第五話 夕凪の潮目
「わけがわからない。俺はどうしたら良いんだ……」
部屋に取り残された航は、きつく頭を抱え込んだ。
いくら考えても答えなど出ない。壁も、床も、漂う木の匂いも、すべてが本物だ。ただ座して悩んでいることすら耐え難くなり、航は突き動かされるように木戸を開け、外へと飛び出した。
ザラザラとした着物の擦れる音が、妙に耳につく。境内を抜け、生い茂る木々の間をがむしゃらに駆け抜けた。息が切れる。足の裏から伝わる土や草の感触は生々しい。
走りながら見る景色は、航にとって奇妙な違和感に満ちていた。
遠くに見える島の形、海の青さ、かすかに聞こえる波の音。どれもが確かに「見たことがある」瀬戸内の風景だった。
しかし、舗装された道路も、電柱も、遠くに見えるはずの造船所も、どこにもない。見慣れているはずなのに、見知らぬ景色が広がっていた。
知らず知らずのうちに、航の足はある場所へと向かっていた。自分が生まれ育った我が家があるはずの場所。
しかし、辿り着いたその場所には、見覚えのある生家も、隣の家もなかった。ただ、風に揺れる雑草が生い茂る、何もない野原が広がっているだけだった。
「本当に……何もないのか」
航はその場にへたり込み、肩を落とした。自分の存在の根拠が、歴史の彼方に消え去ってしまったかのような圧倒的な孤立感が押し寄せる。
どれほどそうしていたろうか。気がつけば、陽が傾き始めていた。瀬戸内の海は、波一つ立たない夕凪の時間を迎えている。
航はふらふらと立ち上がり、波打ち際へと歩いた。
ピタリと動きを止めた海面は、まるで一枚の巨大な鏡のようだった。夕焼けの橙色を映すその水面に、航は恐る恐る自分の顔を覗き込む。
そこに映っていたのは、見慣れた「村上航」の顔ではなかった。日焼けし、どこか野性味を残した、引き締まった若い男の顔。
(これが……越智安成の顔か……)
見知らぬ男の瞳が、水面から自分を見返している。航はただ、途方に暮れるしかなかった。
言葉も出ず、時間の感覚さえ失いかけていた、その時だった。
「どうなされた、お若い方。まるで潮に流されて、迷子になったような背中をしておるな」
背後から、不意にしゃがれた声が掛けられた。驚いて視線だけを向けると、そこにはいつからいたのか、腰の曲がった一人の老人が佇んでいた。白髪混じりの髪を無造作に結び、年季の入った着物を着ている。
航は自嘲気味に、乾いた笑いを漏らした。
「ははは……似たようなもんだよ」
老人は航の隣まで歩み寄ると、鏡のような海を静かに見つめた。
「瀬戸の潮の流れは難しいからのぉ。満ち引き一つで、さっきまで進めた道が消え、牙を剥く。潮の流れは、人じゃどうにもできん。逆らおうとすれば沈むだけじゃ。流れに身を任せるしか、生き残る道はない」
老人の静かな語り口は、どこか優しかった。航は黙って耳を傾ける。
「どうして良いかわからん時は、じっと待つんじゃ。焦ってはいかん。どれほど長く見えても、いずれ潮目が変わる。……その時を決して見逃してはいかんぞ」
(……まるで、じいちゃんの口調みたいだな)
現代に残してきた、かつて同じような言葉で自分を諭してくれた祖父の姿が脳裏をよぎり、航の胸の奥が少しだけ温かくなった。
「そういうもんかね……」
航は力なく笑い、老人の方へ視線を移した。
「ありがとう、おじいさ――」
しかし、振り返った先には、誰もいなかった。凪が終わり、風が草を揺らす音だけが響いていた。
「……あれ、……?」
狐につままれたような奇妙な感覚。しかし、不思議と恐怖はなかった。ただ、老人の言葉が、波の引いた砂浜のように航の心に深く染み込んでいた。
――流れに身を任せるしかない。いずれ潮目が変わる。
航はもう一度、水面に映る「越智安成」の顔を見た。今度は目を逸らさなかった。胸のざわつきが、夕凪の海のように少しずつ静まっていく。
(……待つしかない、か。だったら、潮目が変わるその時まで、ここで生きてやるよ)
自分の置かれた現実を、航は静かに、しかし確かに受け入れ始めていた。




