第ニ十六話 若き狼の目覚め
「黙りなさい! 小童!」
武吉の突然の暴言に、鶴姫が色めき立つ。
しかし、武吉はそれを完全に無視し、狂おしいほどの熱を孕んだ目で海図に割り込んできた。
源爺が目を見開く。
「いかん! 今日は大潮じゃあ」
「その通りじゃ。今日は大潮じゃ! 今の時期じゃと昼間の潮が馬鹿速ぇぞ!」
武吉は海図の音戸の瀬戸から、蒲刈島、大崎島、下島、そして大三島の手前に浮かぶ姫子島(岡村島)のあたりを乱暴に指でなぞる。その指がピタリと止まり、武吉の呼吸が不自然に荒くなった。
何かを猛烈に堪えるように、武吉は頭をガシガシと掻きむしり、海図に顔を近づけてぶつぶつと呟き始める。
「……待てよ。いつもの速さが一刻一里半。じゃが今日の大潮の順潮を足しゃあ…この時にはここまで来ているか、すると潮の流れは…こう…か、いや、安芸灘から斎灘の島影を潮に乗せりゃあ船の速さは『一刻に四里』にはなるか……。そうなると音戸の瀬戸から大三島の宮浦までは、遠回りにはなるが、ざっと『十八里』……。十八里を、一刻四里の速さで割ると……四、八、十二、十六……残りが二里……」
地を這うような呟きに、安成は息を呑んだ。それは先日、自分が手習い所で武吉に教えた、距離と速さと時間の概念そのものだった。
数を数えることすら面倒くさがっていたあの粗野な少年が、今、瀬戸内の潮の動きを、算術を使い計算している。
武吉の目が、らんらんと獣のように輝きを増した。
「……四刻半(約9時間)じゃ! 今朝、仁保島城を出た奴らは、たった四刻半……つまり、今日の夕暮れ前までにはもう、この大三島の目の前、下島と姫子島の瀬戸までカッ飛んできてんじゃねぇか!」
「何だと……!?」
喜平が座から身を乗り出し、驚愕の声をあげる。
武吉はさらに海図の下島周辺を拳で強く叩いた。
「音戸の瀬戸から東へ向かって猛烈に満ち潮が始まってよ、昼過ぎにゃ潮が変わりゃあ、今度は安芸灘の引き潮が西から東へ向かって激しく流れ込むじゃろ。奴らぁ今日一日、進む方向に潮が流れる順潮に乗り続けるんじゃ! 」
武吉は指を大三島へと滑らせる。
「奴らが本気で俺たちを潰しにくるってんなら、今朝から水主を死ぬ気で漕がせるじゃろう。明日の夜明け前には斎灘からの引き潮に乗って宮浦へ攻めてくるぞ。二日目の晩にのんびり奇襲をかけるつもりでおりゃあ、知らねぇうちに、夜明けを待たずにまんまと大三島を踏み潰されるのは俺らの方じゃ!」
「……っ!!」
安成の背筋に、ゾクッと強烈な鳥肌が立った。
梅雨の大潮――昼間に最も激しく動くという海の経験と、自分の教えた算術。それらを頭の中で完璧に噛み合わせ、番頭衆の誰よりも早く、そして正確に白井水軍の本当の到達時間を弾き出した武吉の姿は、まさに瀬戸内の覇者としての覚醒の瞬間だった。
「下島と姫子島……じゃと! 今日の夕暮れにはもう、そこまで迫られるというんか!?」
銀次が叫び、源爺が深く息を吐いた。
「白井房胤め、忽那での恥をそそぐために、それほど急いでおるか……。小童の言う通りじゃ、もしそこまで来られているなら、のんびり構えてはおられん。大三島は目と鼻の先じゃぞ!」
広間に戦慄が走る。敵は想像以上の速度で、すでに今日の夕刻、喉元に迫るのだ。
「ならば、猶予はないな」
安房が重々しく腰を上げた。その眼光には、すでに迷いはなかった。
「敵が夕刻に下島あたりに達するなら、そこを戦場とする。直ちに出陣の支度をせよ!」
「「「応ッ!!」」」
番頭衆の咆哮が響く。
その騒然とする中、安成はごくりと唾を飲み込み、前へ出た。恐怖で声が震えそうになるのを、必死に抑え込む。
「安房様……! それなら、やはりあの『新型小早』を使いましょう!」
全員の視線が安成に集まる。
「実戦での連携が難しくとも、あの船の速さなら、物見と夜陰に乗じて敵の真っ芯に突っ込み、白井の本陣を激しく陽動・撹乱させることができます。」
全身から汗が噴き出し、喉が焼け付く。安成は唾を飲み込む。
「敵が大軍であればあるほど、暗闇の中での予期せぬ奇襲と、あの異常な速度の船には対応できず、大混乱に陥るはずです。敵の足を下島で完全に止め、陣形を乱す……その隙を、本隊で叩くのです!」
安成の献策に、武吉が隣でガシガシと頭を掻きながら、最高に嬉しそうな声を上げた。
「ハハッ! 聞いたか大将! さすが俺の師匠だ、言うことがえげつねぇや! あの化け物トビウオ船、やっぱりここで使ってこそじゃろう!」
安房は安成の目をじっと見つめ、それから不敵に笑った。
「よし――その策を用いよう。越智殿がもたらしたあの新しき韋駄天小早、その力を存分に見せてみよ!」
瀬戸内の闇を裂く、大戦の火蓋が切って落された。




