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凪の鈴音〜大三島、悠久の誓い〜  作者: nyancos


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第三十一話 白南風(しらはえ)の涙

 瀬戸内の空が、夜の闇をゆっくりと脱ぎ捨ててうっすらと白み始める。


 だが、東の地平線から差し込んできた仄白い夜明けの光が照らし出したのは、勝利の歓喜に沸く戦場ではなく、濃い朝霧のなかにどんよりと漂う、絶望と壊滅の光景であった。


 大祝安房という、誰もが仰ぎ見る絶対的な大黒柱を失った大三島水軍の兵たちは、完全に戦意を喪失していた。


 つい先刻まで大内軍を容赦なく圧倒していたあの獰猛な野獣のような熱気は嘘のように消え失せ、海面に浮かぶどの船の板敷きも、まるで通夜のような重苦しい静寂と、言葉にならない狼狽に支配されていた。



「嘘だろ……陣代様が、あの安房様が討たれたなんて……」


「これから俺たちはどうすりゃいいんだ。大三島水軍は、我らが海はどうなる……!」


 血を分けた同胞を失ったかのように、水主たちは虚空を見つめてへたり込んでいる。


 番頭衆の権左は、自慢の大槍を甲板に何度も激しく突き立てながら、血の涙を流して拳を震わせていた。


 いつもは冷静沈着だった喜平までもが、茫然自失の体で燃え残る海を見つめたまま立ち尽くしている。


 総大将の死――それは、ただの戦術的な敗北以上の致命傷となって、大三島水軍の誇りと魂を完膚なきまでに叩き折っていた。


 包囲網は完全に瓦解し、勝利を確信して息を吹き返した大内軍の本隊が、ここぞとばかりに大三島水軍を逆になぶり殺しにせんと再び牙を剥き始める。


 じりじりと包囲され、大三島水軍の命運がいよいよ尽きかけた、まさにその時だった。



「――お、おい! 見ろ! 朝霧の向こうを見ろォ!」


 大三島水軍の番頭の一人、新太が、船の帆柱に猿のようによじ登り、声を限りに叫んだ。


 その指さす先、東と南の水平線から、立ち込める朝霧を力強く切り裂いて、無数の船影が海を埋め尽くさんばかりの勢いで進軍してくるのが見えた。


「援軍じゃ……! 援軍が来たぞォーーーッ!!」


 新太の喉が張り裂けんばかりの絶叫が、静まり返った海原に地鳴りのように響き渡る。


 南の空、伊予の国から大挙して押し寄せるのは、一刻も早くと急行した主家、河野氏の直属軍と忽那水軍。

 そして東の海から波飛沫を上げて迫るのは、因島、能島、来島の村上水軍であった。


 大三島の、そして瀬戸内の盟友たちの危機に、瀬戸内の水軍、その全力を解き放って駆けつけたのだ。各船の舳先に翻る無数の旗印が、朝日に映えて誇らしげに揺れている。


 その圧倒的な新手の数と、海を圧するほどの怒涛の威容を目の当たりにした大内勢、白井水軍の軍勢は、今度こそ完全に戦意を喪失した。


 これ以上の戦いは全滅を意味すると瞬時に悟った白井房胤は、奇襲を成功させた小原隆言の軍勢を引き連れ、蜘蛛の子を散らすようにして周防の海へと命からがら敗走を始めた。




「……終わった、のか。本当に……」


 引き潮の波間に激戦の爪痕だけが漂う海原を、安成は韋駄天小早の甲板から血眼になって見回していた。


 周囲には、焼けただれた船の破片や、ちぎれた大内の旗印、そして両軍の兵たちの亡骸が無数に浮いている。

 しかし、安成の心には勝利の感慨など一片もなかった。ただ一人、あの狂乱の戦火の渦へ鬼神となって飛び込んでいった少女の身が、案じられてならなかった。心臓が嫌な音を立てて脈打っている。


「源爺、あそこだ! あの船だ! あそこに行ってくれ、頼む!」


 安成が、波間にぽつんと漂う一艘の焼け焦げた小早を指さす。


「わかった、しっかり掴まっておれよ!」


 源爺が声を絞り出し、舵を大きく切る。韋駄天小早が滑るように鋭く水を噛み、一直線にその船へと近づいていった。


 黒く燻り、今にも波間に沈みそうな小早の甲板。そこには、力なく膝をついてへたり込んだ鶴姫の姿があった。


 寄り添う妙林が、痛ましげな表情を浮かべ、言葉もなくその背中を優しく、静かに擦り続けている。


 戦場を美しく魅了したあの漆黒の長い髪は、いまやバサバサに乱れ、ところどころが炎に焼かれて赤茶けて焦げていた。

 鶴姫は血脂に染まった大薙刀を傍らに転がしたまま、虚ろな目でただ一点を見つめ、微動だにしない。大好きな、そして誰よりも頼りにしていた兄を失った現実を受け止めきれぬまま、その魂が身体から完全に抜け落ちてしまったかのようだった。


「鶴姫……!」


 船が横付けされるやいなや、狂ったように焼け焦げた甲板へと飛び移り、彼女のもとへ駆け寄った。


 そのすぐ近くで、大の字になって大息を吐いていた武吉が、疲れ果てた表情で重い上体を起こした。

 身体中から湯気のような熱気を立ち上げ、自らの血と敵の返り血で全身を真っ赤に染めた武吉は、呆れたように、しかし隠しきれない戦慄を瞳に宿し、自嘲気味な笑みを漏らす。


「……おい師匠。俺だって死に物狂いになって、必死で五十は斬ったんじゃ。だがよ……」


 武吉は、力なく顎で鶴姫の背中を示した。


「こいつ、軽く百は斬ってたぞ。鬼神が乗り移ったかと思ったわ。とんでもねぇじゃじゃ馬姫じゃ……。流石の俺でも、これには逆立ちしたって敵わねぇな」


 武吉の冗談混じりの言葉にも、鶴姫は一切の反応を示さない。


 ただ人形のように俯いているだけだった。その白い肌には、敵の返り血が無残にこびりつき、怒りと狂気の熱が去った身体は、朝の冷気のなかでただただ冷え切っていくようだった。


「鶴姫……申し訳ありません。私が、私の立てた策が甘かったばかりに……別働隊の動きを予期できず、安房様を、このような目に……っ!」


 安成の胸を、刃物で抉られるような激しい後悔の念が突き刺す。

 自分がもっと完璧な絵図を描いていれば。自分が戦場で恐怖に足をすくませず、彼女と共に最前線で戦っていれば。


 いたたまれなさと、彼女を戦場に一人にしてしまった申し訳なさで胸が張り裂けそうになりながら、安成はただ、震える手で鶴姫の小さな身体を強く、壊れ物を扱うように胸に抱き寄せた。


 安成の腕のなかで、鶴姫の肩が、びくりと小さく震えた。

 戦場では一歩も引かぬ戦の鬼のようだった彼女が、いまは酷く小さく、今にも消えてしまいそうなほど脆い、一人の少女の身体に戻っている。

 きつく目を閉じた鶴姫の目尻から、堪えきれなくなった一筋の涙が溢れ、安成の胸元へと零れ落ちて、じわりと染みを作った。


 夜明けの冷たい白南風しらはえが、静かに髪飾りの鈴を揺らす。大勝利の代償は、あまりにも大きすぎた。

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