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凪の鈴音〜大三島、悠久の誓い〜  作者: nyancos


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第三十六話 月冴える神の嶺

 大祝安舎から神野山での戦勝祈願を命じられてから一週間後、満月の夜がやって来た。



「安成様、そんなに過保護にならずとも大丈夫です」


 神野山の南に流れる入日の滝で神聖な冷水に身を浸し、心身の穢れを厳かに祓ったあとのこと。


 御神体山である神野山(鷲ヶ頭山)へと続く、険しくも細い獣道を歩きながら、鶴姫が苦笑した。


 頭上には、夜空を照らす満月。掟に守られた禁足地は道なき道に等しく、踏みしめる草木の匂いだけが、夜の静謐な空気に混じり合っている。


 安成は、月明かりに照らされた険しい岩場や草むらを注意深く踏み分け、鶴姫の行く手を先導していた。

 時折後ろを振り返っては、彼女が足を取られていないか確認する。



「護衛ですからね。……ここで鶴に怪我でもされたら、安舎様に合わせる顔がありませんから。ほら、そこは根が張っているから気をつけて」


「ふふ、以前のあなたなら『さっさと歩け』と私を急かしていたでしょうに」


 鶴姫は楽しげに笑い、安成が払ったあとの茂みを軽やかにすり抜けた。

 その仕草は、戦を司る「陣代」のそれではなく、ただ山を歩く少女のそれだ。


 安成は、月明かりに浮かぶその横顔を盗み見ながら、自分の中に芽生えた感情の正体を、ゆっくりと反芻していた。


 現代の自分は、誰かに必要とされることを「重荷」だと感じていた。役割を押し付けられるたびに心は削られ、自分を摩耗させていた。

 だが、この世界で鶴姫の「右腕」として生きることは、どういうわけか、削られた心を逆に満たしていく。


 やがて、険しい木々を抜けて神野山の頂へと到着すると、視界が一気に開けた。

 天に最も近い場所。満月の白い光が、遮るもののない山頂を厳かに照らし出している。


 鶴姫はそびえ立つ巨岩の前に正座し、深く一礼した。懐から取り出した祝詞を呟く彼女の声以外、虫の音さえもぴたりと止み、山頂は深い静寂に支配される。


 目を閉じ、両手を合わせるその横顔には、一切の迷いも雑念もなかった。一族の興亡、民の命、そして亡き兄の想い――そのすべてを両肩に背負い、ただひたすらに神へと祈りを捧げている。


(大山積大神、どうか、我が一族と大三島の民に、大いなる加護を……)


 微動だにせず、祈りを捧げる彼女の背中は、月の光を浴びて神聖な白銀に輝いていた。

 だが同時に、今にも折れてしまいそうなほど痛々しく、張り詰めてもいる。


 安成はその背中を少し離れた場所からただ静かに見守り、彼女が背負う宿命の重さを分かち合い、何があっても支え抜くことを、心の中で誓っていた。


 祈りを捧げ終えた頃には、冷え込んだ夜気が少しずつ緩み始めていた。二人は大きな岩の陰に腰を下ろす。東の空が白みかける中、鶴姫が差し出してくれたのは、竹の皮に包まれた握り飯だった。


「大三島の塩で結んだものです。召し上がって下さい」


「最高だ。形はともかく、鶴と食べると余計に美味く感じるな」


「もう! 一言余計です」


 安成が大きく頬張ると、鶴姫は嬉しそうに目を細め、自身も小さく口を動かした。潮風が二人の間を通り抜け、乾いた喉を潤す水の冷たさが心地いい。


「安成様……」


 握り飯を食べ終え、一息ついた鶴姫が、不意に真剣な眼差しで海を見つめた。


 風に揺れる髪を耳にかけ、彼女は続けた。


「いつか……この戦が本当に終わって、私が務めを果たし終えたら。その時は、この海の先へ、もっと広い世界へ行ってみたいのです。兄上が言っていました。この海の向こうには、まだ見ぬ異国の品や、見たこともないほど大きな山があるのだと」


 彼女は安成を振り返り、まっすぐな瞳で問いかけた。


「その時は……安成様、あなたも一緒について来てくれますか?」


 それは、未来を語ることを禁じられたような戦乱の世で、彼女なりの精一杯の告白にも聞こえた。


 今の安成にとって、この島こそがすべてだ。だが、彼女が夢見る「平和な未来」の一部に、自分が組み込まれているという事実が、胸の奥を熱くさせた。


「……約束するよ、鶴」


 安成は、彼女の瞳を真っ直ぐに見返した。


「どこへでもついて行くよ。この海が静かになった先も、俺が、必ず鶴を守り抜こう」


 鶴姫は一瞬、驚いたように目を見開き、それから今までで一番眩しい笑顔を見せた。「チリン」と、風に揺られた鈴の音が響く。


「……はい! 安成様、指約束」


 そう言って、彼女は小指を差し出した。

安成はその小さな小指に、自分の節くれ立った指を絡める。体温が触れ合った場所から、静かな決意が全身に広がっていく。


(例えこれが、いつか醒める夢だとしても、この温もりを俺は――)




 空が少しずつ白み始め、顔を出した朝日の光が、西の海原の彼方を真っ直ぐに照らし出す。


 きらめく朝の海、その遥か彼方。


 輝く水面の向こうから、点のような影が一つ、また一つと這い出てくる。それはまたたく間に数を増し、水平線を黒く塗りつぶしていった。


「……船団?」


 安成の呟きに、鶴姫の表情が凍りついた。

ただの商船ではない。整然と隊列を組み、こちらへ向かって直進してくるその威容は、まぎれもない軍船――それも、見たこともないほどの大船団、まさしく大内の「主力」だった。


 一瞬の穏やかな風が、急に肌を刺すような冷たさを帯びる。


 二人の間に交わされた束の間の約束を、無慈悲に引き裂くかのように、次の激戦の足音がすぐそこまで迫っていた。

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