EP 5
ゴミ回収とバキュームカーの概念はどこへ!? 乙女ゲー世界の致命的バイオハザードから完全防備で脱出せよ
王都ムーンキャピタルの城門まであと少しというところで、私の足はピタリと止まった。
朝の陽ざしが街を照らし、気温が徐々に上がり始めたその時。
私の鼻腔を、いや、脳の生存本能を直接殴りつけるような『強烈な異臭』が漂ってきたのだ。
「……う、うぐっ……!?」
思わず口元を覆う。
隣を歩くコン太も「きゅぅぅ……」と涙目になりながら、両前足で自分の鼻を押さえている。犬科(狐だけど)の嗅覚には相当キツいダメージだろう。
この臭い。
微かな腐敗臭に混じる、ツンとくるアンモニア臭と、卵が腐ったような硫化水素の臭い。
私は理系としての知識を総動員し、周囲の状況とこの街のインフラを再計算した。
(待って。よく考えなさい、私)
先ほど、私はこの街のメインストリートが『排水溝のないフルフラットな大理石』であることに絶望した。
雨が降ったら流れるプールになると。
だが、排水溝(下水道システム)が存在しないということは、雨水だけでなく『生活排水』や『あれ』はどうやって処理されているというのか?
私は恐る恐る、美しく磨き上げられた純白の大理石の道の『端』に視線を向けた。
そこには、前夜のパーティーの残りカスらしき生ゴミの山と、謎の茶色い液体がじっとりと溜まり、朝日に照らされて発酵し始めている。
「まさか……」
嫌な予感に背筋が凍ったその時。
沿道に建つ豪華なロココ調の建物の2階から、「失礼しまーす」という軽い掛け声と共に、メイドがバケツの中身を窓の外へバシャァッ!と勢いよくぶちまけた。
「ヒッ!?」
飛び散った液体は、歩道の端に見事に着弾し、水はけの悪い大理石の上でゆっくりと広がっていく。
(やってる……! やっぱりやってるわ!!)
世界史の授業で習った、中世ヨーロッパの暗黒の真実。
下水道インフラが未発達な時代、人々はおまるの中身や生活排水を、平気で窓から路地へ投げ捨てていたという歴史的事実。
このキラキラした乙女ゲームの世界にも、その非衛生的な文化がそのまま適応されていたのだ!
「いやいやいや、ちょっと待って! おかしいでしょ!?」
私は頭を抱えて叫んだ。
「これだけ人口密度の高い王都で、誰がゴミを回収してるの!? ゴミ収集車は!? 汚物を回収するバキュームカーは誰が運転してるんですの!? 浄水場と下水処理施設という近代都市における最重要インフラをすっ飛ばして、見た目だけ白亜の街並みを作ってどうするのよ!!」
私の怒声に、コン太が「きゅ、きゅぅ……」と同情するように鳴いた。
大理石の道は水分を吸収しない。傾斜も側溝もない。つまり、投げ捨てられた汚水は、ただひたすら蒸発するか、誰かの靴の裏に付着して運ばれるのを待つしかないのだ。
ここで、私の脳内にさらなる恐ろしい事実が閃いた。
(……この世界の貴族令嬢たちって、床に引きずるようなフリルの長いドレスを着てるわよね?)
昨晩の夜会でも、王太子にすがりついていた男爵令嬢は、美しいドレスの裾を床に引きずって歩いていた。
もし、彼女たちがこの大通りをそのドレスで歩いたとしたら。
「……汚水モップ……」
私は思わず呟いた。
ヒロインたちが優雅にドレスの裾を揺らして歩くたびに、大理石にぶちまけられた見えない汚物や雑菌をドレスの生地で拭き取り、そのまま室内へ持ち込んでいるのだ。
そして、そのドレスのままベッドに座り、お茶を飲み、王太子とイチャイチャしている。
「オエェェェェェェェェェッ!!」
想像しただけで、強烈な吐き気が込み上げてきた。
無理。絶対に無理。
美観最優先で衛生観念がゼロ。感染症のリスク管理という概念が存在しない。こんなバイオハザード特区に一秒でも長くいたら、コレラかチフスか赤痢にかかって死んでしまう!
「コン太、緊急事態よ。現在、この王都の環境ハザードレベルはMAXと認定します」
私は震える手で空中にUIを展開した。
「【ネット通販】起動! お急ぎ便どころか、ゼロ秒決済よ!」
検索窓に打ち込むのは、理系女子の命綱。
『タイベック・ソフトウェアIII型(感染症対策・化学防護服)』
『防毒・防じんマスク(全面形・吸収缶付き)』
『ニトリルゴム製使い捨て手袋(厚手・100枚入り)』
『ペット用高性能防臭マスク』
――ポンッ! ポンッ! ポンッ!
一瞬で出現した段ボール箱を開き、私は凄まじいスピードで着替えを始めた。
ドレスの上から真っ白な化学防護服を着込み、頭まですっぽりとフードを被る。手にはニトリル手袋を二重に装着し、顔にはガスマスクのような全面形の防毒マスクをガチャンと固定した。
「ふしゅぅー……っ」
フィルターを通した清浄な空気が肺を満たす。
よし、これで外部からの病原菌および悪臭の侵入は100%シャットアウトだ。
「コン太、あんたもこれ付けなさい!」
「キュピ!?」
怯えるコン太の鼻先に、ペット用の高性能防臭マスクを装着させる。ラバーブーツと防臭マスクを付けた黄金の小狐。もはや聖獣の欠片もなく、危険地帯の探知犬のようなビジュアルになってしまったが、背に腹は代えられない。
「行くわよ、コン太! こんなクソみたいな(物理的な意味で)インフラ崩壊都市、一刻も早く抜け出すわ!」
『ふしゅぅー、ふしゅぅー』というダース・ベイダーのような呼吸音を響かせながら、私は完全防備のタイベックスーツ姿で王都のメインストリートを爆走した。
城門の警備に当たっていた門番たちは、大理石の道を信じられないスピードで走ってくる『全身白ずくめでガスマスクを被った謎の不審者(と、ラバーブーツを履いた謎の生物)』を見て、完全にパニックに陥っていた。
「な、なんだアイツは!?」
「止まれ! 貴様、怪しい者――」
「退きなさぁぁぁぁい! 感染したくなければ道をあけろぉぉぉっ!」
私は防毒マスク越しのくぐもった声で絶叫し、そのまま強行突破で城門を駆け抜けた。門番たちは私の異様な気迫(と、感染という謎の単語)に圧倒され、道を譲るしかなかった。
城門を抜け、王都の城壁から十分に距離を取ったところで、私はようやく足を止めた。
広がるのは、緑豊かな平原。
都市の淀んだ空気とは違う、草と土の清々しい香りが、防毒マスクのフィルターを通しても微かに感じられた。
「……ふぅ。どうやら、死地は脱したようね」
私は防毒マスクを外し、大きく深呼吸をした。
新鮮な空気が肺の隅々まで染み渡る。
「きゅぅぅ……」
コン太もマスクを外し、ヘナヘナとその場に座り込んだ。お疲れ様、あんたもよく頑張ったわ。後でジャーキー2倍にしてあげる。
振り返れば、朝日に輝くムーンキャピタルの白亜の城壁が見える。
外から見れば美しいが、あの壁の中は衛生観念とインフラが死滅したディストピアだ。
「さようなら、コスパ最悪の王太子。さようなら、距離感ゼロの氷血公爵。さようなら、バキュームカーのない世界」
私は二度とあの街には戻らないと固く誓った。
「さて、それじゃあ次の目的地を決めないとね。インフラが整ってて、家賃が安くて、衛生観念がまともなホワイトな土地……どこかにないかしら」
こうして、理系社畜OLのエミリアは、王都のバイオハザードから逃れ、本当の安住の地(ホワイト就職先)を求めて荒野へと足を踏み出したのである。
その先に、一癖も二癖もある『ポポロ村』というカオスな辺境が待ち受けているとは、この時の私は知る由もなかった。
読んでいただきありがとうございます。
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