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凪の鈴音〜大三島、悠久の誓い〜  作者: nyancos


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第十話 潮目の変わる時

 無人島の砂浜に、激しい木刀と棒のぶつかり合う音が再び響き渡った。


 一度は諦めかけ、そこから執念で立ち上がった安成の構えには、先ほどまでとは違う重みがあった。


 付け焼き刃の剣道ではない。ただ「ここで生きていく」という剥き出しの意志が、その切っ先を武吉の喉元へ縫い留めている。


 鋭い打ち合いが何度か交わされ、互いの息が白く弾ける。じりじりと砂を踏み締めながら、安成の脳裏に、昨日、出会ったあの老人の言葉が、にわかに蘇ってきた。


『焦らずじっと待て。潮目が変わるのを見逃すな』


(潮目……。いま、俺が待つべき潮目はどこにある……)


 焦る心を必死に抑え込み、武吉の双眸から目を逸らさない。


 しかし、武吉の圧力に安成は波打ち際へと追い詰められる。


 その刹那、武吉の口元が不敵に歪んだ。


「これでも喰らいやがれッ」  


 武吉は足元を力任せに払い、乾いた砂を大きく巻き上げた。

 容赦のない目潰しである。視界が真っ白に遮られたその瞬間、武吉は砂煙の向こうから、上段に構えて猛然と飛びかかってきた。


「卑怯なり、能島の小童ッ!」


 大三島水軍の水夫たちが怒号を上げる。


 しかし、宙を跳ぶ武吉は声を荒らげて笑い飛ばした。


「戦に卑怯もあるかぁ、これぞ兵法よ」


 必殺の勢いで振り下ろされる木刀。だが、覚悟を決めた安成は怯まなかった。


(動けっ、俺の体、前に出るんだ)


 迫り来る砂煙の恐怖に目を背けることなく、むしろその渦中へと、自ら一歩前へ踏み込んだのだ。


 予想外の突進に、武吉の目が驚愕に見開かれる。


 振り下ろされる木刀が安成の肩をかすめるより早く、安成は低く沈み込み、全体重を乗せて武吉の懐へと体当たりを敢行した。


――ドン!


 肉と肉が激しくぶつかる鈍い音が響き、宙にいた武吉の身体が、面白いように後ろへと弾き飛ばされた。


 砂浜を二度、三度と転がり、武吉はすぐさま跳ね起きる。

 互いに得物を構え直したまま、激しく上下する肩で息を繰り返した。


「……へっ、しぶとい野郎だ。だが、これでおしまいだ」


 武吉の顔から、完全に余裕が消えていた。じりじりと間合いを詰め、安成の胸元を見据える。その構えが小さく絞られた。神速の突きを繰り出す。その予兆だった。


――その時。


 生口島の島影の端から、まさに朝日が完全に顔を出した。


 ぎらりと、瀬戸内の凪いだ水面が鏡のように強い光を跳ね返す。遮るもののない大光輪が、安成の背を、神々しいまでの黄金色に染め上げた。


「あ……っ!?」


 突こうとした武吉の視界が、強烈な逆光によって真っ白に染まる。完全に目が眩んだ。


(今だ!!)


 安成はその「潮目」を、決して見逃さなかった。


 太陽の光を背に背負い、一歩の迷いもなく踏み込む。


 下から鋭く振り上げた木の棒が、武吉の木刀を鮮やかに弾き飛ばした。からりと乾いた音を立てて木刀が砂に落ちる。そのままの勢いで武吉の胸を押し倒し、砂に伏せた彼の喉元へ、木の棒の先端をぴたりと突き付けた。


 勝負は、決した。


 武吉は仰向けのまま、天を仰いで固まっている。安成の瞳に宿る、気迫の凄まじさに圧倒され、全身から嫌な汗が噴き出していくのが分かった。


 砂浜を、完全な沈黙が支配する。誰もが、目の前の光景に息をすることさえ忘れていた。


「……勝負あり!」  


 静寂を破ったのは、鶴姫の凛とした声だった。


 その声を合図に、大三島水軍の水夫たちが一斉に歓声を爆発させた。


「おおおっ、越智様が勝ったぞ!」


「大山積大神が、いや、天照大神が、越智様にお味方したぞ」


 口々に神々の名を叫び、狂喜乱舞する水夫たち。


 一方で、砂まみれになった武吉は、悔しさに顔を真っ赤にして叫んだ。


「今のは無しじゃ! お前、そんな卑怯な手があるかぁ!」


 親の仇のように喚く少年に対し、鶴姫はふんと鼻で笑い、勝ち誇ったように胸を張った。


「戦に卑怯もありません。これぞ兵法でしょう? 我らには神々の加護がお味方しているのです。とっとと負けを認めなさい、小童」


 湧き立つ周囲の声を余所に、安成は静かに木の棒を引くと、呆然としたままの武吉に手を差し伸べた。


「……立てるか」


 武吉はその手を忌々しそうに睨んだが、やがて観念したように掴み、立ち上がる。


 安成は彼を引き起こした勢いのまま、周囲の水夫たちには聞こえない低い声で、武吉の耳元に言葉を落とした。


「今のは、運に助けられただけだ。武吉殿の武勇は本物だよ。……だから、もしこれから先、鶴姫に何かあれば、その時は力を貸してやってほしい」


 武吉は目を見張った。一瞬、何を言われたのか分からず、航の顔を凝視する。


 大祝の懐刀としての誇りや、勝者の驕りなど、その顔には微塵もなかった。あるのは、ただ一人の少女の身を本気で案じる、深く静かな覚悟だけだ。


「……ふん。わかったよ、男に二言はねぇ」


 武吉はぶっきらぼうに吐き捨てた。しかし、その胸の奥には、確かな敗北感が刻まれていた。剣の腕ではない。この越智安成という男の器が、自分の何倍も大きいということを、彼は肌で悟ってしまったのだ。


 武吉は落ちた木刀を拾い上げると、肩に担ぎ直して振り返った。


「今日は、俺の負けじゃ。じゃが次は必ず俺が勝つ。 越智殿、首を洗って待っとれ」


 そう言い残すと、少年はどこか清々しい、無邪気な笑顔を浮かべて己の小早へと走っていった。


 遠ざかる能島の舟を見送りながら、鶴姫が不審そうに安成の顔を覗き込んできた。


「安成様、先ほどあの小童と、一体何を話しておられたのです?」


 安成は木の棒を砂浜に落とすと、わざとらしく伸びをして笑った。


「何でもないよ。それより、酷く腹が減ったな。さあ、島に帰って飯にしよう」


「もう、またそうやってはぐらかすのですから」


 不満げに鈴の音を響かせる鶴姫の後ろ姿を追いながら、安成は静かに己の手のひらを見つめていた。ジリジリとした熱い感覚が、今もまだ、皮膚の裏側に残っていた。

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