第四十四話 大楠の約束
「安成様――っ!!」
鶴姫の悲鳴が、硝煙と怒号の渦巻く戦場の喧騒を真っ二つに切り裂いた。
安成の身体が糸の切れた人形のように、どさりと甲板へ崩れ落ちる。
「おのれーーーーっ!!!」
我を忘れた鶴姫の瞳が、怒りで真っ赤に染まった。手にした大薙刀が、見たこともない速さと重さで奔る。権左が安成を刺した敵兵を叩き斬った直後、その周囲からさらに群がろうとしていた大内の兵たちへ、鶴姫は猛然と飛びかかった。
渾身の力で振り下ろされた大薙刀が、敵の甲冑ごと肉を豪快に叩き斬る。その凄まじい風圧と殺気に圧され、大内兵たちは次々と退けられていった。
周囲の大三島水軍の水主たちが必死の防壁を作り、敵の追撃を阻む中、鶴姫は大薙刀を放り出し、安成の身体を抱き起こした。
「安成様! しっかりしてください! 安成様!」
「がはっ……、つ、る……」
安成の口からさらに、どっと鮮血が溢れ出る。
視界が急速に狭まっていき、かつて生きていた現代のオフィスビルの冷たい明かりや、理不尽に怒鳴り散らされた上司の顔、故郷の景色、温かい家族の記憶が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。しかし、それらは泡のように消え去り、最後に残ったのは、確かな潮の匂いと、目の前で大粒の涙を流す一人の少女の顔だけだった。
武骨な安成の右手が、震えながら鶴姫の頬へと伸びる。その指先が、彼女の涙を赤く染めていく。
「すまない……。俺のっ、……役目は……ここまでだ……」
「嫌です! 嫌です! 嫌です! 置いていかないで! あなたは私の右腕でしょう!? ずっと隣にいると、あの大楠の下で――」
「ああ……約束、したな……」
安成は、薄れゆく意識の底で、彼女を安心させるように必死に微笑もうとした。懐には、彼女から手渡された鈴が、静かに眠っている。
「この身が……滅びようとも……俺の魂は……鶴と共にある。……また、あの大楠のもとで、会おう……. 必ず……」
ぎゅっと握り返されていた鶴姫の手から、次第に力が抜けていく。
安成の瞳からすうっと光が消え、掲げられていた右手が、どさりと甲板に落ちた。現代での未練をすべて捨て、この戦国という時代で、ただ一人愛する人のために命を燃やし尽くした男の、静かな最期だった。
「安成様? ……嘘でしょう? 目を開けてください、安成様――ーっ!!」
鶴姫の絶叫が、燃え盛る海原に木霊する。
しかし、冷たくなっていく愛しい人は、二度と答えない。
その瞬間、鶴姫の中で、何かが完全に弾け飛んだ。
それまで溢れ出ていた涙が、ぴたりと止まる。ゆっくりと立ち上がった彼女の瞳からは生気が消え失せ、底なしの深い絶望と、すべてを焼き尽くすほどの怒りだけがドロリと染まっていた。
「……大内どもめ……」
地獄の底から響くような地声で呟くと、鶴姫は再び大薙刀を力任せに掴み取った。
その全身から放たれる、天を突くほどの凄まじい殺気と気迫。攻め立てていた大内兵だけでなく、味方であるはずの周囲の大三島兵さえも、その恐怖に身を震わせ、本能的に一歩後退りした。
「一人残らず、この海の藻屑としてやる。……安成様の命を奪った罪、その血と肉で購え!!」
紅い緋おどしの鎧を赤黒い血に染めた鶴姫が、大内の軍勢へ向かって地を這うように疾走した。
それはもはや、戦いと呼べるものではなかった。ただの虐殺だった。
鶴姫の大薙刀が奔るたび、敵の首が飛び、四肢が裂け、甲板が瞬く間に血の海と化していく。美しき鬼神に変貌した彼女の姿に、大三島水軍の残存兵たちも魂を揺さぶられた。
「鶴姫様に続け!」「越智様の仇だ!」「大内を叩き潰せ!」「皆殺しだ!」
狂気的な咆哮が次々と上がり、兵たちは死を恐れぬ狂戦士の集団へと変貌して後に続いた。越智安成を失った悲しみは、大三島水軍のすべてを修羅に変えたのだ。
鶴姫の圧倒的な武力が大内の本隊を蹂躙していく。包囲陣形をズタズタに引き裂かれた大内の巨船群が、次々と炎上し、互いを巻き込んで沈没していった。
「くっ……! 何て奴らだ。しかし、このままでは終わらんぞ! 左翼の船団を奴らにぶつけろ!」
本陣から戦況を見ていた陶隆房が、苦渋の表情で叫ぶ。残された大内の左翼軍勢が、狂い咲く鶴姫たちを圧殺せんと一斉に牙を剥いた。
数の暴力が再び鶴姫たちを襲う。絶体絶命かと思われたその時、激しい水飛沫を上げて、無数の小早がその間に割って入った。
「させるかぁぁぁぁぁ!!」
襲い来る大内船団の前に猛然と立ち塞がったのは、能島の村上武吉であった。
「遅くなって悪ぃな、親父が行かせてくれなくてよ!」
得物を振り回しながら不敵に笑う武吉に、鶴姫が息を荒げながら声を張る。
「本当に遅いですよ……だからあなたは小童なのです」
「うるせえ! これから巻き返すんだよ!」
そう言い放った武吉だったが、甲板の片隅に物言わぬ骸となって横たわる安成の姿を見つけた瞬間、その顔から余裕が消え失せた。
「師匠! ……畜生め! 何、おっ死んでんだ!!」
武吉はギリリと歯噛みし、その怒りをぶつけるように大内勢へと突撃していく。能島水軍の参戦、そして鬼神と化した鶴姫の猛攻により、大内軍の命運は完全に尽きた。
夕闇が瀬戸内の海を紫黒に染める頃、西国無双の軍略家・陶隆房は、ついに全面撤退の号令を下した。
海面は、大内の兵たちの死体と、燃え盛る船の残骸で埋め尽くされている。圧倒的な物量を誇った周防の大内勢は、一人の男の死、それによって覚醒した一人の少女の狂気的な怒りによって、跡形もなく壊滅させられたのだった。




