとが増えるだけのような気がするけど、エイダさんをここまで悪く言われると、流石に黙ってもいられない。
そっちがその気なら、僕だって暴れてやる!
「うぅぅ、うぁああああ!!!!」
午前中。穏やかな陽光が降り注ぐ庭園に僕の絶叫が響き渡る。
慌てたメイドさんが僕を抱き抱えるけど、僕は泣き止まない。
エイダさんをいびるならさっさとどっか行け!
行くまで絶対泣き止んでやらないからな!!
「うぁああああ!!」
この間、魔鉱石をサイラスさんが回収しにきた時とは違う、完全な嘘泣き。
だからこそ僕が泣き止めるまで、永遠にこの絶叫は続く。
呆気に取られるヴェロニカ。
先ほどまでの感じの悪い笑みはすっかり鳴りを顰め、完全に気圧されている様子だ。
よし、僕の勝ちだ。
そう思ったのも束の間、ヴェロニカはまたにぃとその口角を上げると、エイダさんへ向き直った。
「どうやら怖がらせてしまったようね」
「とんでもございません。シリルはまだあまり人に会わせていないもので、戸惑っているのでしょう。以前に王子や王女にご挨拶した時には、疲労からか高熱を出したほどですので」
「あらそう。なんだか申し訳ないわね」
どの口が!
心の中で突っ込むと、ヴェロニカはさらに悪巧みをするように口元を歪ませた。
「そうよ、坊やをあたくしに貸してちょうだい。あたくしが抱けば泣き止むかもしれないわ」
「……!」
なんでそうなるんだよ!
ヴェロニカの繰り出すとんでも理論に僕を抱えるメイドさんまでも虚をつかれている。
そんな場の空気を読まず、というよりはわかった上で無視して、ヴェロニカはにっこりと笑いかけてきた。
「いいわよね、エイダ王妃」
「……ッ」
有無を言わさぬ物言いでエイダさんに断って、ヴェロニカは僕へ両手を伸ばしてくる。
なんだかすんごい身の危険を感じる。
だけど――。
「おやめください」
「……はぁ?」
「失礼ながら、ヴェロニカ王妃との突然の出会いに、わたくしの息子は戸惑っている様子。そんな中でヴェロニカ王妃が抱き抱えられては、余計に息子に負担がかかるだけです」
それまで何も言い返さなかったエイダさんが僕の前に割って入ってくる。
そうして毅然とヴェロニカへ言い放った。
エイダさんが断ることは予想だにしていなかったのか、ヴェロニカは固まり――そうして冷え切った声音で問う。
「あたくしに逆らうつもり?」
「息子のことが第一ですから」
「……平民の分際で、どこまであたくしを馬鹿にするわけ?」
「そんなつもりはございません」
「――ッ」
頭を下げるエイダさんに、ヴェロニカはカッと目を見開く。
「お黙りなさい!!」
ヴェロニカが扇子を持った手をそのまま振り上げた。
その手はエイダさんの顔へ向けて振り下ろされていく。
エイダさんをぶとうとしている。
そのことに気付いた瞬間、僕はいてもたってもいられなくなった。
「ああう!(やめろ!)」
赤子が叫んだところでどうしようもない。
このままエイダさんはヴェロニカに理不尽にぶたれる。
そのはずだった。
「ッ、きゃぁ!?」
辺りに響いたのは頬がぶたれる音でも、エイダさんの苦悶の声でもなく、ヴェロニカの悲鳴。
横薙ぎに吹きつけた突風に、ヴェロニカの体は吹き飛ばされ、すぐそばの生垣へと叩きつけられる。
「ヴェロニカ王妃!?」
顔を上げたエイダさんを筆頭に、ヴェロニカの側仕えや周りのメイドさんたちが慌てて駆け寄る。
そんな中、僕は空中の一点を見つめ、目を丸くしていた。
ヴェロニカが吹き飛ばさる前、僕は確かに見た。
頭上を揺蕩っていた緑色の毛玉さんが、ヴェロニカへ向けて、その可愛いあんよを突きつけていたのを。
……もしかして今の突風は、毛玉さんが引き起こしたの?




