第十九話 若き狼再び
「おい、越智殿! これを使え!」
湯築城下の賑わう坂道。民たちが怯えて遠巻きに見守る中、村上武吉は腰の帯から予備の木刀を抜くと、安成に向けて無造作に放り投げた。
回転しながら飛んできたそれを、安成は慌てて両手で受け止める。ずしりと手に残る堅木の重みが、あの日、瓢箪島の砂浜で対峙した時の記憶を鮮烈に呼び覚ました。
「この前は油断して不覚を取ったが、此度は俺が勝つ!!」
武吉はバッと己の木刀を構え、ギラギラとした狼の目で航を睨みつける。
大祝安房が「これ、武吉殿、城下で何たる狼藉を――」と割って入ろうとしたが、安成は静かにそれを手で制した。
「分かりました、武吉殿。お相手しましょう」
安成は、受け止めた木刀の重さを手のひらで確かめると、ゆっくりと片足を一歩引いた。
あの時、瓢箪島の砂浜で感じた嫌な喉の渇きはない。かつて震えていた手も、今は驚くほど自然に木刀の柄に馴染んでいる。
深く、長く、腹の底に溜まった空気を吐き出す。ただ、目の前で敵意を燃やす少年の双眸だけを視界に捉え、木刀を正眼に持ち上げた。剣先は、寸分のブレもなく武吉の喉元を指している。
「へっ、相変わらず構えだけは一丁前じゃな。その澄ましたツラを叩き割ってやるわ!」
武吉の身体が弾かれたように地を蹴った。上段からの容赦のない一撃。
――ガツン!
激しい衝撃が腕を抜ける。安成はじっと耐え、武吉の打ち込みを最低限の動きで受け流した。
頭のどこかで、あの老人の言葉が響いている。
(焦らずじっと待て。潮目が変わるのを見逃すな……)
じっと機を待つが、あの時のように目を眩ませる劇的な太陽の逆光のような奇跡は何も起こらない。ただ、風を切り裂く武吉の猛攻が続くだけだ。
「オラァッ! 防いでばかりで勝てるかよ!」
武吉の木刀が斜め下から激しく跳ね上がる。安成は半歩後ろへ下がり躱す。
――ヒュン!
武吉の木刀が顎先を掠める。
(今のは危なかった………いや、違う。見えているのか?)
武吉の衣服の擦れる音、肩の上下、視線の動き。それが、次に放たれる一手の強烈な「予兆」として、安成の脳内に直接流れ込んでくる。
確かに武吉の一撃は重く、気迫も桁違いだ。だが、その剣筋は圧倒的に荒かった。
――ガキン! ガンッ!
「くそっ! なんで当たらねぇ! 待ちやがれ!」
――ヒュン!
一向に決定打を入れられず、最小限の動きで防がれ続ける武吉の剣が、目に見えて焦りで雑になっていく。
(……大振りだ。狙う場所が、打つ前に全部わかる)
(武吉の剣筋はこんなにも荒かったのか?前はもっと凄かったような……)
かつて、恐怖と混乱に支配された安成の瞳は、苦難を越え迷いを捨てたことで、正確に武吉の動きを捉えていた。
全身を大きくひねって力任せに薙いでくる武吉の我流は、安成の目には隙だらけの「的」にしか見えなかった。
「チョロチョロと……、逃げんじゃねぇッ!」
(もっと熱くなれ……。頭に血が上れば上るほど)
安成は冷静に、その瞬間を狙っていた。
「これで、終わりじゃあッ!!」
完全に頭に血が上った武吉が、木刀を大きく振りかぶった。ガラ空きの胸元。その大きな予備動作を、安成の瞳が完璧に捉えた。
安成は、ただ振り下ろされる木刀の軌道へ、己の木刀を斜めに置いた。
――ビュン!
激しい風切り音と共に、武吉の木刀が安成の木刀を滑り、虚空を切り裂く。全力の体重を乗せていた武吉は、手応えを完全に失い、下り坂の勢いのまま前方へと激しく突っ伏しそうになった。
(危ない――)
安成は反射的に腕を伸ばし、倒れ込む武吉の身体を正面からガシッと抱き止めた。そのまま坂道の慣性を足元で吸収し、ぐっと踏み止まって、武吉の身体を優しく上へと引き起こす。
「……っ!?」
周囲で見守っていた安房や民たちが、一斉に息を呑んだ。
彼らの目には、武吉の攻撃を容易くいなし、軽くあしらうかのような達人の所業に映っていた。
あまりの圧倒的な「余裕」と「慈悲」の前に、静まり返る城下。
腕の中で、武吉は狐につままれたような顔で安成を見上げていた。やがて、自分が完全に手玉に取られていたことを理解すると、悔しさに顔を歪め、地面に落ちた木刀を忌々しそうに蹴り飛ばした。
「クソッ……! なんで、なんで勝てねぇんだよ! お前、瓢箪島の後、どんだけ化け物になったんだ!」
「化け物だなんて、とんでもない。武吉殿は、気持ちが真っ直ぐで読みやすかったんですよ」
安成は息を整えながら、苦笑して自分の木刀を拾い上げた。
「顔や体が、次に何をしようか、全部教えてくれていました。足の動きや肩の傾きが、全部『次の一手』の予備動作になっていたんです。もっと小さく、真っ直ぐ打たねば」
「あ、足の……? 予備動作……?」
武吉がぐうの音も出ず、顔を真っ赤にしてへたり込んだその時、坂の上から楽しげな太い笑い声が降ってきた。
「ワハハハ! 実に見事な眼力よ。さすがは越智安成殿だな」
能島村上水軍の当主、村上義雅であった。
「ち、親父……っ」
気まずそうに顔を伏せる武吉の前に、義雅が歩み寄る。そして、我が子を見下ろして呆れたように息を吐いた。
「少しは大人しくなったと思っておったが、相変わらず頭に血が上ると周りが見えなくなる。瓢箪島での敗北から、何も学んでおらんようだな」
「うるせぇ親父! 今日はたまま調子が悪かったんじゃ!」
武吉が必死に口を尖らせて言い返す。だが、義雅の目が一瞬で据わった。
「お前は、戦場で調子が悪かったからと、敵に『今の無し』だと命乞いをするんか? そんな首は、一瞬で撥ねられるわ」
「う、ぐぬぬ……っ」
正論で叩き伏せられ、ぐうの音も出ずに小さくなる武吉。その二人の、遠慮のない、だが確かな血の繋がりを感じさせる怒号の掛け合いを、安成は一歩引いたところで見つめていた。
(……なんだろう、懐かしいな)
胸の奥が、じんわりと温かいもので満たされていく。どこか、酷く懐かしい。戦国時代の海賊の親子。自分の生きた現代とは何もかもが違うはずなのに、説教をする父親と、それに反発しながらも頭の上がらない息子の姿が、かつての自分の日常に、あまりにも鮮やかに重なった。
実家に残してきた家族の風景が、時空を超えて目の前に現れたような錯覚に、安成は小さく目を細めた。
そんな安成の心境を知る由もなく、義雅は満足げに頷くと、とんでもない提案を投げかけてきた。
「そうじゃ、越智殿。……どうだろう、お主のところで、この仕様の無いこやつを鍛えてやってはくれんか?」
「え?」
安成の郷愁の念が一瞬で消し飛んだ。
「これでも能島の跡取り。頭に血が上る悪癖さえ直れば、少しは使い物になるはず。煮るなり焼くなり好きにして構わん。大三島へ連れて帰り、厳しくしごいてやってくれ」
「おい、親父! 何勝手に決めてんだよ! 俺は――」
「黙れ、敗れた者に、有無など言わせん!」
義雅の一喝に、武吉は再び縮こまった。安成は木刀を持ったまま、呆然と天を仰いだ。
大内の脅威を前に結束を命じられた評定の直後、まさか自分の元に、あの「瀬戸内の覇者」の卵が押し付けられることになるとは。
(……は? 鍛えるって、俺が?……勘弁してくれ、大三島に連れて帰ったら、鶴姫がどんな顔をするか……)
瀬戸内の潮目は、安成のあずかり知らぬところで、また妙な方向へと変わり始めていた。




