第三十三話 潮騒、それぞれの願い
大内勢、白井水軍との激闘が終わり、数日が経った。
大三島は安房を失った深い喪失感の中にあったが、迫り来る次なる脅威を前に、立ち止まることは許されなかった。
「師匠! いつまで寝てるんじゃ! ほら、起きろ!」
朝、安成の部屋の襖を乱暴に開けたのは武吉だった。彼はまだ眠気の中にいる安成の様子などお構いなしに、畳の上に水の入った桶をドスンと置く。
「……う、あと五分……」
「何を寝ぼけてんだ。ほら、顔を洗え!」
強引に絞った冷たい手ぬぐいを顔に押し付けられ、安成は冷たさに飛び起きて完全に目が覚めた。
「師匠、俺と手合わせしてくれ」
いつになく真剣な、真っ直ぐな表情で武吉が木刀を差し出してくる。
そのただならぬ気迫に、安成は眠気を吹き飛ばして頷いた。
庭に出て、激しく木刀がぶつかり合う。若さゆえの鋭い踏み込みを見せる武吉に対し、安成は冷静にいなし、一瞬の隙を突いて武吉の木刀を弾き飛ばした。互角の勝負の末、安成に軍配が上がる。
「……はぁ、はぁ……。くそっ、やっぱり、師匠には敵わねぇ」
武吉は肩で息をしながら、悔しそうに、しかしどこか晴れやかな笑みを浮かべた。
「今思えば、師匠のその構えも意味があるんじゃな。遮二無二、剣を振るっても駄目じゃ。師匠のように周りをよく見て、先を読んで剣を振わねぇとな」
「どうしたんですか、急に」
安成が木刀を引くと、武吉は遠い海を見つめるように視線を落とした。
「俺は一旦、能島へ帰る。先の戦で分かったんじゃ。俺はまだちっぽけで、何一つ守れない半人前じゃと。……ここじゃ師匠たちにたくさん教えて貰った。俺は能島でもう一度、海の男として鍛え直してくる。師匠、世話になった!」
引き止める間もなく、武吉はそう言うと、宮浦の港へ向かって一目散に走って行った。
その背中を見送りながら、安成は彼がいつかこの瀬戸内を揺るがす大きな男になることを確信していた。
「おーい、越智殿、こっちへ来てくれ」
武吉の旅立ちの余韻に浸る間もなく、声をかけてきたのは大祝安舎だった。
「お鶴がまた朝からいなくなった。どうせ裏の浜だろう。連れ戻してやってくれないか。あいつは一度没頭すると、潮が満ちるのも忘れるからな」
「……分かりました。鶴姫様を連れ戻して参ります」
安成は深く一礼し、一人で裏の入り江へと向かった。
岩場を抜け、静かな波が寄せる裏の浜へ出ると――そこには案の定、波打ち際で小さく屈み込んでいる少女の姿があった。
鶴姫だ。
大三島水軍の陣代を引き継いだ時の、あの凛とした、張り詰めた姿はそこにはない。着物の裾を膝まで無造作に捲り上げ、泥にまみれながら必死に砂を掘り返し、何かを探している。
「鶴姫。……何をしておいでですか、そんなところで」
背後から声をかけると、彼女はビクッとして大きく肩を揺らし、慌てて両手にある「獲物」を背中に隠した。
「あっ、安成様……! べ、別に、何もしておりません。大三島の海に異常がないか、陣代として検分していただけです!」
「検分って……顔に泥がついていますよ」
安成が自身の頬を指差すと、彼女は慌てて袖で顔を拭ったが、かえって泥が広がり、まるでお転婆な子供のようになってしまった。
「……それ、見せてくれませんか」
安成がいたずらっぽく背後に回ろうとすると、彼女は「ああっ、ダメです! 見ないでください!」と顔を真っ赤にして砂浜を逃げ回る。
ひとしきり追いかけっこのような形になり、結局、根負けした彼女が恥ずかしそうに差し出した小さな手のひら。
そこには、いくつかのみずみずしく輝く、形の良い桜貝が乗っていた。
「……貝殻、ですか?」
「……安房兄様が、昔教えてくれたのです。この浜には、願いが叶う貝が落ちているって」
鶴姫は視線を落とし、ぽつりと呟いた。
「……笑わないでください。子どもっぽいのは分かっています。でも、安房兄様が死んでから、この貝がちっとも見つからなくて……。今日、やっと見つけたのです」
さっきまでの強がりはどこへやら、彼女は少しだけ鼻を啜り、壊れ物を扱うように貝殻を愛おしそうに見つめている。
戦場では兵を鼓舞して果敢に駆け回り、神前では気高く振る舞う。だが、これこそが彼女の、誰にも見せられない本当の素顔だった。
「笑いませんよ。……安舎様がお呼びです。潮も満ちてきました、戻りましょう」
「……はい。あっ、安成様、このことは安舎兄様には絶対に内緒ですよ? また『大祝の娘がはしたない』と、説教されてしまいますから」
鶴姫はいたずらっぽく微笑むと、泥だらけの足のまま、白砂の手前でくるりと向きを変えて駆け出した。
「ほら、安成様! 早くしないと置いていきますよ!」
「おい……、鶴! 走ると危ない!」
焦るあまり、安成はつい、彼女を「鶴」と呼び捨てにしてしまっていた。
呼ばれた彼女は一瞬足を止め、少しだけ頬を赤らめると、嬉しそうに髪飾りの鈴をちりん、と鳴らしながら、再び光る砂浜を走っていく。
鈴の音を響かせながら、無邪気に笑う彼女の後ろ姿。
それを追いかけながら、安成の胸に、切ないほどの愛おしさと痛みが込み上げていた。
(彼女は、大人びているんじゃない……)
大人びた「フリ」をしなければ、この島を、皆を、守れないのだ。そのあまりにも健気で過酷な宿命を、安成は自らの知恵のすべてを懸けて、隣で支え抜くことを改めて固く誓うのだった。




