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凪の鈴音〜大三島、悠久の誓い〜  作者: nyancos


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第四十五話 凪の海に還る

 大内軍の船団が遺した黒煙は、夕暮れの空へと静かに溶けていった。


 宮浦の港は、勝利の歓声ではなく、重苦しい静寂と、生き残った兵たちの低い啜り泣きに包まれていた。

 大内勢を壊滅へと追いやり、大三島の海を守り抜いた。だが、その対価はあまりにも大きすぎた。




 境内の大楠の下には、物言わぬ姿となった航――越智安成の遺体が、静かに横たえられていた。



 戦いを終えた鶴姫は、血に染まった大薙刀をそっと置き、彼の傍らに膝を突いた。


「安成様……。いえ、航……敵は、すべて追い払いましたよ……」


 声をかけても、頬に触れても、愛する人は二度と微笑まない。


 先の世からやって来て、この島で自分の「右腕」として、そして一人の男として自分を愛し支え続けてくれた人。

 あの大楠の周りを、必死に息を止めて歩き、永遠を誓い合った記憶が、鮮明な痛みとなって彼女の胸を締め付ける。



 その時、静かに近づいてきた妙林と、肩を落とした武吉が彼女の背後に立った。


「姫様……」


 妙林の絞り出すような声には、深い悲しみと、張り詰めた糸のような鶴姫を案じる痛切な響きがあった。


 武吉は、安成の骸と鶴姫の小さな背中を交互に見つめ、ギリ、と奥歯を噛み締めてから、不器用な声を絞り出す。


「な、なぁ、何か俺にできることはねぇか。前に師匠に頼まれたんじゃ。何かあった時はお前の力になってやってくれって……」


 安成が遺していた不器用なまでの気遣い。その言葉に、鶴姫は視線を落としたまま、悲しく、けれどどこか愛おしそうに口元を綻ばせた。


「安成様、あなたはどこまでもお優しいのですね。……武吉、妙林、ありがとうございます。ですが、しばらくひとりにさせてくれませんか」


 その拒絶には、誰も立ち入れない絶対の孤独と決意が宿っていた。二人はそれ以上言葉をかけることができず、ただ沈黙して引き下がるしかなかった。



 鶴姫の心の中から、生きるための灯火が、ふっ、と消え去っていくのが分かった。航のいない世界は、彼女にとって、光を失った果てしない闇と同じだった。


「魂は共にある……。あの大楠のもとで会おう、と、そう言いましたね」


 鶴姫は静かに身をかがめると、横たわる航の冷たくなった唇に、そっと、自らの唇を重ねた。それは誓いの儀式のようでもあり、深い愛の証明でもあった。


 名残り惜しそうに唇を離した彼女は、ゆっくりと立ち上がる。そして航の亡骸に一度だけ深く一礼し、誰にも行き先を告げぬまま、一人で夜の帳が下りつつある浜辺へと歩き出した。



---


 寄せては返す波が、鶴姫の足元を濡らす。


 彼女の胸元には、かつて航から贈られた、淡く美しい桜貝の首飾りが結ばれていた。


 大祝の娘として、この島を守るために生きてきた。陣代として、多くの命を背負って戦ってきた。そのすべての役目を、今、終えた。これからは、ただ一人の少女として、愛する人のもとへ赴くだけだった。


 鶴姫は首飾りを愛おしげに右手に握りしめ、冷たい海の中へと一歩、足を踏み入れた。


「安成様。今、あなたのところへ参ります」


 水が膝を、腰を、そして胸を浸していく。


 その時だった。


 さぁ、とこれまで島を揺るがしていた激しい潮風が、嘘のようにぴたりと止んだ。

 波の音さえも消え失せ、鏡のようになった海面が、満天の星空をそのまま映し出す。



――凪、世界が止まる。



 まるで世界そのものが動きを止め、彼女の旅立ちを静かに見守っているかのような、完璧な静寂。

 時空を超えてこの地に辿り着いた航と、その魂を全霊で愛した鶴姫。二人の過酷な運命を癒やすように、瀬戸内の海はどこまでも優しく、穏やかだった。



――チリン



 今はひとつだけになった髪飾りの鈴が静寂に包まれた海に寂しく響く。



 鶴姫は最後の息をそっと吸い込み、桜貝を強く握りしめたまま、星空を映す深い碧の中へと、静かにその身を沈めていった。



 大三島の海には、ただ、美しい凪だけが残されていた。

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