表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
凪の鈴音〜大三島、悠久の誓い〜  作者: nyancos


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/47

第八話 碧海からの訪問者

 翌日、夜明け頃、大三島の海は抜けるような群青に染まっていた。


 木造の小舟の舳先に立つ安成の肌を、引き締まった朝の風が撫でていく。昨夜、腹に収めた質素な飯の味は、今も彼の四肢に確かな力を与えていた。


「越智様、潮の引き際じゃ。遅れれば宮浦の瀬に捕られますぞ」


 櫓を握るのは源爺と呼ばれる最古参で腕利きの水主(かこ)である。源爺は日に焼けた顔を綻ばせて声をかけてくる。


 安成の隣には、小袖の袂をきりりと結び、引き締まった表情で海を睨む鶴姫の姿があった。


 「安成様、速いでしょう。これが、我が大三島水軍自慢の韋駄天小早と呼ばれる船です。他の小早よりひと回り大きな櫓を扱うことで、この異常な速度と小回りを実現しているのですよ」


 今日は近隣の島々の巡視、いわば大三島水軍の「縄張り」の確認であった。


 舟が滑るように進むにつれ、水主(かこ)たちは周囲の景色を指差しながら、安成に語りかけてくる。


「ご覧くだされ。あの瓢箪(ひょうたん)島の東側は、干潮の間際になると一気に底が浅くなります。大船を引き込めば簡単に座礁しますで」


「逆に、あちらの伯方(はかた)島へ抜ける鼻栗(はなぐり)瀬戸は、見た目こそ穏やかだが海底の岩が複雑でな、激しい渦が巻く。地元の者でなければ舟を叩き割られますわい」


 源爺や水主たちの言葉を聞きながら、安成は無言で海面を見つめていた。


 奇妙な感覚だった。彼らが口にする難所の名前も、潮の性質も、耳にする先からすとんと胸に落ちていくのだ。


「……いや、座礁させるなら、瓢箪(ひょうたん)島の東ではなく、さらに南の浅瀬はどうだろう」


 安成の口から、無意識に言葉が零れ落ちた。


「開けているせいで油断しやすいが、あそこは引き潮の際、見た目には深く見えるが、実は浅いんじゃないか。大内の大船の吃水ならば、底を擦るどころか完全に舵を奪われるはずだ」


 一瞬、舟の上が静まり返った。艪を漕いでいた源爺が動きを止め、驚いたように安成の顔を見つめる。


「……さすが越智様、大したもんじゃな。まさしくその通りじゃ。あそこは一見、深そうに見えて、海面下に隠れ根が伸びておりますでなぁ。地元の漁師でも、そうそう見抜けるものでもない。やはり、安成様の頭の中には、この瀬内の海がすべて入っておられるようじゃ」


 源爺が感心したように深く頷く。


 なぜ、そんなことが分かったのだろうか。東京のサラリーマンだった自分が知るはずのない地形だ。これは、現代の知識ではない。この身体に刻まれた、本物の「越智安成」の記憶の断片が、海の匂いに誘われて呼び覚まされたのだろうか。


(俺の中に、まだ安成が生きているのだろうか……)


 その確信は、背筋を微かに震わせた。


 しかし、横に立つ鶴姫が誇らしげに唇の端を上げ、小さな鈴の音を響かせて安成を見上げている。


 しばらく島々の間を巡り、空が白み始めた頃だった。前方、波飛沫を上げて、一艘の小早が猛烈な勢いでこちらへ近づいてくるのが見えた。大祝家の舟よりも一回り小さく、だが驚くほど足が速い。


「何じゃ、あの舟は……。大三島水軍の者ではないな」


 安成が目を細めると、源爺たち水主の顔色が一変した。


「……能島(のしま)村上の紋。――ちっ、またあの悪童か!」


 小早は速度を落とさぬまま、安成たちの舟の鼻先をかすめるようにして急停止した。


 器用に舳先へと飛び出してきたのは、まだ十代前半と思しき、日焼けした一人の少年だった。身体は小さいが、その瞳には野性と、不敵なまでの自信がぎらぎらと輝いている。


 少年は、航たちの舟に立つ鶴姫の姿を認めると、白い歯を見せて不敵に笑った。


「誰かと思えば鶴姫じゃねぇか! 相変わらず、神主の娘のくせに、淑やかさの欠片もねぇツラして俺の海をうろついてやがるな!」


「なっ……! この海はお前のものではねぇ!」

「能島の小童が生意気に!」


 三島水軍の水夫たちが色めき立ち、腰の柄に手をかける。しかし、少年はどこ吹く風で、さらに声を張り上げた。


「おい、鶴姫! いつまでもそんな島に引きこもってねえで、俺の嫁になれや! 能島に来れば、美味い魚を毎日飽きるまで食わせてやるぞ!」


 あまりに直球で、あまりに破天荒な求婚に、安成は思わず呆気にとられた。当の鶴姫はといえば、怒るどころか、冷ややかな視線を少年に向け、ふんと鼻で笑い飛ばした。


「相変わらず口の減らない小童ですね。私は己より弱い者は好かん。用がないなら、とっとと能島へ帰りなさい!」


「へっ、誰が弱いって?」


 少年は鼻を親指で擦ると、鶴姫の隣に立つ安成へと視線を移した。その鋭い眼光が、安成の姿を捉える。


「……お前は、越智安成じゃな。大祝の懐刀だか何だか知らねぇが、いつも鶴姫の傍にくっつきやがって。俺の邪魔をするな!」


 少年は大きく手を広げ、航を指差した。


「鶴姫よ、俺はそこの男より強いぞ。そんなひょろっとした男のどこがいいんじゃ!」


 あまりの挑発に、鶴姫の眉がぴくりと跳ね上がった。


 幼馴染であり、己の武術の指南役でもある安成を侮辱されたことが、彼女の導火線に火をつけたらしい。


「言わせておけば……。安成様がお前のような小童より弱いわけがないでしょう!」


 鶴姫は一歩前に出ると、少年に向かって言い放った。


「そこまで言うなら、安成様と勝負してみなさい。もし安成様に勝てたなら、何なりと望みを聞いてあげましょう!」


「お、おい、鶴姫……!?」


 突然、自らを賭けの対象に引きずり込まれた安成は、慌てて彼女の袖を引いた。しかし、鶴姫の目は完全に据わっており、背中の鈴が激しく怒りの音を立てている。


「へっ、言ったな! 女でも二言は許さねぇぞ、鶴姫!」


 能島の少年は、勝利を確信したように獰猛な笑みを浮かべ、腰の木刀を引き抜いた。


 安成は額を押さえた。戦国の現実を学び始めた矢先に、とんでもない野生児の巻き添えを喰らう羽目になってしまった。


「……鶴姫、あれは一体、誰なんだ?」


 安成が小声で尋ねると、鶴姫は不機嫌極まりない声で吐き捨てた。


「あれは能島村上の小倅――武吉たけよしです。瀬戸内一の、大馬鹿者にございますわ!」



――村上武吉。



 その名を聞いた瞬間、脳裏に宗次郎から散々聞かされた、後世「瀬戸内海の覇者」と呼ばれることになる稀代の海賊大将の、未来の姿が重なった。だが、目の前にいるのは、ただの血気盛んな、負けず嫌いの少年である。


「さあ、越智安成! !勝負じゃあ!得物を取れ!!!」


 少年の咆哮が、静かな海に響き渡った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ