第三十八話 大楠と、交わす誓い
やがて評定が終わり、番頭たちがそれぞれの持ち場へ散っていく中、安成と鶴姫は境内で二人きりになった。
そこには、遥か古よりこの島と海を見守り続けてきた、圧倒的な存在感を放つ大楠がそびえ立っている。
急激な時代のうねりを暗示するかのように、風が強く吹き抜け、大楠の葉が激しくざわめいた。
「安成様」
鶴姫が、航の鎧の袖をそっと掴んだ。
「私は、怖くはありません。大祝の娘として、この海に散る覚悟はできております。……けれど」
そこまで言って、彼女の声が微かに震える。
「けれど……あなたが、私の知らないどこか遠くへ行ってしまうのではないか。それが、何よりも怖いのです。今の安成様は、まるで行き先を知っている旅人のようで……時折、手が届かなくなるような気がして」
安成は息を呑んだ。胸を締め付けられるような彼女の吐露に、もう隠し通すことはできないと悟る。これから死線を潜り抜けるからこそ、本当の自分を伝えたかった。
「……鶴、今度は怒らずに聞いてほしい。前にも言ったけど、俺は、君が知っている安成じゃないんだ」
「え……?」
安成は真っ直ぐに彼女を見つめ、言葉を紡いだ。
「俺の名前は村上航。何百年も先の未来から来た人間だ。道場で倒れたあの時から、俺の魂は越智安成になっていた。信じられないかもしれないが……これは真実なんだ」
鶴姫は驚愕に目を丸くした。だが、安成の真剣極まる面持ちに、次第にその表情が強張っていく。
今の彼の、妙に丁寧な言葉遣い。自分を見つめる、どこまでも真っすぐな目。
「ま、また……安成様、こんな時に私をからかって……未来だなんて……そんなお伽話、信じられません!」
鶴姫は思わず身を乗り出し、安成の袖をぎゅっと掴んだ。その瞳には、少女らしい動揺と、大切な存在を失うかもしれないという恐怖がはっきりと浮かんでいる。
「本当に、安成様ではないのですか……? では、本物の安成様はどこへ……っ」
「分からない……」
安成が静かに答えると、鶴姫は唇を噛んで黙り込んだ。
信じたくない、信じられるはずがないお伽話。
けれど、目の前の男の目は絶対に嘘を吐いていない。それに、彼女の知るかつての安成と違い、今の彼は……なんだか酷く優しくて、どうしようもないほど頼もしいのだ。
鶴姫はゆっくりと袖から手を離すと、ふいっと顔を背け、少しだけ頬を膨らませた。
「……やはり、俄には信じられません、けれど……あなたの目は、嘘を吐いているようには見えませんから」
まだ納得のいかない戸惑いを顔に残しながらも、鶴姫はどこか自分に言い聞かせるように、再び安成の目をしっかりと見据えた。
「しかし、安成様。何か理由があって大山積大神が、あなたを現世に繋ぎ止めてくださったのでしょう。私は、今の安成様と出会えて幸せです。だから、神の気まぐれであなたと離れ離れになりたくないのです」
彼女は大楠を見上げた。
「この大楠には、古くからの言い伝えがあります。『息を止めて幹の周りを三度回れば、願いが叶う』と。……安成様、私と共に、歩んでいただけますか」
「ああ、もちろん」
二人は並んで大楠の前に立ち、深く息を吸い込むと、同時に呼吸を止めた。
その時、奇跡のように風がやんだ。
――凪。世界が止まる。
一歩、また一歩。髪飾りの鈴の音と、草を踏み締める音だけが静寂に響く。
次第に息が苦しくなり、心臓が早鐘を打つように脈打ち始める。それでも二人は、互いの確かな気配をすぐ隣に感じながら、必死に息を止めて巨樹の周りを歩き続けた。
苦しさの向こう側で、世界のあらゆる雑音が消え失せ、ただ隣にいる互いの存在だけが鮮明になっていく。
ようやく三度を回り終え、二人は同時に大きく息を吐き出した。
その瞬間、安成はかつてのしがらみも、時空の壁をも完全に越えて、この時代で彼女と共に生き抜くという覚悟――永遠の愛を、魂の奥底に深く誓っていた。
安成は、彼女の手を包み込むように握り返した。武骨な指が、少女の細い指をしっかりと繋ぎ止める。
「鶴。俺はどこにも行かない。……俺がいた場所には、もう戻れない。俺の居場所は、鶴がいて、この大楠があって、潮の匂いがする、この島だけだ」
安成は、彼女の目を真っ直ぐに見つめた。
「大内が来ようが、誰が来ようが関係ない。……俺は、生きる時も、死ぬ時も、鶴の隣にいよう。……いや、この身が朽ち果てようとも、魂はいつでも鶴と共にある」
「……安成様」
鶴姫は、目元に堪えていた涙をひとしずくこぼし、それから力強く頷いた。
「……分かりました。ならば私も、あなたの後ろには退きません。共に戦い、共にこの海を守り抜きます」
彼女は愛用の髪飾りの鈴を一つ丁寧に外し、安成の手のひらにそっと乗せた。
「これは、私の魂の欠片です。これを身に着けていれば、大山積大神の加護と、私の祈りがあなたを護ります。……約束ですよ、必ず、共にこの大楠の下へ戻ると」
「……約束するよ、鶴」
安成は受け取った鈴を、大切に懐へと納めた。「チリン」と、小さく、けれど確かな音が胸の奥に響き渡る。
もはや、二人の心に迷いは一切なかった。
夜明け前、朝靄の立ち込める水平線の向こうには、敵の無数の帆影が、不気味にその姿を現し始めていた。
隣に立つ鶴姫の凛々しい横顔を見つめながら、静かに刀の柄を握り締めた。激闘の幕が、今上がろうとしていた。




