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凪の鈴音〜大三島、悠久の誓い〜  作者: nyancos


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第二十七話 韋駄天、夜の海へ

 瀬戸内の海が、夕闇に染まっていく。


 昼間の猛烈な引き潮が嘘のように、いまや水面は不気味なほど静まり返り、濃紺の帳がすべてを覆い隠そうとしていた。


 その静寂に溶け込み、一艘の小早が矢のように水面を滑っていく。


 大三島の職人たちが試行錯誤の末に造り上げた、あの新型の快速船――「韋駄天小早」であった。


 ともで巧みに舵を操るのは、『波濤(はとう)の源次』こと源爺である。


 船の重心を極限まで下げたその狭い甲板には、安成、鶴姫、妙林、そして村上武吉が身を潜めていた。


 周囲の島影に紛れるため、篝火かがりびはおろか、手元の提灯すら灯していない。ただ月明かりと、夜光虫が放つ微かな青白い光だけが、彼らの緊張に満ちた顔を照らしていた。



「……やはり信じられん速さじゃ。水を滑るようなこの揺れの少なさ、まるで本当にトビウオの背に乗っておるかのようじゃな」


 源爺が感嘆の声を漏らす。いつもなら一刻はかかる下島しもじま姫子島ひめこじまの海域が、みるみるうちに眼前に迫ってくる。


 その時、舳先へさきで前方を凝視していた鶴姫が、はっと息を呑んで安成の袖を引いた。


「安成様、あれを……!」


 鶴姫の指さす先、南北に伸びる下島と姫子島の間の水道を見つめ、安成は全身の血が凍りつくような衝撃を覚えた。


 闇の向こう、点々と灯る無数の篝火。それが水面に反射し、まるで巨大な大蛇がのたうち回っているかのように見えた。


 近づくにつれ、その正体が浮かび上がる。


 安宅船の巨大な城郭のような船影、それを囲むようにひしめき合う関船と小早の群れ。五百隻という圧倒的な大軍勢が、狭い瀬戸を埋め尽くしていた。


「大内と白井水軍の旗印……! 奴ら、本当にここにいやがる!」


 武吉が身を乗り出し、押し殺した、しかし興奮を隠せない声で叫んだ。


「見たかよ! 俺の言った通りじゃろ! 算術の計算も、潮の読みも、寸分の狂いなくぴったり大当たりじゃ!」


「黙りなさい、小童! 敵の懐に入り込んでいるのですよ、勘付かれたらどうするのです!」


 鶴姫が鋭く叱りつけるが、武吉は「へっ」と不敵に笑うだけだった。

 しかし、その目は敵の配置を冷徹に見極めようと爛々と輝いている。


「姫様、武吉殿、口喧嘩はそこまでに。……白井の軍勢、すでに夜襲を警戒してか、船を鎖で繋ぎ止めて陣を固めております。これ以上の接近は危険です」


 妙林が冷静な声で進言し、安成も深く頷いた。


「源爺、大急ぎで戻りましょう! 敵の陣形は分かりました。大内の大軍は、この狭い水道に密集しすぎて、いざという時の身動きが取りづらくなっています。勝機はあります!」


「よし、面舵じゃ! 韋駄天の真骨頂、見せてやるわい!」


 源爺が力強く舵を切る。新型小早は急旋回を決めると、日が落ちた薄暗い海を切り裂くように本隊へと引き返した。



---


 宮浦沖の本隊へと合流を果たすと、すでに出陣を待つ千人を超えるの兵が殺気立っていた。


 陣代、大祝安房を前に、安成は夜の偵察で得た海図を指差しながら、自身の策を熱く語った。


「安房様、敵は大軍ゆえに、南北に細長い水道の中にぎっしりと密集しています。ここは――『啄木鳥きつつき戦法』をとりましょう」


「啄木鳥、だと?」


 安房が眉を上げる。安成は力強く頷いた。


「はい。啄木鳥が木を突き、驚いて飛び出してきた虫を捕らえるように、敵を陣から追い出すのです。仕掛けるのは『北側』からです。水道の北側は島々が複雑に入り組んでいます。」


「幾らか手勢を預けて下されば、我ら快速の韋駄天小早がこの島影に潜んで北から奇襲を仕掛け、火を放って敵の本陣を激しく混乱、撹乱させます!」


 安成の指が、海図の水道を北から南へと突き抜ける。


「狭い水道で背後から不意を突かれた敵は、大混乱に陥り、必ずや遮るもののない、広く開けた南側の海へと逃れようと一斉に動き出します。そこを――」


「そこを、我が大三島水軍の本隊が、網を広げて待ち受けるというわけだな!」


 安房が豪快に笑い、拳を海図に叩きつけた。その意図を察した番頭衆の顔が一斉に引き締まる。


「全軍、これより出陣する!」


 安房は居並ぶ兵たちに向かって、地鳴りのような声で号令をかけた。


「越智殿、武吉殿、そしてお鶴! お主たちは韋駄天小早を率いて北の島陰を抜け、敵の背後を突け! 敵が死に物狂いで南へ逃げ出してきたところを、我ら本隊が完全に包囲し、一網打尽に圧殺する! ――者ども、大三島水軍が海の恐ろしさを、大内の山猿どもに叩き込んでやる!」


「「「応ッ!!!!」」」


 いつもより静かな咆哮であったが、強い殺気が宮浦の海を震わせた。


 安成は己の手を見つめた。恐怖で震えていたはずの手は、いまや戦熱と、己の知謀が歴史を動かすという高揚感で、熱く震えていた。


「行きましょう、安成様」


 隣に立つ鶴姫が、凛とした瞳で安成を見つめ、微笑んだ。


 北の島影へ、奇襲部隊が夜陰に紛れて滑り出していく。瀬戸内の覇権をかけた、本当の決戦が幕を開けようとしていた。

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