第十七話 大三島の初穂と二人の秘密
大内勢を打ち破った船団が、勝利の勝ち鬨と共に大三島へ帰還して数日。島はにわかに、戦の緊張とは異なる熱気に包まれていた。
秋晴れの空の下、大山祇神社の参道にはささやかな露店が軒を連ね、港を埋め尽くした参拝船からはひっきりなしに人が降りてくる。
香ばしい焼き餅の匂いと、子供たちの弾んだ歓声。戦乱の最中とはいえ、五穀豊穣を祝い、疫病を払う大祭の活気は、境内の隅々にまで満ち満ちていた。
賑わう境内の端を、越智安成は静かに歩いていた。
すれ違う島民に声をかけられるたび、安成はいつも通り、穏やかな笑みを返して頷く。だが、その笑みが消えた瞬間、彼の視線はふっと自分の足下へと落ち、それから遠くの空へと彷徨った。無意識に強く握りしめられた拳が、微かに震えている。
普段よりわずかに遅い、迷うような彼の足取り。声をかけられた瞬間に一呼吸遅れて作られる、どこか引き攣ったような優しい微笑み。それが消えた後に残る、押し潰されそうなほど暗い瞳。
平静を装おうとすればするほど、遠くから安成を見つめる鶴姫の目にたまらなく痛々しく映った。
「越智様、ほら、あちらで一人角力が始まりますで」
いつの間にか隣にいた源爺が声をかける。
安成は人だかりの向こう、お囃子の鳴り響く神前にしつらえられた土俵へと視線を移した。
しめ縄が張られた真新しい土俵の上に立っているのは、一人の屈強な力士、番頭の庄助だけである。
「こなた稲の精霊――、かたや、一力山――!」
安舎が務める行司の格式高い呼び出しの声が響き、庄助が虚空に向かって激しくぶつかっていった。
目に見えぬ「稲の精霊」を相手に、額から汗を飛び散らせ、必死に足を踏ん張る庄助。押しつ押されつの大熱戦に、周りを囲む島民たちから地鳴りのような歓声が上がる。
「がんばれ、一力山! 負けるな!」
「精霊様、手強いぞ! 今年も大豊作にしてくれよ!」
やがて、力士が豪快に土俵際でひっくり返ると、境内は割れんばかりの拍手と笑い声に包まれた。
神が勝つことで大豊作が約束される目出度い神事。その傍らでは、お囃子の笛や太鼓に乗せて、荒々しくも美しい獅子舞が舞い踊り、秋の境内をいっそう賑やかに盛り上げていた。
その時、神事を終えた一団の中から、厳かな足音が近づいてきた。
安成は思わず息を呑んだ。
そこにいたのは、いつもの大薙刀を携えた武者姿の鶴姫ではなかった。
初穂を刈り取る神事に奉仕するため、清らかな白い絹に緋色の袴をまとった、巫女の姿だった。髪は丁寧に後ろで結われ、澄んだ秋空のような清廉な気品を放っている。歩くたびに、髪飾りの鈴がチリン、チリンと、戦場のそれとは違う、穏やかで優しい音色を奏でていた。
「どうされました、安成様。そんなに私の顔に何かついていますか?」
鶴姫が悪戯っぽく微笑むと、安成は慌てて首を振った。
「いや……あまりに綺麗で、見惚れていた」
「もう、からかわないでください。さあ、行きましょう」
鶴姫は安成の袖をそっと引き、賑わう境内へと彼を連れ出した。
巫女姿の鶴姫が歩くと、島民たちが次々と嬉しそうに顔を綻ばせ、手を合わせて声をかけてくる。
「鶴姫様。 刈り取られた初穂、まことに見事じゃったのぉ」
「この度の戦も、大祝の神仏のお守りと、鶴姫様たちのおかげで島が守られましたわい。本当にありがたいことじゃ」
「姫様、うちの子も、お祭りの焼き餅を食べて、こんなに元気に笑うとります」
小さな子供を抱えた母親が、深く頭を下げる。子供は無邪気に笑いながら、鶴姫の緋袴の裾に触ろうとしていた。
鶴姫は優しく屈み込み、子供の頬を撫でて、島民たち一人ひとりに「お祭りを存分にお楽しみ下さい」と、温かい言葉を返していく。
島民たちの顔には、大軍に怯える影など微塵もなかった。そこにあるのは、ただ平穏に生き、神に感謝し、家族と笑い合う、どこまでも純朴で幸せな人々の日常そのものだった。
鶴姫は島民たちに一礼して別れると、安成を少し人気の無い、神社の古い大楠の木陰へと誘った。
木漏れ日が、鶴姫の白い巫女服に柔らかな斑模様を落としている。
鶴姫は、境内の喧騒と笑い声に包まれる島民たちを静かに見つめ、それから安成の方を振り返った。その瞳には、並々ならぬ強い意志が宿っていた。
「安成様。この光景を、この人たちを見てください。……これが、あなたが守ったものです」
安成の胸が、どきりと跳ねた。
「私は、戦なんて嫌いです。痛ましく、虚しく、血の匂いしかしない戦など、本当は誰よりも嫌いです。……ですが、私は自分の大切にしているものは、手の届く限り、たとえすべてを犠牲にしてでも守りたいって、そう思っているのです」
鶴姫は一歩、安成に近づいた。彼女の頭の鈴が、かすかに震えて切ない音を立てる。
「その守りたいものの中に……安成様、あなたもいるのですよ」
「鶴姫……」
「安成様。大三島を、私の、私たちの何よりも大切なものを守ってくださり……本当に、ありがとうございました」
鶴姫は、深く、心を込めて安成に一礼した。
その言葉が、その澄んだ声が、安成の凍りついていた心の奥底を、優しく、包み込むように溶かしていった。
自分の犯した罪の重さにばかり目を向けていた。だが、自分の引いたあの冷徹な線は、この目の前で笑い合っている母親と子供を、必死に一力山を応援している老人たちを、そして、誰よりも大切なこの少女を、確かに大内の脅威から救い出したのだ。
安成の心に、じんわりと温かいものが広がり、肩の荷がふっと軽くなるのを感じた。
耐えかねたように、安成の目から、今度は拒むことのない、温かい涙が一筋、頬を伝って流れ落ちた。
それを見た鶴姫は、困ったように、けれど愛おしさを隠せない様子でふんわりと微笑んだ。
「……安成様は、幼い頃みたいに、何だか泣き虫になられましたね」
鶴姫は周囲を素早く見回すと、悪戯な笑みを深めた。
「大三島の誰もが頼りにする軍師様が泣いているなんて、誰かに見られたら大変です」
言うが早いか、鶴姫は白い袖を大きく広げ、安成の身体を、その頭を優しくがばっと胸の中に抱きかかえた。
ふわりと、神聖な香の香りと、彼女自身の温もりが安成を包み込む。耳元で、鈴の音が優しく囁くように響いた。
「――私達だけの、秘密ですね」
遠くからは、まだ賑やかなお囃子と島民たちの幸せそうな笑い声が聞こえてくる。その木漏れ日の下で、安成は鶴姫の温もりの中で、今度は静かに、救われたように微笑むのだった。




