第六話 饗応の灯火
大山祇神社の鳥居が、夕闇のなかに黒々とそびえ立っていた。
瀬戸内の浜辺から、一歩一歩踏みしめるようにして戻ってきた航の足取りは、先ほどがむしゃらに境内を飛び出したときとは違っていた。
ザラザラとした着物の擦れる音にも、足の裏から伝わる土の冷たさにも、もう怯えてはいない。
「潮目が変わるそのときまで、越智安成として、ここで生きてやる」
村上航の腹の底で固まったその覚悟が、彼の身体に確かな重心を与えていた。
境内の外まで差し掛かったとき、ふと前方で動く人影が目に入った。夕暮れの薄明かりのなか、不安そうに何度も辺りを見渡しているのは――鶴姫だった。
安成の姿をその瞳が捉えた瞬間、彼方の顔にパッと明らかな安堵の色が広がる。しかし、次の瞬間にはハッとしたように唇を引き結び、昼間の無礼を思い出したかのように、ツンと「まだ許していない」という複雑な表情を作った。
安成は逃げずに、真っ直ぐに彼女へと歩み寄った。距離が縮まり、二人の視線が交錯する。
鶴姫は何か文句でも言ってやろうと口を開きかけ――しかし、そのまま言葉を失った。
昼間の、何かに怯え、現実を拒絶して彷徨っていた安成の虚ろな目は、そこにはなかった。今の安成の瞳には、静かで、しかし決して揺らぐことのない強い眼差しが宿っている。それは彼女のよく知る、一本芯の通った幼馴染の「越智安成」そのものの輝きだった。
鶴姫の瞳から険しさが消え、ふっと小さな溜息とともに、安堵の色彩が戻っていく。
「……戻られたのですね」
「ああ。心配をかけた」
自然と口から出た言葉に、鶴姫は小さく頷くだけで、それ以上は何も言わずに安成を奥の広間へと促した。
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通された広間には、すでに二人の男が座しており、中央には膳が並べられていた。
お膳を前にした途端、安成の胃袋が情けないほどの音を立てた。目覚めてから丸一日、極限の緊張と混乱のなかで何も食べていないのだ。
出されたのは、器に盛られた麦混じりの飯、小ぶりの魚の塩焼き、それに山菜の浮いた澄んだ汁物。
現代の飽食の時代から見ればおそろしく素朴で、洗練さとは程遠い。しかし、漂う磯の香りと香ばしい匂いは、空腹の安成の身体に強烈な誘惑となって襲いかかった。
「――何をまごついておる、越智殿。箸が進まぬか?」
正面に座る、体格のいい堂々とした体躯の男――大祝一族の長兄である安舎が、豪快に笑いながら声をかけてきた。
「昼間のあれは、お鶴に負けた悔しさに錯乱したか。そんなことでは湯築のお館様に顔向けできんぞ」
(ゆづき……お館様……?)
安成は箸を持ったまま動きを止める。男の隣に座る、もう一人の精悍な顔立ちの男、昼間に見た顔――次兄の安房が、呆れたようにため息をついた。
「兄者、越智殿をからかうな。大三島水軍随一の使い手と数合打ち合うだけでもたいしたものよ。それに越智殿は知略こそが強み。ひとたび戦となれば河野の陣頭に立って采配を振るい、海を駆けようぞ」
「ふん、安房、お前は甘いな。使い手といえども鶴姫はまだ十五。大祝が預かるこの瀬戸内の海では、そのような体たらくなど神が許さぬわ」
(水軍……陣頭……知略……)
安成の脳裏に不穏な単語が並び、せっかくの空腹が引っ込みそうになる。
(安成はそれ程までに期待されているのか…)
思考を巡らせる安成の横から、少し離れて座っていた鶴姫が、小さく鼻を鳴らして口を開いた。
「二人とも、安成様を責めるのはそこまでにしてください。……見てごらんなさい、目はすっかり、いつもの安成様に戻っています。きっと、お腹が空きすぎて頭が働かなかっただけですわ」
鶴姫の言葉に、安舎と安房が顔を見合わせ、それから安成の顔をまじまじと見つめた。確かに、先ほどまでの奇行が嘘のように、今の安成の瞳には据わった覚悟のような光が宿っている。
「ほう……なるほど、お鶴の言う通りだな。よし、気にするな越智殿! 食え! 大祝の戦人が、飢え死にするなど笑い話にもならん!」
「いただきます……!」
これ以上の思考は、今の胃袋が許さなかった。安成は意を決して箸を動かし、麦飯を口に掻き込んだ。ゴワゴワとした硬い食感。しかし、噛み締めるほどに穀物そのものの素朴な甘みが口いっぱいに広がる。続いて、焼き魚の身を毟って口に運んだ。直火で炙られた皮の香ばしさと、凝縮された魚の旨味、塩気が、乾ききった身体の隅々にまで染み渡っていく。
「美味い……っ、すごく美味い……!」
「ははは! 良い食いっぷりだ! それでこそ越智殿だ!」
安房が満足そうに杯を傾ける。
「そうだ、その意気で大内の軍勢も平らげてもらわねば困る。河野のお館様からも、近頃の周防の大内の動きには注意せよと文が届いておるからな」
汁物を一気に飲み干し、椀を畳に置いた航は、その言葉を深く頭に刻み込んだ。
(周防の大内……。それが、この人たちの――俺たちの敵、なのか)
この時代がどんな結末を迎えるのか、現代人の知識としての断片はあっても、生身の現実としてはまだ何も見えない。けれど、喉を通り過ぎた素朴な食事の熱さが、安成の胸に「俺は今、ここで生きている」という確かな鼓動を刻みつけていた。




