第九話 覚悟の力
小早が接岸したのは、瓢箪島の東側にある砂浜であった。
遮るもののない白い砂浜が広がり、生口島の島影が美しいグラデーションを作り出している。打ち寄せる波の音だけが、奇妙なほど静かに響いていた。
大三島水軍と能島村上の水主たちがそれぞれ舟を降り、二人の対峙を囲むようにして砂浜へ集まってきた。
「さあ、越智安成。どこからでもかかってきやがれ! そのひょろっとした身体、海へ叩き落としてやらぁ」
村上武吉は砂を蹴り、愛用の木刀を肩に担いで不敵に笑った。まだ十代前半の少年とは思えないほど、堂々とした威圧感に満ちている。能島の荒くれ者たちが、待ってましたとばかりに声を張り上げた。
「へっ、やっちまえ若! 大祝の気取った青瓢箪に、海の厳しさを教えてやれぇ!」
「鶴姫さんも覚悟を決めときな! うちの若の嫁御寮になるんだからよぉ!」
下品な笑い声が飛び交うなか、鶴姫の頬が怒りで朱に染まる。彼女は安成の背中をぐいと強く押し、確信に満ちた声で囁いた。
「安成様、どうかあの生意気な小童を、完膚なきまでに懲らしめてやってください。大祝の、そして大三島水軍の強さ、思い知らせてやるのです!」
「おぅよ! 越智様、能島のガキに格の違いを見せてくだされ」
大三島水軍の水主たちも負けじと声を荒らげるが、安成の心中はそれどころではなかった。
(……無茶を言わないでくれ、鶴姫。みんなも煽らないでくれ……)
安成は心中で激しく頭を抱えていた。
彼自身の剣の経験といえば、幼い頃に地元の道場で、数年間ほど竹刀を握った程度に過ぎない。構えや基本の足捌きくらいは身体が覚えているが、目の前にいるのは、のちに瀬戸内海を震撼させる本物の海賊の卵、それも野生の塊のような少年なのだ。
安成は足元に落ちていた、手頃な太さの木の棒を拾い上げた。ずしりとした重みと、滑らかな木の感触が手のひらに伝わる。
ゆっくりと呼吸を整えながら両手で握り、正眼に構えた。背筋を真っ直ぐに伸ばし、木の棒の先端を少年の喉元へと正確に向ける。
しかし、わずかに剣先が震え、喉の奥が焼けるように渇く。
それを見た武吉が、わずかに目を細め、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「へっ、構えだけは一丁前じゃな。そんなお上品な剣が、俺の剣に通じるかよ」
言い終えるや否や、砂を蹴り上げ、武吉の身体が弾かれたように飛び込んできた。
凄まじい踏み込みだった。容赦なく上段から振り下ろされる木刀に対し、辛うじて手元の棒を掲げて受け止める。
――ガツン!
激しい衝撃が両腕を突き抜け、骨が軋むような痛みが走った。
武吉の攻撃は、安成が知る剣道のそれとはまるで違っていた。綺麗な型などどこにもない。波飛沫を浴び、常に足元の揺れる船上で鍛え上げられた、生きるための力任せで変幻自在な打撃だ。
「らあッ、どうした越智安成、防ぐだけで精一杯かぁ」
間髪入れずに放たれる横薙ぎを、安成は必死に身を引いて躱す。
完全に防戦一方だった。かつて習った技を繰り出す隙など、微塵も見当たらない。武吉の木刀が風を切り、鋭く砂を跳ね上げるたびに、安成の息はみるみるうちに上がっていく。
「それ見たことか、大祝の青瓢箪、腰が引けとるぞ」
「若ぁ、一気に叩き伏せちまえ!」
能島の水主たちが勝ち誇った声を上げる。
大三島水軍の面々は、信じられないといった様子で声を失っていた。いつもなら、武吉程度の小童、安成の敵ではないはずなのだ。
「はっ、大したことねぇな。口ほどにもねぇ」
連撃の隙を突き、武吉の鋭い足払いが、安成の軸足を容赦なく捉えた。完全に体勢を崩した航の胸元を、すかさず武吉の拳が強く突き飛ばす。
「うわっ!」
体が宙に浮き、激しく砂浜に尻もちをついた。その衝撃で、手から棒が滑り落ち、乾いた音を立てて砂の上を転がっていく。
勝機を確信した武吉が、一気に勝負を決めんと木刀を両手で高々と振りかぶった。容赦のない渾身の一撃が、倒れて動けない航の脳めがけて真っ直ぐに振り下ろされる。
「しまっ――」
死の恐怖が脳裏をよぎり、なりふり構わず、横へと必死に身体を転がした。
ドゴォン、と鈍い音がして、つい先ほどまで航の頭があった砂地へ、武吉の木刀が深く突き刺さる。冷や汗が全身から噴き出した。
しかし、武吉の追撃は止まらない。すぐさま砂から木刀を引き抜くと、獲物を完全に追い詰めた肉食獣のようなぎらついた目で、こちらを睨みつけてくる。
(クソッ、やっぱり俺には無理だ……戦国時代の人間を相手に、現代人の俺が勝てるわけがない……)
心の中で、弱音と諦めの言葉が激しく弾けた。自分は本物の戦国武将ではない。つい昨日まで、戦いとは無縁の平穏な世界で生きていた男だ。こんな命がけの真似、土台無理な話だったのだ。
すべてを投げ出そうと、諦めが胸を過ったその瞬間。
「安成様……、……安成様、立ってください!」
悲痛な鶴姫の叫びが、海風を割って安成の耳に届いた。
視界の端に、固さに身をこわばらせて戦いを見守る、彼女の姿が飛び込んでくる。
いつも凛としていて、勝気で眩しかった彼女の顔が、今は見たこともないほど不安げに、悲しそうに歪んでいる。小さな両手を胸の前でぎゅっと握りしめ、必死に祈るような、縋るような目で見つめていた。その髪飾りの鈴が、風もないのに細かく、寂しげな音を立てて震えている。
(このまま、俺が負けたら……)
彼女はあの生意気な少年のものになってしまう。この見知らぬ冷酷な時代に放り出された自分を、誰よりも心配し、真っ直ぐに必要としてくれた、あの温かい少女が。
(……そんなのは、絶対に嫌だ)
ふつふつと、腹の底から熱い感情が湧き上がってきた。おめおめと負けて、彼女を奪われるだと?
(俺は本当に全力を尽くしたのか…また逃げ出すのか…まだ、一歩も前に踏み出してさえいないじゃないか)
「まだだ……まだ終わっちゃいない!」
武吉が次の一歩を踏み出すよりも早く、安成は砂を力強く掴んで立ち上がった。
足元に転がっていた木の棒を、気迫で引ったくるようにして再び拾い上げる。その一連の動作に、先ほどまでの迷いや弱腰は一切消え失せていた。
「ほう、まだ立つか。それでこそ越智安成じゃ」
武吉の言葉に、周囲のどよめきがピタリと止まる。
深く、長く息を吐き出し、構えを崩さずに棒を握り直す。安成の瞳の奥には、かつて安成が宿していたものとも違う、己の意志でここで生き抜くという、鋭く強い光が確かに灯っていた。
それを見た武吉は、驚きに目を見張ったあと、すぐに獰猛な笑みをその口元に浮かべた。




