第二十五話 知謀の火蓋
宮浦の陣屋。板敷きの広間に広げられたのは、安芸国から大三島に至る広大な瀬戸内の海図である。
上座に座す陣代、大祝安房を筆頭に、鶴姫、能島の村上武吉。そしてその周囲を、戦い慣れた番頭衆らがぎりぎりと取り囲んでいた。
室内に満ちているのは、久田子水道で大内を血の海に沈めた、あの獰猛で容赦のない大三島水軍の熱気そのものだった。
「――よし、状況は分かった」
安房が太い腕を組み、一同を見回す。
「敵はおよそ五百隻。まともにぶつかれば圧殺される。……越智殿、知恵を貸してはくれまいか」
鋭い眼光が安成に注がれる。安成の心臓がどくんと跳ねた。自分が口を開いた先に三島水軍、大三島の命運が委ねられる。安成は冷たくなっていく手を強く握り締め、海図の前に一歩踏み出した。
「……あ、まず、お聞きしたいことがあります。大内、白井の軍勢は……一刻(約二時間)に、およそ何里進むものなのでしょうか」
安成の問いに、航海術に長けた喜平がすぐに指を折って答えた。
「そうさな、五百隻の仕立てだ、関船や安宅の巨船も交じっている。一糸乱れぬ進軍となれば、良くて一刻に一里半(約6km)といったところじゃないか」
「一刻に一里半……」
安成は頭の中で、距離計算を組み立てた。仁保島城からこの大三島の宮浦までは、音戸の瀬戸を抜ける海路でおよそ十四里(約56km)。
「白井の軍勢が今朝、仁保島城を発したとしても、五百隻の大軍は動かすには時がかかるもんだ。水主をくたびれさせぬよう、潮待ちを含めて、二晩の陣張りを挟んで早くとも三日目にこの大三島へ辿り着く……というのがおおよその見立てになるだろう」
「そうなると…一日におよそ五、六里といったところでしょうか。となれば……」
安成は海図の上、音戸の瀬戸から少し進んだ蒲刈諸島を指差した。
「今夜は、この蒲刈のいずれかの島影で一泊目の陣を張るはずです。そして、問題は二泊目……明日の晩です。同じ速さで進むとすれば、明日の晩には、ちょうどこの辺り――大崎島のあたりの島で二度目の陣を張るはずです。そこを狙って、夜襲をしかけましょう」
安成が海図の豊島周辺を指差すると、番頭衆からおぉ、と感心の声が漏れた。
権左がニヤリと太い眉を上げる。
「ガハハ! なるほどな、越智様! 旅の疲れが溜まった二晩目、気が抜けて腰を下ろしたところを、夜陰に乗じて一気にひねり潰そうってか! 腕が鳴るぜ!」
冷静沈着な鉄次も顎をなでて頷く。
「奴らぁ、竹原の小早川水軍を警戒して蒲刈島の南側から来るじゃろう。大軍を安全に係留できて、宮浦への潮目を考えりゃあ、豊島瀬戸が一番確かな地じゃな。庄助、新太、どう思う?」
庄助が拳を打ち鳴らす。
「豊島瀬戸じゃろうな。あそこなら陸から回り込んで、大内の山猿どもに火矢の雨を降らせてやるわ!」
「あそこらぁは儂らの庭じゃ。岩礁がようけぇある、驚かせるだけでも奴ら船をぶつけて沈むじゃろ」
新太が身を乗り出す。
「まだ敵の出方は分かりませんが、今のうちに下島の北側へ軍勢を回し、敵の様子を伺うのが賢明かと。奴らが豊島へ入れば河野、来島勢と挟み撃ち、別の航路を取れば即座に反転して迎撃する。あの水域に伏兵を置けば、いかようにも動けましょう」
「うむ、その策でいこう。直ちに御館様、三島村上へ伝令を出そう」
安房が腰を上げ、番頭衆が「明後日の夜の奇襲」で完全にまとまりかけた、その時だった。
これまで退屈そうに話を聞いていた村上武吉の目が、海図のある一点を睨んだまま、ハッと見開かれた。その身体が、弾かれたように床几から立ち上がる。
「――馬鹿野郎! てめぇら、何年この海で生きてやがる!」
突然の怒号に、広間が水を打ったように静まり返った。




