第三十話 慟哭の海
「見ろよ、奴らまんまと俺らの罠にかかったようじゃな! 師匠! このまま一気に追い打ちをかけようぜ!」
新型の快速小早の舳先で、村上武吉が燃え盛る下島の海を指さし、狂喜の声を上げた。
だが、その隣で凛と佇む鶴姫が、すかさず冷ややかな声を刺す。
「『俺らの罠』ではありません。『安成様の罠』です」
「けっ、分かってるよ!」
武吉は面白くなさそうに顔を背けたが、その目はまだ戦熱に浮かされている。
二人のやり取りが耳に入らないほど、安成はただ、目の前の光景に圧倒されていた。
「安成様、大丈夫ですか…」
「あぁ、大丈夫だ、ありがとう」
自分が海図の上に描いた策が、現実の海を真っ赤な火の海に変え、何百、何千という人間の命を濁流へと呑み込んでいく。肉の焦げる臭いと、夜の海に響き渡る阿鼻叫喚の絶叫。安成は冷たくなった己の手を握りしめ、ただその地獄を見つめることしかできなかった。
しかし、戦況は一瞬にして暗転する。
「……? おかしいですね。南側の包囲が……緩んでいます? 」
妙林が眉をひそめて呟いた。
「……………違います、我らの本隊が退いているのです!」
鶴姫が目を見開き叫んだ。
その言葉通り、大三島水軍の本陣が張っていたはずの南側の包囲網が一角から瓦解し、そこから大内の軍勢が次々と逃れ始めていた。火だるまになりながらも、狂ったように南へ突進していく敵船の群れ。
「な、何をしているのですか、兄上……!?」
大三島水軍の本隊を率いる大祝安房が、これほどの手落ちをするはずがない。鶴姫の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
「クソッ! ここまで追い詰めて、のんびり逃がすかよ! 源爺、大急ぎであの逃げる奴らの先頭に回り込め!」
「やれやれ、相変わらず年寄り使いの荒いやつじゃて!」
源爺が不敵に笑いながら舵をぎりりと回す。韋駄天小早は水面を滑るように急加速し、退路を求めて殺到する大内勢の真っ只中へと、果敢に切り込んでいった。
その時だった。
爆音と怒号を突き破り、戦場全体に響き渡るような、おぞましい勝ち鬨が上がった。
『――大三島水軍大将、大祝安房、討ち取ったりぃ!!!』
心臓が止まるような衝撃が、韋駄天小早の面々を襲う。
『討ち取ったるは、大内家侍大将、小原隆言でござる!!!』
地を揺るがすような大内勢の歓声が、闇夜の海に大波となって押し寄せる。
背後を急襲した小原隆言の別働隊によって、大三島水軍の本陣は崩壊し、総大将である安房が討ち取られたのだ。
「……あ、兄、上……?」
鶴姫の口から、掠れた声が漏れた。
次の瞬間、鶴姫のなかで、何かがブチッ、と激しく引きちぎれる音がした。
「……おおおおおあおあああああッ!!」
それは姫としての、いや、一人の人間としての、魂を引き裂かれたような慟哭の絶叫だった。
鶴姫は漆黒の髪を振り乱し、身の丈を越える大薙刀を握り締めると、形相を変えて敵軍の真っ芯へと飛び込んでいった。
「鶴姫……っ! 戻れっ!!」
安成が悲痛な声を張り上げるが、彼女の耳にはもう届かない。
「へっ、手柄を独り占めさせっかよぉ! 待っとれ、大内の山猿どもがぁ!」
武吉もまた、獣のような咆哮を上げて刀を抜き、鶴姫を追うように敵の関船へと躍り出た。
「姫様! 武吉殿! ……安成様、姫様は我らでお守りいたします!」
妙林が鋭い眼光で安成を一瞥し、主君を追って戦火の渦へと身を投じていく。
「皆……っ!!」
(くそっ、動け、俺の足っ……!)
激しく揺れる韋駄天小早の甲板の上。安成は、ただ一人取り残されていた。
足がすくみ、膝が震えて一歩も動けない。喉を締め付けられるような恐怖と、己の無力感。
戦場で文字通りの鬼と化した鶴姫や武吉たちの背中を、安成はただ、涙で歪む視界のなかで見送ることしかできなかった。




