第七話 鈴音の鳴る庭で
村上航が「越智安成」として、この時代を生きる覚悟を決めてから数日が経ったある日。
越智安成としての生活は、驚くほど規則正しい。夜明け前に大山祇神社の境内の掃除を手伝い、午前は水軍の練兵を検分し、午後は鶴姫との稽古や身辺の守りに就く。
「安成様、また難しい顔をしていらっしゃいますね」
大山祇神社の回廊を歩いていた航の背中に、涼やかな声がかけられた。
振り返ると、そこには籠を抱えた鶴姫が立っていた。
稽古での立ち会いの時のような凛とした姿ではなく、今の彼女は、どこにでもいる年相応の少女のような、柔らかな空気を纏っている。
「……ああ、いや。この島の人たちが、あまりに普通に暮らしているのが不思議で…」
「普通、でございますか? 安成様は近頃おかしなことをおっしゃりますね」
「あ、ああ。いつ大戦が起こってもおかしくないっていうのに、みんな笑って、耕して、祈っている……みんな恐ろしくなって、逃げ出したいと思わないのかな」
安成は、都会の駅で死んだ魚のような目をしていた自分や同僚たちを思い出し、自嘲気味に呟いた。
すると鶴姫は、籠の中から真っ赤に熟した野いちごを一粒摘み取ると、航の手のひらに乗せた。
「ほら、食べてみてください。泥にまみれても、命はこうして甘い実をつけます。私たちは、この『普通』を守るために懸命に生きているのです。戦うことそのものが目的ではございません」
安成は渡された実を口に放り込んだ。野生の、刺すような甘酸っぱさが広がる。
(……これが、命の味、か)
理屈ではなく、生きるということにこれほど真っ直ぐな言葉を、これまでの人生で聞いたことがなかった。
「安成様、少しあちらの木陰で休みましょう。今日は安舎兄上も神事に忙しく、私を呼び出す者はおりませんから」
二人は境内の大楠の根元に腰を下ろした。鶴姫は籠から不恰好な握り飯を取り出し、一つを安成に差し出す。
「形はともかく美味しそうだ」
「もう! 形はともかくは余計です」
鶴姫は頬をふくらませる。
「以前の安成様は、私の料理など見向きもされませんでしたが……今のあなたは、少しだけ、優しくなられた気がします」
「……そう、かな」
安成は言葉を濁し、握り飯を頬張った。
隣に座る彼女から、微かに潮の香りと、清涼な鈴の音が漂ってくる。自分を「安成」として疑わず、信頼の眼差しを向けてくる彼女に対して、申し訳なさにも似た、落ち着かない感情を抱いていた。
(この子は、俺じゃない『安成』を見ている。……でも、その安成が命を懸けて守ろうとしているのは、この少女なんだろう)
時折「安成」の感情や記憶が流れ込んでくるような感覚を覚えていた。
鶴姫が、ふと海の方を見つめる。
「安成様はいずれ戦の無い世が訪れると思いますか?」
「ああ、ずっと先になると思うけど必ず戦の無い世が訪れる。時には辛いこともあるけど、みんな幸せに暮らしているよ」
「ふふふ…まるで見てきたようにおっしゃいますね」
鶴姫は穏やかに笑う。
「私はね、安成様。いつかこの海から争いがなくなったら、ただの巫女として、この大楠の下でこの島を見守って一生を終えたいと思っているのです……」
「……それに、時にはこの海の遠く先へも行ってみたい」
一瞬、嬉しそうな彼女の瞳に寂しげな陰が差した。それは、この戦乱の世の現実を知る、十五歳の少女の素顔だった。
彼女の背負う「現実」はあまりに重く、そして尊く見えた。
好意というよりは、畏怖に近い感情。そして、この平穏を壊したくないという切実な願い。
「……俺に、何ができるかは分からないけど」
安成は、自分の手を見つめて言った。
「俺は側仕えとして、いつも君の隣にいる。今はそれしか言えないけど……その役割だけは、放り出さないつもりだ」
「……安成様」
鶴姫は驚いたように安成を見つめ、それから鈴を転がすように小さく笑った。
「十分でございます。あなたがそこにいてくださるだけで、私は………」
彼女が何を言おうとしたのか、風が吹き抜けて聞き取れなかった。
ただ、大楠の葉音に混じって響く鈴の音が、今の安成にはひどく脆く、守るべきもののように感じられた。




