第四十一話 不穏なる静寂
小原の先陣を壊滅させた勝利の余韻は、宮浦の海を包む黒煙とともに、瞬く間に掻き消された。
「……あれを見ろ。海が、真っ黒に染まっとる」
源爺が、血に汚れた手で刀を掴んだまま低く呻いた。
大三島の沖合、水平線がにわかに漆黒の軍勢で埋め尽くされていく。それは先ほどの小原勢とは桁が違った。
周防長門の本国より送り込まれた、総大将・陶隆房直属の水軍主力――。敗戦の報に業を煮やした大内義隆が、瀬戸内の覇権を完全に掌握すべく投入した、正真正銘の「本隊」である。
「じ、爺さん……これ、本当にみんな人が動かしてる数なのかよ……」
新太が、弓を握る手を震わせながら呟く。
その視線の先では、波を割って進む安宅船の群れが、まるで動く城塞のように迫っていた。その圧倒的な質量は、見る者の心を容易くへし折るに十分な絶望感を放っている。
「へっ、数だけは一丁前じゃねえか。だがよ、この海はまだ俺たちの味方じゃ!」
新太が強がりの笑みを浮かべる。しかし、その額からは冷や汗が引きも切らず流れていた。誰もが己の恐怖と戦っていた。
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その頃、大内軍の本陣、一際巨大な安宅船の船楼。
西国無双の軍略家、陶隆房は、冷徹な眼差しで宮浦の海路を見下ろしていた。
小原隆言が討たれたという報を受けても、その眼に揺らぎは一切ない。むしろ、その瞳には冷たい愉悦さえ浮かんでいた。
「小原は愚か者よ。狭い瀬戸に釣られ、潮流に足を掬われるとはな。あれだけの軍勢を預けたというのに活かせぬとは、無能の末路だ。……全軍に告げよ。これより大三島水軍を蹂躙する。大三島水軍を完全に包囲しろ」
陶隆房の静かな、しかし拒絶を許さぬ声が、兵たちを通じて伝わっていく。
「来島村上と河野の動きは?」
「はっ、南方の端から我が軍勢を削ろうと、激しく突撃を仕掛けてきております!」
「泳がせておけ。所詮は木っ端に過ぎん、我が軍勢を突破することはできぬわ。……して、因島と能島はどう動いている?」
「……未だ北方沖合にて、動く気配はありません」
隆房の薄い唇が、冷酷な弧を描いた。
「賢しい奴らめ。大三島の命運を見極めてから、勝者に跪く腹づもりか。海賊上がりの浅知恵よ。ならば、その目の前で大三島を完璧に叩き潰し、大内に逆らう者がどうなるか、その骨の髄まで教えてやるまでよ。包囲を縮めよ。一兵たりとも生かすな」
大内軍の船たちが、静かに、しかし確実に大三島を圧殺すべく、巨大な顎を開くように動き出した。
大三島側の前線、韋駄天小早の舳先では、安成が奥歯を噛み締めていた。
「越智様、敵は休む間もなく、この宮浦を三方から包囲する構えです!」
伝令の悲痛な叫びが響く。
「何て数の軍勢だ……! 敵は警戒して狭い瀬戸へは突入してこない。外からの包囲、そして波状攻撃か……」
「安成様……我らに策をお示しください。皆、安成様を信じております」
鶴姫が不安を微塵も感じさせない瞳で、安成を真っ直ぐと見つめる。
安成は激しく燃える敵船の残骸を踏み越え、遥か北方沖合を睨みつけた。
「先陣は退かせたが……因島と能島は、まだ動かないか……」
「 奴ら、沖で高みの見物決め込んでやがる! 俺たちがここで潰れたら、そのまま大内に寝返る気じゃ!」
権左の怒号に、隣の船から身を乗り出した庄助が、顔を真っ赤にして応じる。
「くそっ! あいつら臆病風に吹かれやがって!」
安成はもどかしさに拳を血が滲むほど握り締めた。
彼らは大内の圧倒的な軍勢を前に一族を守るため、様子見をしているのだ。だが、逆に言えば、この絶望的な状況から大内の本陣を脅かすほどの戦果を示せば、あの重い腰を上げさせ、その強大な戦力をこちらへ引き込めるはずだった。
「彼らの尻を叩くには、ここで我らが圧倒的な優勢を示すしかありません。敵の包囲網が完成する前に、中央を強行突破し、総大将、陶隆房へ切り込みます。」
「越智様、それじゃ、ひと揉みに潰されちまう!!」
権左が叫ぶ。
「韋駄天小早の部隊は、直ちに北側から包囲を抜けて下さい。そして一撃離脱を繰り返し、何とか大内の軍勢を釣り出すのです。陣形が崩れればこちらにも勝機がうまれます!」
(あとは潮目が変わるのを待つしかない……)
「わかりました、越智様の策、必ずや成し遂げてみせよう。できるよなぁ!野郎ども!」
冷静な喜平がいつになく荒い言葉で鼓舞し、覚悟を決める。
「……鶴、このままでは防戦一方ではジリ貧になります。仕掛けましょう」
陣代として前線に立つ彼女へ向けた安成の言葉に、鶴姫は紅い衣を強く翻して力強く頷いた。
「望むところです。大山積大神の加護がある限り、我が軍は屈しません。皆の衆! 共に参りましょう!」
「「「応!!!」」」




