第二十三話 海を切り裂く刃
大三島の造船所に、力強い槌の音が響き渡っていた。
勘兵衛たちの職人魂に火がついたあの日から、わずかひと月。安成の描いた奇妙な船の絵は、瀬戸内の船大工たちの手によって、一本の美しい木造船へと姿を変えようとしていた。
「おい、権左! 湯気で蒸した側板の曲げが足りねぇぞ! もっと一気に絞り込め!」
「分かってらぁ! 親方、これ以上やったら板がハジけ飛ぶぜ!」
「飛ばしてみせろ! 越智様の考えた通りの船を造るには、この反りが命なんだよ!」
「おい、新太ァ、それだと燃えちまうだろうが! もう少し火から離せぇ!」
勘兵衛親方の怒号が飛び交う。
もうもうと立ち込める白い湯気の中で、職人たちが文字通り血眼になって木を曲げ、削り、組み上げていく。
その傍らでは、大釜で煮立たせた松脂とクジラの獣脂を、喜平が絶妙な配合で練り上げていた。
「……よし、これでいい。冷めねえうちに船底へ刷り込め! 隙間なく、鏡みたいにつるつるに仕上げるんだ!」
安成は、その熱気の中心でただただ圧倒されていた。現代の知識を絵に描いて少し口にしただけだった。それを、この時代の職人たちは技術と執念で、現実の形に落とし込んでいく。
「すごいな……。たったあれだけで、未来の技術の理屈を理解して、実際に作ってしまうなんて」
ぽつりと言った安成の言葉に、隣で見守っていた鶴姫が不思議そうに微笑んだ。
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さらにひと月後。梅雨空の鈍い太陽が海面を照らす中、ついに新型船が浜辺から海へと押し出された。
「ほう、これが越智殿の考えた新しい小早か。妙な形をしているが、本当に瀬戸内の潮流で役に立つのか?」
大祝安房が訝しげにその新型船を眺める。
「兄上、安成様のお考えになることに間違いございません」
鶴姫が胸を張って答えるが、安成は「こればかりは、試してみないことには…」と不安が入り混じった笑みを浮かべる。
縦六間(約十一メートル)に対して、横幅を極限まで絞り込んだ漆黒のその姿は、周囲に係留されている丸みを帯びた従来の関船や小早船と比べると、あまりにも細く、どこか頼りなくも見えた。
「おいおい、本当に大丈夫かぁ?」
「あんな細ぇ船、ちょっと波を喰らったら一発でひっくり返っちまうぞ」
「何だ、真っ黒じゃねぇか。燃えちまったのか?」
見物に集まった他の番頭や水主たちが、口々に不安や懐疑の声を漏らす。
そんな雑音を吹き飛ばすように、船尾の舵床へ真っ先に飛び乗ったのは、水軍最古参の番頭――源爺だった。がっしりと太い舵柄を掴み、海を睨みつける。
船に乗り込むのは、源爺、安成、武吉、鶴姫、そして妙林と八人の水主たちだ。
「よし、出陣じゃ!櫓を構えろ!目指すは来島海峡の激流じゃあ!」
源爺の鋭い号令とともに、八丁の櫓が一斉に水を捉えた。
――その瞬間、船に乗る全員の背中に、かつて経験したことのない衝撃が走った。
「な……ッ!?」
武吉が目を見開く。
いつもなら、漕ぎ出しの瞬間はズシリと重い水の抵抗が伝わり、船体が「よっこらしょ」と動き出す。しかし、この新型船は違った。
ひと掻き目で、まるで見えない手で背中をぐっと押されたかのように、滑らかに、そして恐ろしい軽さで前方へと滑り出したのだ。
「軽い……!水の重さをまるで感じねぇ!」
水主たちが驚愕の声を上げる。
船はみるみる速度を上げ、宮浦の湾を出て、瀬戸内でも有数の難所である来島海峡へと差し掛かった。前方から、白波を立てて逆巻く激しい潮の壁が迫る。
「ワハハハ! こいつは暴れ馬じゃ、油断すると一瞬でひっくり返るぞい!」
源爺が叫ぶ。細く引き締めた船体は、速度が上がるほどに鋭く、繊細に傾こうとする。普通の人間なら恐怖で竦むようなその不安定さを、源爺は長年培った熟練の腕と、全身の絶妙な体重移動で見事に抑え込み、御していく。
波の畝りを読み、舵を引く源爺の顔は、まるで新しい玩具を手に入れた子どものように、無邪気な歓喜に満ち溢れていた。
「すげぇ……! あの爺さん、なんて舵捌きしとるんじゃ!」
武吉は新型船の圧倒的な速さと、それを完璧に乗りこなす源爺の神業のような技術に、少年のように目を輝かせている。
しかし、船上はそれどころではなかった。鋭く尖らせた船首が白波を「スパッ」と左右に切り裂き、水面を滑るように爆走する。体験したことのない異次元の速度だった。
「ひゃああっ!?」
あまりの速さと風圧に、さすがの鶴姫も驚き、思わず隣にいた安成の腕をぎゅっと力任せにつかんだ。
安成が驚く間もなく、さらにその後ろからは、恐怖に顔を引きつらせた妙林が「姫様ァーっ!」と叫びながら、鶴姫の背中にがっしりとしがみついている。
「あはは! 妙林、苦しいです!しかし、安成様、これは凄まじい船です!」
「は、はい……!鶴姫、ちょっと腕の力が強すぎ……!」
安成が悲鳴を上げかける中、船は勘兵衛が施した船底の絶妙な角を利かせ、激流の中で驚異的な急旋回を決めた。後ろから追いかけていた従来型の小早や関船が、遥か後方で波に揉まれ、みるみる小さくなっていく。
「ハハハハハ!師匠!こいつは船じゃねぇ、化け物じゃ!まるで水面を跳ねるトビウオそのものじゃねぇか!」
武吉が天を仰いで大笑いした。
八人の漕ぎ手たちは、普段の半分の力も使っていない。それなのに、船の速度はこれまでの倍以上に達していた。
「何という速さだ…これこそまさに韋駄天小早よ」
別の船で見守っていた安房や水軍衆の懐疑の目は、すでに消え去っていた。彼らはただ、圧倒的な速度で海峡を駆け抜けるその白い航跡を、呆然と口を開けて見つめることしかできなかった。
安成は、腕に残る鶴姫の確かなぬくもりと、激しく脈打つ自分の胸に手を当てた。
現代の記憶と、この時代の技術、一流の海の漢たちの腕が噛み合った瞬間、歴史が確かに音を立てて動きを変えていく。その興奮に、安成の血潮もまた、熱く沸き立っていた。




