第二十話 荒ぶる狼と算術のすゝめ
「安成様、お帰りなさいませ! 湯築城での評定、お疲れ様で――」
大三島の港に降り立った安成を、鶴姫はいつもの弾むような笑顔で出迎えた。しかし、その視線が安成のすぐ後ろに佇む、不機嫌そうに唇を尖らせた少年に移った瞬間、その表情が一変する。
「……何故、能島の海賊がここにいるのですか?」
鶴姫の声音から一瞬で温度が消え、冷ややかな視線が武吉を射抜いた。
「実は、能島殿の頼みでな。しばらくの間、大三島で預かり、鍛え直すことになったのだ」
「なっ……! 安房兄上、正気ですか!? このような無頼の徒を島に入れるなど!」
鶴姫はあからさまに忌々しそうな顔をして、武吉を睨みつける。
武吉も負けじと「誰が無頼の徒だ、この跳ねっ返りめ!」と言い返すが、安成がすっと間に割って入り、二人を宥めるように肩をすくめた。
瀬戸内の覇者となる男の教育係という、あまりに重い役回りに、安成は早くも胃の痛む思いがしていた。
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翌朝。宮尾城の広間で、朝餉の膳が並べられた。
「おい、鯛はねぇのか、鯛は! こんな小魚ばかりじゃ力が出ねぇ!」
武吉は膳の上に並んだ料理を見るなり、不満の声を上げた。
そして箸を乱暴に持つと、茶碗をかき込むようにして無作法に食べ始める。音を立てて汁をすすり、口の周りを汚すその姿に、同席していた鶴姫はピキリと青筋を立てて苦言を呈した。
「武吉殿、見苦しいですよ。少しは安成様を見習いなさい」
言われて武吉が顔を上げると、隣の安成は背筋を正し、一汁三菜の膳をゆっくりと、実に優雅な所作で口に運んでいた。
その無駄のない洗練された佇まいは、戦国時代の荒々しい武士というよりは、高貴な公家か、あるいはどこか異国の洗練された賢者を思わせる。武吉はそれを見て、苦虫を噛み潰したような表情で行儀を正した。
その時、安成の手がふと止まる。武吉の膳の隅に、手つかずの小鉢が残っているのを見咎めたのだ。
「武吉殿、山菜が残っていますよ。残さず食べないと体が強くなりませんよ」
「ふん、俺は山菜など青臭くて好かん。男なら魚を喰らうものだ」
武吉がぷいと顔を背けると、安成は箸を置き、少し意地悪く微笑んだ。
「ほう。山菜の美味しさがわからないとは、武吉殿は……まだまだ、ほんの子供のようですね」
「な、何だとっ……!」
子供扱いされたことに、武吉のプライドが激しく煽られる。武吉は顔を真っ赤にすると、小鉢の山菜を箸でひた掴みにし、目を瞑って無理やり口の中に放り込んだ。
「ごふっ……げほっ! ……ほら見ろ! 食ってやったぞ!」
涙目になりながら胸を張る武吉に、安成は「よくできました」と言わんばかりに満足げに頷いた。
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午前中、安成は自室で机に向かい、山積みの書状や木簡と格闘していた。そこへ、退屈を持て余した武吉がドタドタと足音を立てて入ってくる。
「おい越智殿、何をやっているんだ? 剣の勝負をしろ!」
「ああ、武吉殿。今は手が離せません。先の例大祭で寄進された物品の数を計算し、目録を作っているところなのです」
安成は手元にあるそろばん(のような自作の計算具)と筆を動かしながら答えた。
武吉は覗き込んだものの、書かれた数字や文字の羅列を見るなり、あからさまに嫌悪感を示した。
「ちっ、そんなややこしいことは俺には分からん。誰か下の者にやらせれば良かろう」
「おや、武吉殿は算術が苦手ですか?」
「当たり前だ! そんなもの、商人のやる仕事だ。戦人たる者、剣が強ければそれでいいのだ!」
堂々と胸を張る武吉に、安成は筆を置き、フッと鼻で笑ってみせた。
「武吉殿は算術ができない……。ほう、どおりで……なるほど、これは能島村上水軍も危ういですね」
「なんだと!? 算術など戦に何の役に立つというんだ! 戦は刀と槍、弓、そして船の数で決まるんじゃ!」
武吉が激昂して机を叩く。しかし、安成の目は冷徹なまでに冷静だった。
「では、お聞きします。能島村上水軍は、瀬戸内を抜ける商船から『帆別銭』や『駄別料』を取っていますよね。もし武吉殿が算術をできなければ、彼ら商人からいいようにごまかされますよ。積荷の価値を過少に申告され、本来取るべき額の半分も手に入らないかもしれない」
「ぬ……、商人の分際で、この俺を騙そうなどと……!」
「騙されますよ、あなたに数を見る目がなければね。そして商人の間で、影でこう噂されるのです。『能島の次期当主は、通行料をちょろまかしても気づかぬうつけだ』と。そうやって侮られても、剣や弓が強ければそれで良いのですか?」
「うっ……!」と武吉が言葉に詰まる。安成はさらに畳みかけるように、理路整然とした言葉を重ねた。
「戦も同じです。百人の兵を率いて三日間の船戦に出るとして、兵一人あたり、一日に必要な米の量はどれほどですか? それを運ぶために、どれだけの大きさの船が何隻必要ですか? 潮の満ち引きによる速度の変化を計算せず、どうやって敵の待ち伏せを避けるのですか? すべてに算術は関わるのです。」
「算術ができぬ大将など、部下を無駄死にさせるだけの無能に過ぎません。あなたが能島を継いだとき、数の計算ができなければ、敵に騙され、味方に横領されても気づかないでしょうね」
強くなることだけを考えて生きてきた少年にとって、それは未知の「強さの理」だった。
武吉は言葉を失い、じっと自分の拳を見つめていたが、やがてゴクリと唾を飲み込むと、畳に両手をついた。
「……教えてくれ」
「え?」
「俺に、その算術ってやつを教えてくれ、越智殿! 俺は商人に舐められるうつけにも、無能な大将にもなりたくねぇ。お前みたいに、全てを見通す強さが欲しい!」
真っ直ぐな狼の目で懇願する武吉を見て、安成は少し驚いたが、その素直な成長への渇欲を嬉しく思い、優しく微笑んだ。
「分かりました。では、始めましょう」
「――お待ちください、安成様!!」
その時、襖が無作法にガラリと開け放たれた。そこには、廊下でこっそりと一部始終を覗き見していた鶴姫が、側仕えの妙林を伴って立っていた。鶴姫は両頬をこれでもかと膨まらせ、「焼き餅顔」で部屋に踏み込んでくる。
「小童ばかりずるいです! 算術がそれほど戦や領国のために役立つというのなら、私も学ばねばなりません! 私にも教えてください!」
「あの、鶴姫……いつからそこに?」
「最初からにございます!」
ふん、と鼻息を荒くする鶴姫の横で、妙林がやれやれと首を振っている。
「……まぁ、賑やかになってよろしいではありませんか、安成様」
安成は困ったように眉を下げたが、やがて楽しげに声を立てて笑った。
「分かりました。それでは三人とも、そこへ座ってください。まずは、もっとも基本となる『足し算』と『引き算』から、じっくりと進めましょう」
図らずも、瀬戸内を揺るがす若き俊英たちを同時に導くことになった安成。晩秋の大三島の少し冷たい風が、文字の書かれた紙を優しく揺らしていた。




