第三十二話 託されたもの
大内勢、白井水軍の軍勢を退けたものの、大三島水軍は勝利の歓声もなく大三島へ引き揚げた。
宮浦の浜で彼らを迎えた大祝家の長兄、安舎は、船から静かに運び出された弟、安房の遺体を前にした瞬間、その場に崩れ落ちた。白布に覆われた弟の冷たい手を握り締め、天を仰いで声を震わせる。
「そうか……安房の御霊は、大山積大神のもとへ還ったか」
その日のうちに葬儀はしめやかに執り行われ、大三島全体が深い哀悼の念に包まれた。
その夜、安成は鶴姫とともに安舎の屋敷の一室に呼ばれた。
開け放たれた障子の向こうには、夜の闇に紛れてもなお圧倒的な存在感を放つ、あの神木の巨大な大楠が静かに佇んでいる。
「安房は……武運つたなく力尽きた。我が大祝家にとって、あまりにも大きな柱を失ってしまった」
安舎が無念の表情を浮かべ、深く重い溜息をつく。
「ひとまず大内勢は撃退しましたが、欲深い大内義隆は、この程度の敗北で諦めるような男ではない。近いうちに必ず、さらなる大軍勢をこの海へ差し向けて来るでしょう」
「しかし、越智殿、お鶴、そなたたちが無事で戻ってくれたことが何よりの救いだ」
安舎の懸念と労いの言葉に、誰もが沈黙を隠せない。
だが、その静寂を破り、口を開いたのは鶴姫であった。その瞳には、すでに迷いのない強い光が宿っていた。
「安舎兄上。これよりは、私が安房兄上の代わりに陣代となり、大三島水軍を束ねてまいります。必ずや安房兄上の無念を晴らしてみせましょう」
安舎は一瞬、戸惑いの表情を見せたが、居住まいを正し鶴姫を真っ直ぐに見つめた。
「相分かった。かねてより、お鶴、そなたの武勇は目を見張るものがあった。そなたが陣代となることに不服を唱える番頭衆はおらぬ。……しかしお鶴、そなたはまだ若い、それに女人でもある。越智殿、右腕としてどうかお鶴を助けてやってはくれまいか」
「は、はい……」
安成は己の策の至らなさを思い、激しい後悔に胸を締め付けられながらも、そう答える他なかった。
面会が終わり、安成は促されるままに、鶴姫の自室へと案内された。
部屋の隅には、綺麗に拭き清められたあの大薙刀が静かに立てかけられている。
鶴姫は開け放たれた障子の向こうの大楠を見つめていた。やがて、ゆっくりと安成を振り返る。その顔には、先ほど安舎の前で見せた大三島水軍の陣代としての毅然とした笑みが張り付いていた。
「安成様、そんなに暗いお顔をなさらないでください。私はもう平気です」
「……鶴姫」
「これからは私が陣代として、大三島水軍を、この海を率いてまいります。ですから、軍師であるあなたもしっかりとしていただかなくては困ります。大内など、次の戦で叩き潰して見せますわ」
鈴を転がすような、努めて明るい声だった。自らを鼓舞するように笑うその姿は、一見すると実に頼もしい。
だが、安成にはそれが、今にも千切れそうな糸で編み上げられた偽りの強さにしか見えなかった。安成はたまらず視線を落とし、拳を強く握りしめる。
「……無理をしないでください」
「無理などしていません。私は大祝の娘です」
「俺のせいです」
安成の口から、堰を切ったように後悔が溢れ出した。
「俺の描いた絵図が、あまりにも浅はかだった! 敵に別働隊が存在する可能性に、なぜ気が回らなかったのか……! 俺の、俺のせいで、安房様は命を落とされたのだ!」
「安成様!」
鶴姫が遮るように一歩踏み出し、安成の冷たくなった手を両手で包み込んだ。
「安房兄上が討ち死にされ、あなたはご自身をそこまで責めておられたのですね。だから、ずっとそうやって俯いて……」
「責めるなと言う方が無理です! 私の策が大祝家から、あなたから、安房様を奪ったのだから!」
「いいえ、あなたの策がなければ、私たちは戦う前に踏み潰されていました! 私一人が泣くどころでは済まなかったのです」
鶴姫は安成の手をぎゅっと握りしめ、言い聞かせるようにまっすぐに見つめる。
「安房兄上を守れなかったのは、前線にいた私たち皆の力不足です。だから……どうかそれ以上、ご自身を責めて、心を閉ざさないでください。安房兄上だって、あなたを恨んでなどいません」
「鶴姫……」
「私は大丈夫です。前を向くと決めたのですから。それに安房兄上の御霊は大山積大神のもとへ還ったのです。きっと私たちの味方になってくれることでしょう」
最も傷つき、引き裂かれるような悲しみの渦中にいるはずの彼女が、自分を置いてけぼりにして、必死に安成を救おうと言葉を紡いでいる。
しかし、その慈悲深い言葉とは裏腹に、安成の手を包む彼女の小さな指先は、さきほどから微かに、しかし絶え間なく震え続けていた。
弱音を吐くまいとする強い意志の鎧で、兄を失った心の穴を必死に覆い隠しているだけなのだ。
一番辛くて、泣きたいはずの彼女が、なぜ自分のために無理をして笑うのか。
安成の胸のなかに、猛烈な愛おしさと、彼女を護らねばならないという強い衝動が湧き上がった。安成は、自分を包んでいた彼女の震える手を、今度は逃がさないように強く握り返した。
「……手が、震えています」
「これ、は……ただの、戦のあとの武者震いです」
鶴姫は強がって手を引こうとしたが、安成はそれを許さなかった。
「もういいのです、鶴姫。俺のために、無理に強くあろうとしないでください」
「私は、陣代として……」
「いまは陣代ではありません。俺の前では、その鎧を脱いでいいのです。泣いてもいい、弱音を吐いてもいい。ここは、あなたが無理をする場所ではない」
安成の言葉に、鶴姫ははっと息を呑み、潤んだ瞳で安成を見つめた。
「俺はあなたのように強く戦えません。あの大薙刀を振るうこともできない。ですが、あなたの知恵となり、盾になります。あなたの心にぽっかりと空いてしまったその暗い穴を、私が隣で、一生をかけて一緒に埋めてみせます。だから、一人でその重荷を背負い込まないでください」
「安成、様……」
安成の力強い誓いが、鶴姫の張り詰めていた心の糸を優しく解いていく。
大三島水軍の陣代という重圧から解放された彼女の顔に、今夜初めて、一人の少女としてのかすかに安心したような微笑みが浮かんだ。そして、こらえきれなくなった一筋の涙が、堰を切ったように頬を伝って零れ落ちた。
「はい……。よろしく頼みます……安成様」
障子の向こうで、大楠の葉が夜風にざわめいていた。その音は、傷つきながらも互いの存在を確かめ合い、共に前を向いて歩み始めた二人の決意を、静かに祝福するかのように夜の海へと響き渡っていた。




