第八話 碧海からの訪問者
翌日、夜明け頃、大三島の海は抜けるような群青に染まっていた。
木造の小舟の舳先に立つ安成の肌を、引き締まった朝の風が撫でていく。昨夜、腹に収めた質素な飯の味は、今も彼の四肢に確かな力を与えていた。
「越智様、潮の引き際じゃ。遅れれば宮浦の瀬に捕られますぞ」
櫓を握るのは源爺と呼ばれる最古参で腕利きの水主である。源爺は日に焼けた顔を綻ばせて声をかけてくる。
安成の隣には、小袖の袂をきりりと結び、引き締まった表情で海を睨む鶴姫の姿があった。
「安成様、速いでしょう。これが、我が大三島水軍自慢の韋駄天小早と呼ばれる船です。他の小早よりひと回り大きな櫓を扱うことで、この異常な速度と小回りを実現しているのですよ」
今日は近隣の島々の巡視、いわば大三島水軍の「縄張り」の確認であった。
舟が滑るように進むにつれ、水主たちは周囲の景色を指差しながら、安成に語りかけてくる。
「ご覧くだされ。あの瓢箪島の東側は、干潮の間際になると一気に底が浅くなります。大船を引き込めば簡単に座礁しますで」
「逆に、あちらの伯方島へ抜ける鼻栗瀬戸は、見た目こそ穏やかだが海底の岩が複雑でな、激しい渦が巻く。地元の者でなければ舟を叩き割られますわい」
源爺や水主たちの言葉を聞きながら、安成は無言で海面を見つめていた。
奇妙な感覚だった。彼らが口にする難所の名前も、潮の性質も、耳にする先からすとんと胸に落ちていくのだ。
「……いや、座礁させるなら、瓢箪島の東ではなく、さらに南の浅瀬はどうだろう」
安成の口から、無意識に言葉が零れ落ちた。
「開けているせいで油断しやすいが、あそこは引き潮の際、見た目には深く見えるが、実は浅いんじゃないか。大内の大船の吃水ならば、底を擦るどころか完全に舵を奪われるはずだ」
一瞬、舟の上が静まり返った。艪を漕いでいた源爺が動きを止め、驚いたように安成の顔を見つめる。
「……さすが越智様、大したもんじゃな。まさしくその通りじゃ。あそこは一見、深そうに見えて、海面下に隠れ根が伸びておりますでなぁ。地元の漁師でも、そうそう見抜けるものでもない。やはり、安成様の頭の中には、この瀬内の海がすべて入っておられるようじゃ」
源爺が感心したように深く頷く。
なぜ、そんなことが分かったのだろうか。東京のサラリーマンだった自分が知るはずのない地形だ。これは、現代の知識ではない。この身体に刻まれた、本物の「越智安成」の記憶の断片が、海の匂いに誘われて呼び覚まされたのだろうか。
(俺の中に、まだ安成が生きているのだろうか……)
その確信は、背筋を微かに震わせた。
しかし、横に立つ鶴姫が誇らしげに唇の端を上げ、小さな鈴の音を響かせて安成を見上げている。
しばらく島々の間を巡り、空が白み始めた頃だった。前方、波飛沫を上げて、一艘の小早が猛烈な勢いでこちらへ近づいてくるのが見えた。大祝家の舟よりも一回り小さく、だが驚くほど足が速い。
「何じゃ、あの舟は……。大三島水軍の者ではないな」
安成が目を細めると、源爺たち水主の顔色が一変した。
「……能島村上の紋。――ちっ、またあの悪童か!」
小早は速度を落とさぬまま、安成たちの舟の鼻先をかすめるようにして急停止した。
器用に舳先へと飛び出してきたのは、まだ十代前半と思しき、日焼けした一人の少年だった。身体は小さいが、その瞳には野性と、不敵なまでの自信がぎらぎらと輝いている。
少年は、航たちの舟に立つ鶴姫の姿を認めると、白い歯を見せて不敵に笑った。
「誰かと思えば鶴姫じゃねぇか! 相変わらず、神主の娘のくせに、淑やかさの欠片もねぇツラして俺の海をうろついてやがるな!」
「なっ……! この海はお前のものではねぇ!」
「能島の小童が生意気に!」
三島水軍の水夫たちが色めき立ち、腰の柄に手をかける。しかし、少年はどこ吹く風で、さらに声を張り上げた。
「おい、鶴姫! いつまでもそんな島に引きこもってねえで、俺の嫁になれや! 能島に来れば、美味い魚を毎日飽きるまで食わせてやるぞ!」
あまりに直球で、あまりに破天荒な求婚に、安成は思わず呆気にとられた。当の鶴姫はといえば、怒るどころか、冷ややかな視線を少年に向け、ふんと鼻で笑い飛ばした。
「相変わらず口の減らない小童ですね。私は己より弱い者は好かん。用がないなら、とっとと能島へ帰りなさい!」
「へっ、誰が弱いって?」
少年は鼻を親指で擦ると、鶴姫の隣に立つ安成へと視線を移した。その鋭い眼光が、安成の姿を捉える。
「……お前は、越智安成じゃな。大祝の懐刀だか何だか知らねぇが、いつも鶴姫の傍にくっつきやがって。俺の邪魔をするな!」
少年は大きく手を広げ、航を指差した。
「鶴姫よ、俺はそこの男より強いぞ。そんなひょろっとした男のどこがいいんじゃ!」
あまりの挑発に、鶴姫の眉がぴくりと跳ね上がった。
幼馴染であり、己の武術の指南役でもある安成を侮辱されたことが、彼女の導火線に火をつけたらしい。
「言わせておけば……。安成様がお前のような小童より弱いわけがないでしょう!」
鶴姫は一歩前に出ると、少年に向かって言い放った。
「そこまで言うなら、安成様と勝負してみなさい。もし安成様に勝てたなら、何なりと望みを聞いてあげましょう!」
「お、おい、鶴姫……!?」
突然、自らを賭けの対象に引きずり込まれた安成は、慌てて彼女の袖を引いた。しかし、鶴姫の目は完全に据わっており、背中の鈴が激しく怒りの音を立てている。
「へっ、言ったな! 女でも二言は許さねぇぞ、鶴姫!」
能島の少年は、勝利を確信したように獰猛な笑みを浮かべ、腰の木刀を引き抜いた。
安成は額を押さえた。戦国の現実を学び始めた矢先に、とんでもない野生児の巻き添えを喰らう羽目になってしまった。
「……鶴姫、あれは一体、誰なんだ?」
安成が小声で尋ねると、鶴姫は不機嫌極まりない声で吐き捨てた。
「あれは能島村上の小倅――武吉です。瀬戸内一の、大馬鹿者にございますわ!」
――村上武吉。
その名を聞いた瞬間、脳裏に宗次郎から散々聞かされた、後世「瀬戸内海の覇者」と呼ばれることになる稀代の海賊大将の、未来の姿が重なった。だが、目の前にいるのは、ただの血気盛んな、負けず嫌いの少年である。
「さあ、越智安成! !勝負じゃあ!得物を取れ!!!」
少年の咆哮が、静かな海に響き渡った。




