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凪の鈴音〜大三島、悠久の誓い〜  作者: nyancos


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第三話 刻の狭間

 船の上は、異様なほど静まり返っていた。


 宗次郎は舵から手を放し、仁王立ちのままじっと前方を見つめている。


 その背中は、普段の「頑固なじいちゃん」のものではなく、荒海を統べる者のような威厳を湛えていた。


「じいちゃん、さっきの『通り道』って……」


「航、余計なことは喋るな。耳を澄ませ。この海の声を聴け」


 宗次郎の目は、海面の僅かな揺らぎすら逃さない。彼は、代々語り継がれてきた「村上水軍の誇り」――村上水軍の末裔としての血の疼きを、今この瞬間に研ぎ澄ませているようだった。


 やがて、風がぴたりと止んだ。



――凪。世界が止まる。



 水平線の向こうから溢れ出した光が、空を濃密な朱色に染め上げていく。朝焼けが鏡のような海面に映り込み、現実と虚像の境界が溶け合っていく。暗闇に沈んでいた瀬戸内の島々が、黄金の輪郭を纏って次々と姿を現した。


「……綺麗だ」


 航は思わず息を呑んだ。都会の展望台から見るそれとは違う、圧倒的な生命の胎動。


 だが、そのあまりに幻想的な美しさが、心が疲弊した航の意識を深い安らぎへと誘う。極限の静寂は、心地よい重力となって瞼にのしかかった。船の僅かな揺れが、ゆりかごのように彼を深い眠りへと引きずり込んでいく。


「いいか、航。ちょうど、こんな時にな……」


 宗次郎の低い声が遠ざかる。意識が急速に、深く、暗い海の底へと沈んでいった。






 不意に、清らかな音が鼓膜を震わせた。




――チリン




 潮騒に混じって響く、透き通った鈴の音。





 航は混濁する意識の中、誰かがが自分の右手を、痛いほど強く握りしめていることに気づく。



「何だ……これ……」



 声が出ない。体が動かない。



安成やすなり様……! ああ、申し訳ありません、私の打ち込みが強すぎました……! 気が付かれたのですね」


(この声は………誰だ…)


 震える声に薄目を開けると、そこには髪の長い、息を呑むほど美しい少女がいた。



「ここは……」


 ドタドタと足音が響く。


「鶴姫様! 水をお持ちしました」



(……鶴姫?……)


 少女が水に浸した手ぬぐいを絞り、航の額へ当てる。


「安成様、私を……鶴を、お分かりになりますか?」


「……安、成……?」


 絞り出した航の声は、板張りの床に虚しく吸い込まれていった。


 目の前の少女――鶴姫は、その言葉に一瞬目を見開いたが、すぐに安堵したように微笑み、さらに強く航の手を握りしめた。


「良かった……! 本当に良かった、このまま目が覚めなかったらどうしようかと、生きた心地がいたしませんでした」


 鶴姫はそう言って、弾けるような満面の笑みを浮かべた。その瞳には、心からの安堵の光が宿っており、握られた手のひらから彼女の体温が真っ直ぐに伝わってくる。


「………じいちゃん、は………」


 航の脳は、この状況をひとつも正しく処理できなかった。


 じいちゃんの船はどうした。さっきまで、すぐ目の前にあった宗次郎の頑丈な背中はどこへ消えた。


 視線を泳がせると、視界に入るすべてが狂っていた。白くて硬いFRP製の船体も、錆びたキャビンも、微かに漂っていたディーゼルオイルの匂いもない。


 代わりに航の背中を支えているのは、陽を浴びて温まった、滑らかな板張りだった。見上げれば、太い木の梁が剥き出しになった見たこともない高い天井。部屋の隅には、何かの冗談のように武骨な鎧が置かれている。



「安成様? まだお頭がぼんやりいたしますか? じいちゃん、とは……どなたのことでしょう」


 鶴姫が心配そうに顔を覗き込んできた。長い黒髪がさらりと揺れ、彼女の放つ瑞々しい熱気が、航の肌にダイレクトに伝わってくる。


 その距離感の近さと、あまりに精巧な現実感に、航の心臓が嫌な速さで脈打ち始めた。


(これは夢だ。早く起きろ、起きろよ……!)


 航は悪夢を振り払うように、強く目を閉じて、もう一度開いた。


 だが、現実は何ひとつ変わっていなかった。


 やはり目の前には心配そうな美少女がいて、自分の右手はしっかりと握られている。


 起き上がろうと床に手をついた瞬間、さらなる違和感が航を襲った。


 視界に入った自分の手の甲が、明らかに普段の自分のものより一回り大きく、節くれ立っている。


「……なんだこれ。誰の手だよ、これ……!」


 自分の口から出た声が、低く、太い、全く聞き覚えのない男の響きを持って響く。


 その事実に、全身の毛穴が総毛立つような恐怖がこみ上げた。自分の身体なのに、自分のコントロール下にないような、気味の悪い感覚。


「安成様……? しっかりしてください、安成様!」


 取り乱し始めた航の様子に、鶴姫の顔から笑みが消え、今度は深刻な狼狽が広がっていく。


 しかし、今の航には彼女を気遣う余裕など微塵もなかった。


 冷や汗が背中を伝う。五感を叩く本物の木の匂い、肌をなでる生温かい風、ズキズキと痛む後頭部。そのすべてが、ここが自分の知る世界ではないことを冷徹に突きつけてくる。


 わけが分からない。自分が誰なのか、ここがどこなのか、境界線が完全に崩壊していく感覚の中で、航はただ、激しく早くなる呼吸を抑えることしかできなかった。

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