第三十五話 緊迫の海
月下の誓いから数日。大三島の朝は、瀬戸内の強い日差しが早くから漆黒の海を青く染め上げ、むっとするような夏の熱気とともに明けた。
境内の裏手にある練兵場に、乾いた木刀の打突音が響き渡る。
安成は必死に槍を突き出すが、大薙刀を構えた鶴姫の佇まいは、凛として付け入る隙がない。
「安成様、参ります!」
鋭い掛け声とともに、大薙刀が風を裂いた。
しなやかな体躯から繰り出される一撃を受け止めるたび、安成の両腕に激しい衝撃が走る。
(速い……なんて無駄のない動きだ)
朝日にきらめく髪をなびかせ、舞うように円を描く鶴姫。その武芸の美しさに、安成は一瞬、心を引き込まれ、見惚れてしまった。
だが、そのわずかな隙を鶴姫は見逃さない。
「隙あり!」
神速の一撃が、安成の槍を鋭く弾き上げた。次の瞬間には、大薙刀の穂先が安成の喉元へぴたりと寄せられていた。
「私の勝ちですね」
鶴姫はふっと表情を緩め、いたずらっぽく微笑んだ。
「安成様、まだまだですね。戦の最中によそ見をしていては、命がいくつあっても足りませんよ?」
「……参った。面目ない」
苦笑しながら両手を挙げる。その圧倒的な強さと、裏にある弛まぬ努力の時間を思い、安成は改めて背筋が伸びる思いだった。
そこへ安舎の使いがやってくる。
「鶴姫様、安成様、安舎様がお呼びです。急ぎ奥の間へ…」
急な呼び出しに二人は顔を見合わせ、すぐさま木槍と大薙刀を置いた。
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「急に呼び立ててすまぬ」
大山祇神社の奥の間。大祝安舎は、険しい表情で広げた書状から目を離さずに言った。
部屋に満ちる重苦しい空気に、安成の胸騒ぎが激しくなる。
「湯築のお館様より文が届いた。……近々、大内が動くやもしれん。先の敗戦を経てなお、大内義隆はこの瀬戸内への野心を捨ててはおらぬようだ」
安舎が書状を握りつぶすようにして拳を握る。
「次は周防の主力が、全力で攻め寄せてくるぞ」
「主力……」
安成の脳裏に、大内氏の本気がもたらす圧倒的な船団の光景がよぎる。前回の比ではない戦いになることは明白だった。
「我らもただ、手をこまねいているわけではない。他の水軍衆とも手はずを整えておるところだ。主戦となる韋駄天小早も増やし備えている。次の一戦こそが、我らの存亡を賭けた正念場となる。お鶴、そして越智殿。安房が逝った今、この島を守る矛となるのはお前たち二人だ」
安舎は静かに視線を上げ、鶴姫と安成を真っ直ぐに見つめた。
「お鶴、越智殿、次の満月の夜に神野山(鷲ヶ頭山)へ登り、山の頂にて大山積大神へ戦勝を祈願せよ」
「神野山、ですか……!?」
鶴姫の顔に、明らかな動揺が走った。
「兄上、神野山は古くからの『禁足地』。如何なる理由があろうとも、人が足を踏み入れることは掟によって禁じられているはずです。神の怒りを買い、かえって災いが降りかかるのでは……」
神域中の神域。その言葉の重さに安成も息を呑んだが、安舎の決意は揺るがなかった。
「大三島存亡の危機なのだ」
安舎は立ち上がり、窓の外にそびえる荒々しい山影を仰ぎ見た。
「掟破りは百も承知。だが、大内を迎え撃つには、兵の力だけでなく、大山積大神の加護が必要なのだ。神野山の頂は、この島で最も神に近い場所。そこで捧げる祈りなら、武の神たる大山積大神も必ずや許し、我らにお力を与えてくださるはずだ」
「分かりました、兄上」
鶴姫は拳を固く握りしめ、その覚悟を真っ直ぐに受け止めた。胸元で、安成が贈った桜貝の首飾りがかすかに揺れる。
「陣代として、その命、謹んで拝命いたします」
「うむ。越智殿、お鶴を頼むぞ。神の嶺にて、我らの命運を天に示してまいれ」
「――はい」
深く頭を下げる安成の胸の中で、運命の歯車が激しく加速を始めていた。




