第二話 潮の静寂
大三島に帰ってきてから、一週間が過ぎた。
航の毎日は、驚くほど単調だった。午前中は縁側で普段は読みもしない文庫本を広げ、午後はかつて通った小学校の木造校舎や、錆びついたガードレールが続く海岸線を当てもなく歩く。
昔馴染や旧友に出くわすのではないかと思っていたが、意外にも誰にも会うことはなく、航は内心安堵していた。
ある日の午後、いつものように海岸沿いの道を歩いていると、数人のグループとすれ違った。手にはデジタルカメラや観光パンフレットがある。
(意外と観光客がいるんだな……)
かつての寂れた記憶しかなかった航は、少し意外な心持ちで彼らを見送った。
その時、海側から急に突風が吹き抜けた。
少し離れたところを歩いていた、長い黒髪の女性の白い帽子が、ふわりと宙に舞う。帽子は風に煽られ、ちょうど航の足元へと転がってきた。
航は反射的にしゃがみ込み、その帽子を受け止める。
「あ、ありがとうございます」
駆け寄ってきた女性が、少し息を弾ませながら頭を下げた。
「いいえ。……観光ですか?」
「ええ、急に来てみたくなって。いいところですね、ここは」
彼女はそう言って、海を見渡しながら穏やかに微笑んだ。航も小さく頷き、そのまま歩き出す。
潮風に耐えるように低く建てられた民家の連なり、重なり合う島影。目に映る景色はどれも懐かしく、穏やかだった。
都会の駅のホームで背後から急かされるような焦燥感はなく、波音は耳に心地よい。確かに心は休まっているはずだった。
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「航、あんたまたそんな顔して。ほら、これ、お隣に持ってって」
居間でぼんやりしていた航に、母が畑で採れたばかりの夏みかんを差し出す。
「……そんな顔って、どんなだよ」
「抜け殻みたいな顔。東京っていうのは、そんなに人の魂を吸い取るところなの?」
母は冗談めかして笑うが、その目は心配そうに航の細くなった肩を追っていた。
「別に、普通だよ。ただ、ちょっと……長めの休みが必要なだけだ」
嘘ではなかった。だが、本当でもなかった。どれほど瀬戸内の美しい夕映えを眺めても、胸の奥を吹き抜ける冷たい風が止まない。
パズルの最後のピースをどこかに置き忘れてきたような、あるいは、もっと根源的な「何か」を見失っているような、正体不明の喪失感。
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夜、居間で父が晩酌をしながら、テレビのニュースに目を向けていた。
「航、お前、仕事のことはもう気にするな。戻る場所なんてのは、案外どこにでもあるもんだ」
「……分かってる。でも、なんていうか、晴れないんだよな。何を見ても、自分がここにいる実感が湧かないっていうか」
航が漏らした本音に、それまで黙って新聞を読んでいた祖父の宗次郎が顔を上げた。
「当たり前じゃ。お前の魂が、まだ時化た海で彷徨っとるからよ」
宗次郎の言葉は、いつも唐突で、そして重い。
「いいか航。人間、心にぽっかり穴が空いた時はな、自分の力で埋めようとしても無駄だ。潮が運んでくるのを待つしかねぇ時もある」
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翌朝、まだ夜の闇が深い午前四時。枕元に立つ影に、航は無理やり起こされた。
「おい、航。起きろ。ちょっと付き合え」
「……じいちゃん? まだ夜中だろ……」
「四時はもう朝だ。ぐだぐだ言うな、行くぞ」
断る間もなかった。航は半袖のシャツに古いパーカーを羽織り、家を出る。
眠い目をこすりながら宗次郎の小さな漁船に乗せられた。
宗次郎の軽トラが大山祇神社の前で止まる。
「おい、航、降りろ」
宗次郎は境内に入り参拝する。航もそれに倣う。
「航、海や旅に出る前にはな、必ずここへお参りするんだぞ。大山積大神はなぁ、山の神、海の神、戦の神であるとともに人々の道しるべとなる神様だ。必ず、あるべき場所へ帰してくださる」
そうして宮浦の港へ着いた航は宗次郎の古びた漁船に乗せられる。
船はゆっくりと大三島の北側へ進んでいく。
規則正しいエンジン音が暗い海に響き、船首が重たい波を蹴立てる。
水平線が次第に白み始め、海面が紺青から淡い銀色へと表情を変えていく。
都会の夜明けのような街灯のまばゆさはなく、ただ世界がゆっくりと輪郭を取り戻していく静かな夜明けだった。
「じいちゃん、今日は何が獲れるんだ? 網も積んでないみたいだけど」
舵を握る宗次郎は、正面を見据えたまま短く答えた。
「獲るんじゃぁない。見に行くんじゃあ」
船は次第に速度を落とし、やがて島影が複雑に重なり合う海域へと入っていった。
「ここらへんはな……」
宗次郎の声が、エンジンの回転数が落ちるのと共に低くなる。
「昔から、潮の流れが難しいが、ちょっとした『通り道』だと言われとる場所だ。村上の先祖も、よくここで潮を待った」
いつの間にかエンジン音が消えた。
船の惰性で進む水の音さえ、やがて止まる。
周囲には他の漁船の影も、鳥の声もない。ただ、鏡のように平坦になった海面が、刻一刻と明るくなる空の色を反射していた。
瀬戸内海が見せる、一日のうちで最も静謐な瞬間――「凪」が、すぐそこまで迫っていた。




