EP 2
出会って3分で顎クイですか? 氷血公爵の距離感がバグっているので心療内科を推奨します
王太子の婚約破棄イベント(という名の、私による論破&損害賠償請求の告知)を終え、私は足早に王宮の庭園へと抜け出した。
夜風が火照った頭を冷ましてくれる。
さあ、これであんな泥舟みたいな王室とはおさらばだ。さっさと実家の男爵邸に戻って荷物をまとめ、この非合理で頭の痛い王都から脱出する計画を立てなければ。
「ふふっ、まずは【ネット通販】で旅行用のキャリーケースと、野宿用のテントでもポチろうかな……」
一人でこれからのホワイトな辺境スローライフを想像し、思わず笑みがこぼれたその時だった。
――スゥッ……。
唐突に、周囲の気温が急激に下がった。
ただの夜風ではない。肌を刺すような、物理的な冷気。
庭園の入り口のアーチから、一人の長身の男がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
月光に照らされて浮かび上がったのは、彫刻のように整った美貌。
乱れのない漆黒の髪に、絶対零度を思わせる氷のように冷たい青い瞳。
身に纏う軍服のような豪奢なコートからは、隠しきれない圧倒的な魔力が漏れ出ている。
(あー……出たよ。乙女ゲー恒例の、もう一つのテンプレ物件)
彼の名は、ヴァルター・フォン・アーデルハイト。28歳。
帝国北部を治める公爵であり、帝国最強クラスの魔剣士。
戦場では一切の情けを見せず、貴族社会では「人の心がない」と恐れられる男。女性からの求婚は全て無表情で跳ね除け、政略結婚にすら一切の興味を示さない、通称『氷血公爵』。
本来の乙女ゲーシナリオなら、王太子に捨てられた傷心のヒロインを不器用ながらも拾い上げ、甘々に溺愛してくる「裏ルートのヒーロー」である。
だが、私は傷心でもなんでもないし、彼に関わるメリット(ROI)は一つもない。
適当に挨拶だけして、さっさと立ち去ろう。
「これはアーデルハイト公爵閣下。ごきげんよ――」
私がカーテシー(淑女の礼)をしようと膝を曲げかけた瞬間。
ヴァルター公爵は、私の挨拶を遮るように大股で歩み寄ってきた。
(ん?)
3メートル。
2メートル。
1メートル。
(……えっ、ちょっと待って。どこまで近づいてくるの?)
公爵は歩みを止めない。
50センチ。
30センチ。
10センチ。
「――っ!?」
ついには、私の鼻先と彼の胸元のボタンが触れ合いそうな距離――わずか5センチの超至近距離にまで迫り、ようやくその長い足を止めた。
見上げれば、彼の冷たい青い瞳が、信じられないほどの近さで私を見下ろしている。彼の吐息が、私の前髪を揺らした。
「先ほどの広間での立ち回り、見事だった。エミリア・シフォンヌ」
低く、響くような美声。
だが、そんなことよりも。
(近っっっっっっっっっっっっっっっっっっっわ!!!!)
頭の中で、前世の社畜時代に叩き込まれたコンプライアンス・アラートがけたたましく鳴り響いた。
なんだこの距離感。出会って3分も経ってない初対面の女に対して、パーソナルスペースを完全にガン無視したこの立ち位置。
満員電車でもないのに、なぜこんな密着状態にならなければいけないのか。
私がドン引きして言葉を失っていると、ヴァルター公爵はさらに信じられない行動に出た。
スッと長い腕を伸ばし、冷たい指先で私の顎をすくい上げたのだ。
いわゆる、『顎クイ』である。
「面白い女だ。王太子に捨てられて泣き喚くかと思えば、あの理路整然とした反撃……。お前、私に――」
「【ネット通販】起動」
私は一切の躊躇なく、魔力でUIを展開した。
カートに入れて決済したのは、工事現場などで使われる『黄と黒のトラ柄バリケードテープ(非粘着)』と、『建築用レーザー距離計』だ。
――ポンッ!
空間から飛び出したレーザー距離計を公爵の胸板にピタリと押し当て、赤いレーザーを照射する。
同時に、彼の腕をペチッと払い除け、トラ柄のテープを彼と私の間にビーッと引き伸ばした。
「なっ……!?」
突然の未知の道具の出現と、私の冷酷な拒絶に、さしもの氷血公爵も目を丸くして固まった。
「公爵閣下。初対面で大変恐縮ですが、いくつか指摘させていただきます」
私はトラ柄のテープをバリケードのように張りながら、彼から正確に2メートルの距離を取った。
「第一に、物理的距離が異常に近すぎます。現在の感染症対策や公衆衛生の観点から見ても、初対面の相手に対して距離5センチまで接近するなど、飛沫感染のリスク管理が全くできていません。最低でも2メートルの距離を保ってください」
「は……? そーしゃる、でぃすたんす……?」
「第二に、先ほどの私の顎を持ち上げる行為。あれは何ですか? 事前の同意なき不用意な身体接触は、前世……いえ、私の基準では完全なセクシャルハラスメント、並びにパワーハラスメントに該当します。一発で懲戒処分の対象ですよ」
私はレーザー距離計の数値を読み上げながら、氷のように冷たい視線を彼に浴びせた。
「戦場で『人の心がない』と噂されているそうですが、人の心以前に、空間認識能力とコンプライアンス意識が欠如しています。視力に問題がないのであれば、脳内の距離を測るセンサーか、対人距離を制御する前頭葉の機能がバグっている可能性が高い。一度、専門の心療内科に行ってカウンセリングを受けることを強く推奨します」
「しんりょう、ないか……?」
ヴァルター公爵は、完全にポカンとしていた。
帝国最強と謳われる男が、黄と黒のトラ柄テープの向こう側で、まるで未知の言語を聞かされた宇宙人のような顔をしている。
「『面白い女だ』とかテンプレめいたセリフを吐こうとしていたようですが、私から見れば貴方はただの『パーソナルスペースが保てない公爵の皮を被った変質者』です。近寄らないでください。通報しますよ」
私が冷徹に言い放つと、ヴァルターの青い瞳に、わずかに動揺――いや、奇妙な熱のようなものが灯った。
「……恐れない、のだな。私のこの、呪われた冷気を。そして私を『変質者』と呼んだ女は、お前が初めてだ」
(うわぁ……出たよ。乙女ゲー特有の「俺にこんな態度をとる女は初めてだ(トゥンク)」現象。完全に話が通じないタイプだこれ)
「ええ、恐れていませんよ。私が恐れているのは、貴方の呪いなんかじゃなく、貴方の常識のなさと遵法精神の欠如です。申し訳ありませんが、私は定時で帰りたい主義ですので。これにて失礼します」
これ以上この変質者に関わると、私の貴重なワークライフバランスが崩壊する。
私はトラ柄のバリケードテープをそのまま放置し、ヒールを鳴らして全速力でその場から立ち去った。
背後から、「エミリア……。やはりお前は、私の――」という、熱を帯びたヤバい声が聞こえた気がしたが、私は両耳を塞いで全力で聞かなかったことにした。
(ダメだこの王都! 王太子はコスパ最悪のアホだし、帝国最強の公爵は距離感ゼロのストーカー気質だし! 絶対に明日、ここから逃げ出してやる!)
私は固く決意し、夜の闇へと駆け出した。
まずは【ネット通販】で、逃亡用の高カロリー携行食と、熊よけ(変質者よけ)のスプレーを購入しなければならない。
私の戦いは、まだ始まったばかりである。
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると励みになります。




