第四話 困惑の連鎖
「安成様、まだ意識が混濁していらっしゃるのですか……!」
少女――鶴姫が、縋り付くように航の顔を覗き込む。その瞳には、今にも零れ落ちそうな涙が溜まっていた。
「……安成? 誰のことだ。俺は村上航だ」
その時、ひとりの男が入って来た。がっしりとした体躯に、日焼けした精悍な顔立ち。鋭い眼光が、動揺する航を射抜く。
「安房兄上!」
鶴姫が弾かれたように振り返り、男を呼んだ。男は足早に二人のそばへと歩み寄ると、航の様子をじろじろと見分けるように眺め、それから小さく息を吐いた。
「越智殿、大事ないか……。しかし越智殿が村上などと、あんな荒くれどもと間違えるとは、余程打ちどころが悪かったか」
「兄上、安成様はまだはっきりとされないのです。あまり大声を出さないで下さい」
鶴姫が遮るように言うと、安房は豪快に笑い飛ばした。
「しかし、越智殿、してやられたな。お鶴の薙刀の腕前は確かだ。大三島水軍にお鶴より腕の立つ者はおるまいよ。この儂でも勝てるかどうか。お鶴、お前は大山祇神社の巫女でもあるのだ、もう少し加減せよ」
「もう安房兄上! 出て行って下さい!」
「ははは、わかった、わかった。怖い、怖い」
そう言って安房という男は出て行った。
「安成様、こちらへ。立てますか?」
鶴姫は航の腕をそっと支え、立ち上がらせようとする。航は自分の足に力を入れたが、いつもより重心が低く、妙にどっしりとした身体の感覚に戸惑い、一瞬よろめいた。
「おっと……すまない」
「やはり、まだ足元が覚束ないのですね。私の部屋で一度、しっかりと傷を改めさせてください。さあ、こちらです」
板張りの廊下を歩きながら、航は自分の衣服のポケットを探るように手を動かした。ジーンズも、着古したパーカーもない。着ているのはザラザラした藍染めの道着のようなものだけだ。
(スマホは? 財布は? ……クソ、何もない。時計すらないのか)
案内された鶴姫の部屋は、ほのかに木の匂いが漂っていた。調度品はどれも漆塗りや木製で、プラスチックや金属の光沢はどこにも見当たらない。
「そこに腰を下ろしてください。いま、新しい布と薬を」
鶴姫は手際よく薬草の香りがする布を取り出し、航の傷の手当てを始める。その指先は優しく、しかしどこか慣れた手つきだった。
(大山祇神社……ここは過去の大三島なのか? そして俺は越智安成という人間になっている? 信じられない……)
呆然とする航の様子を見て、鶴姫は心配そうに手を止めた。
「落ち着かれましたか?」
「……あの、一つ聞いてもいいかな」
「はい、何なりと」
「今は、西暦何年?……いや、元号は何て言うんだ?」
「せいれき……? 天文の世にございますが……やはり、まだ頭が揺れていらっしゃるのですね」
天文…航の脳裏に、歴史の授業で聞いた微かな記憶がよみがえる。戦国時代だ。
「俺は村上航というんだ、未来から来た。気がついたら、この体になっていたんだ」
航は彼女の両目を真っ直ぐに見つめて言った。突飛すぎる告白に、鶴姫は一瞬きょとんとした顔をした。しかし、すぐに悲しげに眉をひそめ、ふくれっ面になる。
「安成様、この度は私が悪うございました。しかし、いつまでも……そう……意地悪をされなくても……」
鶴姫の瞳に、みるみるうちに涙が浮かんでいく。
「意地悪じゃない! 信じられないかもしれないけど本当なんだ、信じてくれ!」
「……そんなお伽話のような、もうやめてください! 私は、本当に安成様がこのまま目覚めないのではないかと…ずっと、御神木に祈っていたのです。それなのに、起きて早々そのようなはぐらかしばかり……」
「鶴姫……」
「もう! 知りません! 安成様の意地悪!」
そう言って鶴姫は怒って出て行った。ピシャリと激しく木戸が閉まる音が部屋に響き渡る。
「わけがわからない。俺はどうしたら良いんだ」
航は頭を抱え、ただ途方に暮れた。窓の外からは、現代のそれとは明らかに違う、どこまでも澄んだ瀬戸内の波の音が、静かに室内に流れ込んでいた。




