第四十三話 反撃の狼煙
安成が仕掛けた韋駄天小早の攪乱戦術により、因島、能島村上水軍の参戦し、大内勢は一転して劣勢となっていた。
しかし、西国無双の軍略家、陶隆房は、自軍の陣形が崩壊していく様を、冷静極まる眼差しで見つめていた。
「包囲陣形を崩されたか……因島、能島を動かすとは見事な策だ、大三島水軍。だが、勝ちに目がくらんで隙を見せたな」
陶隆房の命により、敗走を装った一隊の小早が、優勢に湧く大三島水軍の隙を突き、中央突破を狙う鶴姫と安成の背後へと肉薄する。
乱戦の中、鶴姫の乗り移った関船の甲板は、敵味方の入り乱れる凄惨な白兵戦の舞台と化していた。
「うおおおおおお!!」
「鶴姫様に続けー!!」
「越智様! 俺の後ろから離れねえでついて来てくれよ」
安成を庇いながら戦う権左も、手負いの身でありながら必死に敵を食い止めていた。
韋駄天小早隊の奮闘で戦況は優勢に傾いている。だが、大内軍もまた、劣勢の中で執念に狂っていた。
その時、妙林の足を矢が貫く。
「ぐっ! ……姫様! 私どうやらここまでのようです……私をおいてどうぞ先へお進み下さい」
「いけません! 妙林。あなたも来るのです。私の側を離れてはなりませんよ!」
鶴姫は目の前の敵をこともなく斬り伏せていく。
「な、何だ、あの女は!」「化け物め!」
返り血を浴びながら、前方の敵を薙ぎ払っていた鶴姫。大山積大神の加護を一身に受けたかのようなその動きは、見る者を圧倒していた。
だが、いかに神がかり的な技量を持とうとも、彼女の身体は一人の華奢な少女のものだった。激しい立ち回りの直後、わずかに体勢が遅れる。
その背後、視線の死角、崩れた帆柱の影から、陶隆房の命により放たれた執念深い兵が、音もなく跳躍した。その手に握られた大身の槍が、無防備な鶴姫の背中を、まっすぐに狙う。
「――しまっ!?」
気配に気づいた鶴姫が振り返ろうとするが、身体が思うように動かない。鋭い槍の穂先が、彼女の華奢な背甲の隙間へと吸い込まれていく。
(くそっ……動けっ、俺の足!!!)
その時、安成の脳裏を過ったのは、かつて心が折れ、何もかもを諦めて無気力に生きていた自分だった。何のために生まれ、何のためにここにいるのかさえ分からなかった日々。
だが、今は違う。
ここには、命をかけて守ると誓った人がいる。あの大楠の下で、風に吹かれながら、不器用にも永遠を誓い合った最愛の人がいる。
皆が必死に繋いでくれたこの勝利を、彼女の命を、ここで終わらせるわけにはいかない。
「俺の命は、このためにあったんだ――」
理屈ではない。躊躇など、そこには一切なかった。
安成は手にした刀を投げ出し、鶴姫の背中へと自らの身体を投げ出した。
「鶴――っ!!」
世界が、一瞬だけ音を失ったように静まり返る。
ドズリ、と鈍く、重い音が、甲板の喧騒を無慈悲に掻き消した。
「畜生!!!!!」
すぐさま権左が敵兵を斬り伏せ、悲痛の叫びを上げる。
「……あ……?」
鶴姫の目が、驚愕に見開かれる。
鶴姫を強く押しのけた安成の身体が、微かに震え、崩れ落ちた。
彼女の視線の先――自分を庇った安成の胸元から、赤黒い刃の先が、鋭く突き出していた。
「安成……様……?」
安成の口元から、大量の鮮血が溢れ出す。それでも彼は、腕の中の彼女が、無傷であることを確認するように、優しく、本当に優しく微笑んだ。
「良かった……今度は……出遅れなくて……。鶴……大事、ないか……」
「いや……嫌、嫌ああああああッ!!」
鶴姫の絶叫が、真昼の海原に響き渡る。その声は、陣代のものでもなく、大山積大神の申し子のものでもない、ただ一人の愛する男を失おうとしている少女の、血を吐くような悲鳴だった。
戦況は勝利へと向かっている。しかし、大三島水軍が失ったものは、あまりにも大きすぎた。安成の胸から突き出た刃は、冷酷にその命を奪おうとしていた。




