表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
凪の鈴音〜大三島、悠久の誓い〜  作者: nyancos


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/47

第二話 潮の静寂

 大三島に帰ってきてから、一週間が過ぎた。


 航の毎日は、驚くほど単調だった。午前中は縁側で普段は読みもしない文庫本を広げ、午後はかつて通った小学校の木造校舎や、錆びついたガードレールが続く海岸線を当てもなく歩く。


 昔馴染や旧友に出くわすのではないかと思っていたが、意外にも誰にも会うことはなく、航は内心安堵していた。


 ある日の午後、いつものように海岸沿いの道を歩いていると、数人のグループとすれ違った。手にはデジタルカメラや観光パンフレットがある。


(意外と観光客がいるんだな……)


 かつての寂れた記憶しかなかった航は、少し意外な心持ちで彼らを見送った。


 その時、海側から急に突風が吹き抜けた。


 少し離れたところを歩いていた、長い黒髪の女性の白い帽子が、ふわりと宙に舞う。帽子は風に煽られ、ちょうど航の足元へと転がってきた。


 航は反射的にしゃがみ込み、その帽子を受け止める。


「あ、ありがとうございます」


 駆け寄ってきた女性が、少し息を弾ませながら頭を下げた。


「いいえ。……観光ですか?」


「ええ、急に来てみたくなって。いいところですね、ここは」


 彼女はそう言って、海を見渡しながら穏やかに微笑んだ。航も小さく頷き、そのまま歩き出す。


 潮風に耐えるように低く建てられた民家の連なり、重なり合う島影。目に映る景色はどれも懐かしく、穏やかだった。

 都会の駅のホームで背後から急かされるような焦燥感はなく、波音は耳に心地よい。確かに心は休まっているはずだった。



---


「航、あんたまたそんな顔して。ほら、これ、お隣に持ってって」


 居間でぼんやりしていた航に、母が畑で採れたばかりの夏みかんを差し出す。


「……そんな顔って、どんなだよ」


「抜け殻みたいな顔。東京っていうのは、そんなに人の魂を吸い取るところなの?」


 母は冗談めかして笑うが、その目は心配そうに航の細くなった肩を追っていた。


「別に、普通だよ。ただ、ちょっと……長めの休みが必要なだけだ」


 嘘ではなかった。だが、本当でもなかった。どれほど瀬戸内の美しい夕映えを眺めても、胸の奥を吹き抜ける冷たい風が止まない。


 パズルの最後のピースをどこかに置き忘れてきたような、あるいは、もっと根源的な「何か」を見失っているような、正体不明の喪失感。



---


 夜、居間で父が晩酌をしながら、テレビのニュースに目を向けていた。


「航、お前、仕事のことはもう気にするな。戻る場所なんてのは、案外どこにでもあるもんだ」


「……分かってる。でも、なんていうか、晴れないんだよな。何を見ても、自分がここにいる実感が湧かないっていうか」


 航が漏らした本音に、それまで黙って新聞を読んでいた祖父の宗次郎が顔を上げた。


「当たり前じゃ。お前の魂が、まだ時化た海で彷徨っとるからよ」


 宗次郎の言葉は、いつも唐突で、そして重い。


「いいか航。人間、心にぽっかり穴が空いた時はな、自分の力で埋めようとしても無駄だ。潮が運んでくるのを待つしかねぇ時もある」



---


 翌朝、まだ夜の闇が深い午前四時。枕元に立つ影に、航は無理やり起こされた。


「おい、航。起きろ。ちょっと付き合え」


「……じいちゃん? まだ夜中だろ……」


「四時はもう朝だ。ぐだぐだ言うな、行くぞ」


 断る間もなかった。航は半袖のシャツに古いパーカーを羽織り、家を出る。



 眠い目をこすりながら宗次郎の小さな漁船に乗せられた。


 宗次郎の軽トラが大山祇おおやまづみ神社の前で止まる。


「おい、航、降りろ」


 宗次郎は境内に入り参拝する。航もそれに倣う。


「航、海や旅に出る前にはな、必ずここへお参りするんだぞ。大山積おおやまづみ大神おおかみはなぁ、山の神、海の神、戦の神であるとともに人々の道しるべとなる神様だ。必ず、あるべき場所へ帰してくださる」




 そうして宮浦の港へ着いた航は宗次郎の古びた漁船に乗せられる。


 船はゆっくりと大三島の北側へ進んでいく。

規則正しいエンジン音が暗い海に響き、船首が重たい波を蹴立てる。


 水平線が次第に白み始め、海面が紺青から淡い銀色へと表情を変えていく。


 都会の夜明けのような街灯のまばゆさはなく、ただ世界がゆっくりと輪郭を取り戻していく静かな夜明けだった。


「じいちゃん、今日は何が獲れるんだ? 網も積んでないみたいだけど」


 舵を握る宗次郎は、正面を見据えたまま短く答えた。


「獲るんじゃぁない。見に行くんじゃあ」


 船は次第に速度を落とし、やがて島影が複雑に重なり合う海域へと入っていった。


「ここらへんはな……」


 宗次郎の声が、エンジンの回転数が落ちるのと共に低くなる。


「昔から、潮の流れが難しいが、ちょっとした『通り道』だと言われとる場所だ。村上の先祖も、よくここで潮を待った」


 いつの間にかエンジン音が消えた。

船の惰性で進む水の音さえ、やがて止まる。


 周囲には他の漁船の影も、鳥の声もない。ただ、鏡のように平坦になった海面が、刻一刻と明るくなる空の色を反射していた。


 瀬戸内海が見せる、一日のうちで最も静謐な瞬間――「凪」が、すぐそこまで迫っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ