第三十七話 潮鳴りの報せ
二人が息を切らせて神野山から急ぎ戻った、まさにその時であった。
水平線の彼方から、一艘の韋駄天小早が狂ったように激しく波を蹴立て、宮浦の港へと滑り込んできた。船首が波を割り、白い飛沫が浜へと吹き付ける。
船が完全に停止するよりも早く、伝令の水主が身を乗り出して、張り裂けんばかりの声で叫んだ。
「周防の大内が来たぞぉ! 厳島を越えて、こちらへ向かっとる! 前と比べものにならねぇ、見たこともねぇ大軍勢じゃ!」
その叫びが島風に乗って響き渡った瞬間、平穏だった港に一気の緊張が走った。
浜辺で網を繕い、ひと息ついていた水主たちが一斉に立ち上がる。誰からともなく怒号が上がり、男たちは砂を蹴立てて武器を取りに走り出した。
にわかに喧騒と鉄の匂いに包まれていく港の光景を前にして、安成の胸の奥にも、冷たい火が灯るような感覚が走った。ついに、本当の決戦が始まるのだ。
「安成様、急いで屋敷へ戻りましょう」
二人は大山祇神社へと続く参道を駆け上がった。
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「安成様!」
背後から、張り詰めた、凛とした声がした。
振り返ると、そこにはすでに胸当てと小具足を身に着けた鶴姫が立っていた。その表情からは、先程まで神野山の山頂で見せていた少女の甘さは完全に消え失せ、前線を統べる大三島水軍の陣代としての、峻烈な顔に戻っている。
「安舎兄上が、屋敷で評定を開いております。参りましょう」
「……分かりました。すぐに向かいましょう」
重苦しい空気が満ちる評定の間では、大祝安舎と番頭たちが大きな海図を囲み、険しい表情で立ち尽くしていた。安成たちの姿を認めると、安舎が鋭い視線を向けた。
「越智殿、よく来た。……敵は本気だ。だが、この大三島を奴らの足掛かりにさせるわけにはいかない」
「兄上、あの大内の軍勢は大三島へ向かってくるのでしょうか」
「そうであろうな。欲深い大内義隆は瀬戸内の要衝であり、大山積大神の御わすこの島を手中に収めたいはずだ。大軍の拠点とするにも十分であるしな」
「そうなると、奴らがどこを通り、どこへ向かい、どこで迎え撃つかが思案のしどころですね」
鶴姫が各々の顔を見渡す。
源爺が、深く刻まれた眉間の皺をさらに寄せ、顎をなでながら言った。
「奴らも竹原の小早川まで敵に回したくはねぇじゃろう。それにこれだけの大船団じゃ、広い斎灘を通ってくるはずじゃ」
「だったらよぉ、西から侵入してくる手前、大下島の狭い水道で一網打尽にすりゃあいい!」
新太が、身を乗り出した。
「あそこの急流なら、大内のデカい関船なんざ身動きが取れなくなるぜ!」
「馬鹿言え、新太」
銀次が新太の頭を軽く小突く。
「大軍ゆえに小回りの利かねぇ軍勢が、わざわざそんな座礁の危険がある難所を正面から通るかよ。広い海を進みながら、こちらの守りの薄いところを突いてくるに決まってる」
「あとは、味方の動きがどうなるか……」
喜平が顔をしかめる。
「河野のお館様はどう動かれるのか?」
「河野勢は手はず通り、伊予の総力を挙げてこちらへ向かっておる」
安舎が重々しく答えた。
「湯築から出せる兵をすべて注ぎ込んだ大船団が、すでに南から大内の退路を断つ布陣へ動いている。……だが、村上どもが不穏だ」
「村上はどうしたってんだ?」
庄助が、太い腕を組んで唸る。
「来島は出張って来るが、因島と能島だ。あいつら、日和見を決め込みやがって!」
権左が、拳を床に叩きつけた。
「大内の大軍を前にして、大三島の東側で船を動かさずにやがる。俺たちが潰れるのを高みの見物する気じゃ!」
「落ち着きなさい、権左」
鶴姫がそれを制した。
「村上とて大内に瀬戸内を支配されるのは本意ではないはずです。ですが、今は勝ち馬がどちらかを見極めようとしているのです。要は、あの重い腰をどう動かすかが勝負の明暗を分けるのです」
広間がにわかに静まり返る。全員の視線が、じっと海図を凝視したまま動かない安成へと集まった。
「……やはり、宮浦沖しかありません」
安成が静かに、しかし断固とした声を響かせた。
「宮浦の正面だと? 敵の思うツボじゃねぇか!」
新太が眉をひそめる。
「いえ、逆です。不用意に奇襲をかけても、兵力をすり潰されるだけです」
安成は海図の宮浦港の沖合を大きく指で囲んだ。
「敵の狙いがこの大三島であるなら、後退を装いあえて敵をこの宮浦に深く引き込むのです。」
「引き込んで、どうする?」
庄助が身を乗り出す。
「大三島を目前に追い詰めたとなれば、敵にも油断がうまれるでしょう。それに宮浦沖へ引き込めば、南から総力を挙げた河野勢と、呼応した来島村上が一気に大内の背後を攻めてくれます」
安成の目が鋭く光る。
「そこで勝手知ったる我らが地の利を活かして奇襲をかけて大三島水軍優勢の形を作る。膠着から我が方が押し気味になれば、大三島の影で様子を窺っている因島と能島も『勝ち馬はこちらだ』と必ず動く。日和見の連中を引きずり出すには、俺たちが優勢に立つ姿を見せるしかありません」
「なるほど……!」
喜平が膝を打った。
「河野と来島で後ろを塞ぎ、我らが大内を圧倒して見せることで、因島と能島の尻を叩くと。宮浦沖こそが、大内を四方から完全に包囲する盤面というわけか」
「宮浦に引き込んでの包囲殲滅、そして日和見の村上をも巻き込む策ですね」
鶴姫の鋭い目が安成を射抜く。
「安成様、あなたの知略を信じます」
安成は力強く頷いた。
「もちろんです。大三島の神々に、勝利を捧げましょう」
そんな安成の凛々しい横顔を、鶴姫はじっと見つめていた。その瞳には、彼の冴え渡る知略に対する絶対的な頼もしさと同時に、これから始まる死闘への予感、そして言葉にできない切ない感情が静かに揺らめいていた。




