第三十九話 朝霧に舞う
夜明け前の宮浦の海は、墨を流したように昏く、不気味なほどに静まり返っていた。
しかし、静寂とは裏腹に、水平線の彼方には大内軍の無数の帆影が浮かび上がっていた。それはまるで海を飲み込もうとする巨大な怪物の群れが、朝霧を突き破って迫りくるかのような光景であった。
先の戦いで大三島水軍の陣代、大祝安房を討ち取った大内軍。
「大三島水軍など大将を失った今、烏合の衆である」
そう信じ切っている大内軍の先陣、小原隆言は、前回を遥かに上回る大船団を率いて、宮浦へ押し寄せていた。
「報告! 大内勢の先陣を率いとるのは安房様を討ち取った小原隆言じゃ! 奴らは我らが数で劣ることを知って、各個撃破を狙う堅実な布陣を構えとるぞ!」
物見に出ていた新太が陣内に駆け込み、報告を上げる。
その名を聞いた瞬間、鶴姫の瞳に宿る静かな海が、激しい怒りの火で赤く染まった。
「小原隆言……安房兄上の仇……」
まともに正面からぶつかれば、数に圧し潰されることは火を見るよりも明らかであった。
緊張に包まれる陣内で、安成が広げられた陣立図の一点を、確信を持って指差した。
「勝機は一つだけです。敵が堅実な将であればこそ、こちらの僅かな脆弱さを見逃さないはず。宮浦の入り口にある、この狭い瀬戸へと誘き寄せましょう。あそこは日の出から半刻の間、底潮が複雑に渦巻く特異な地形。敵の大きな軍船ほど、舵を取るのが困難になるはずです」
しかし、鶴姫の横で権左が腕組みをして眉をひそめた。
「じゃが、奴らは堅い布陣を敷いとる。密集して来るんなら、それこそ力押しでこちらの守りを抜かれるんじゃあねぇか?」
懸念はもっともであった。だが安成は、その懸念すら計算済みであるかのように、不敵な笑みを浮かべた。
「その油断こそが、彼らの命取りになります。敵がこちらの罠を疑わず、狭い瀬戸の中へ我先にと密集してくるような――敵の警戒心を完全に解く、無防備極まる囮を放つのです。敵の足を止め、引き付けたところで一気に奇襲をかける。これが唯一の勝機です」
鶴姫は安成の言葉を信じて、深く頷いた。
朝陽が水平線から顔を覗かせ、海面を金色に染め上げた頃、大内軍の先陣、小原隆言の乗る巨大な安宅船が宮浦の狭い海峡へと差し掛かっていた。
「ふん、大三島水軍の腰抜けめ。大軍に恐れをなして、尻尾を巻いて大三島へ逃げおったか」
小原隆言は船楼から海を見下ろし、鼻で笑った。傍らに置かれた酒杯には、昨日から続く宴の名残か、酒がなみなみと注がれている。
隆言は兜を床に投げ捨て、甲板にだらしなく胡坐をかいていた。
「へへ、俺たちが一番乗りだ。陸へ上がったあとの乱取りが楽しみだぜ」
「若い女は殺すんじゃねぇぞ」
周囲の兵たちも同様だった。勝利を確信して武器を携えた者はおらず、酒を酌み交わしては、昨夜の宴の続きのように下卑た笑い声を上げている。
「小原様、敵は狡猾な水群衆です。何を仕掛けてくるかわかりません。油断は禁物かと」
「大祝安房の息の根を止めてやった時の連中の悲鳴を思い返してみろ。海を埋め尽くす大軍を前に、今さら一矢報いようなどという気概が残っているはずもなかろう」
隆言にとって、安房を屠ったあの日の手柄は、今も最高の肴であった。
彼は副官の諫言に耳を貸さず、あくびを噛み殺しながら、周囲の将たちへと言い放つ。
「今日の戦は戦と呼ぶには退屈すぎる。泣き叫ぶ子供と女しかおらぬ場所を蹂躙してやるだけだ。せいぜい、降伏するなんて言ってくれるなよ。酒が不味くなってしまうわ」
慢心は軍全体を毒のように蝕んでいた。彼らは目の前の海を、勝利という果実を摘み取るための凱旋行軍と気取っていたのである。
その時であった。朝霧の向こうから、鮮やかな赤地の衣を羽織った一艘の小早が滑り出してきた。
大内方の兵たちが一瞬身構えたが、次の瞬間、全員が我が目を疑った。
舳先に立っていたのは、美しい娘――鶴姫であった。風になびく紅い衣は、朝陽を浴びて燃えるように輝いている。娘はおもむろに袖を翻すと、戦場にはあまりにも不釣り合いな、妖艶で美しい舞を舞い始めたのだ。
「おい、見ろ! あれは……女ではないか?」
「水軍の戦場に、遊女が迷い込んできたか! こりゃ堪んねぇな!」
大内方の兵たちから、どっと下卑た笑い声が湧き起こる。
小原隆言すらも、「奴らの命運尽きて、我らに降伏の宴でも開くつもりか」と、口元を緩めた。
緊迫した戦場に突如として現れた華やかな女人、そして解き放たれる見事な舞。敵の兵たちは武器を構えることも忘れ、その物珍しい光景をひと目見ようと、我先にと身を乗り出して船を寄せ合い始めた。
だが、その舞の裏で、その小早の舵を握り、必死に潮目を読みながら、限界まで敵の本陣へと船を近づけている男がいた。安成である。
(引き付けろ……もっと引き付けろ。敵の全船が、この瀬戸の中で完全に動きを止めるその瞬間まで……!)
鶴姫の舞に目を奪われ、小原隆言の傲慢な笑みに酔いしれた大内軍の船は、互いにひしめき合い、完全に身動きの取れない過密状態を作り出していた。
大内軍の安宅船と、鶴姫の乗る小早の距離が、わずか数十歩にまで縮まった。敵兵たちの弛緩した顔、酒に酔った醜い表情がはっきりと見える。
その瞬間、安成は舵を大きく切り、腹の底から叫んだ。
「今だっ! 放てっ!!」
ドン、と凄まじい轟音が響き渡る。
周囲の島々の陰、そして海中から突き出た岩礁の裏から、伏せられていた大三島水軍の軽快な小早が一斉に姿を現した。
「なっ……伏兵だと!? 全軍退けい!」
小原が目を見開いた時には、すでに遅かった。瀬戸の中で密集しすぎた大内の巨船たちは、急激に変わり始めた底潮の渦に巻き込まれ、互いの船体をぶつけ合って大混乱に陥った。舵が効かない。前にも後ろにも進めない。
「包囲せよ! 火矢、焙烙、惜しむな! 敵の動きを完全に止めろ!」
安成の鋭い指揮のもと、大三島水軍から放たれた無数の火矢が、赤い軌跡を描いて大内軍の船帆へと突き刺さる。
導火線に火をつけられた焙烙玉が空中を舞い、敵の甲板で爆発を繰り返した。バリバリと木肌が裂け、たちまちのうちに海原は炎と黒煙の地獄絵図へと変わっていく。
その爆炎と硝煙の向こうから、紅い衣を翻し、大薙刀を握り締めた鶴姫が、小原隆言の乗る本陣の船体へと跳んだ。
「――われは大山積大神の申し子、大三島水軍陣代、鶴姫なり! 立ち塞がる者は全て、撫で斬りにしてくれようぞ!」
烈火の如き啖呵が、戦場に響き渡る。
その瞳には、先ほどまでの舞姫の妖艶さは微塵もない。かつて強者として安房を葬った小原隆言の傲慢な矜持は、今、紅い鬼神と化した姫の怒りの前に、脆くも崩れ去ろうとしていた。




