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凪の鈴音〜大三島、悠久の誓い〜  作者: nyancos


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第十六話 赤き潮流

 久田子水道の狭隘な海域は、大内勢にとって死の罠と化していた。


 座礁した前衛の船が引き潮の激流につっかえ、後続の船がそこに次々と衝突する。身動きの取れなくなった大軍の背後を、大祝安房率いる大三島水軍が完全に塞いでいた。


「放てっ! 敵を一人として生きて返すな! 焼き尽くせ!」


 安房の鋭い怒号とともに、大三島水軍の関船から放たれた無数の火矢と焙烙玉が、密集する大内の船団へ容赦なく降り注ぐ。爆音とともに激しい炎が帆を焼き、甲板を舐め尽くした。


 不意を突かれ、逃げ場を失った大内勢は完全な恐慌状態に陥っていた。


「おのれ、大三島水軍め……! この白井房胤が、これほどの手際で謀られるとは……!」


 本陣の安宅船で激昂する房胤だったが、すでに戦線の統制は完全に崩壊していた。この狭い水道で乱戦を続ければ、全軍が共倒れになるのは火を見るより明らかだった。


「身動きの取れる船は即座に反転せよ! 一旦、怒和島の北まで退くぞ!」


 房胤は苦渋の決断を下し、撤退を命じた。しかし、猛烈な引き潮に逆らって巨船を後退させるのは容易ではない。


 ある船は潮流に押し流されて再び岩礁に激突し、ある船は仲間の船と激突して沈没していった。


「くっ、これまでか、大三島水軍め、この屈辱、必ずや返してやるわ!」


 命からがら久田子水道から脱出できた大内の船は、最初の半数にも満たなかった。


 総大将が退却したことで、水道内に残された大内勢の運命は、決定的なものとなった。指揮官を失い、完全に孤立した軍勢の最後は、凄惨を極める一方的な掃討戦へと変わっていく。


「逃がすかよぉ! どさくさに紛れて逃げようたって、この権左様の目は誤魔化せねぇぞ!」


 大三島水軍の突撃船の舳先に立った権左が、血気盛んに太い腕を振り回した。


「野郎ども、敵の船を引き寄せろ!」


「応ッ!!」


 水主たちが一斉に長柄の熊手を突き出し、炎上して速度の落ちた大内の関船や小早の船べりへと引っ掛けた。ガリガリと木胴が擦れ合う鈍い音が響き、船と船が強制的に結合される。


「よし、乗り込めぇッ! 大三島水軍の意地を見せてやれぇ!我らには大山積大神がついておられるぞぉ!」


 権左を先頭に、大三島水軍の兵たちが雄叫びを上げて敵船へと飛び移った。


 対する大内の兵たちは、すでに煙に巻かれ、座礁の恐怖に怯えて武器を握る手すら震えている。


「ひ、引き潮が……! 船が沈む、助けてくれ!」


「構うな、大内の山猿どもめ! 瀬戸内の海を荒らした罰だ、神妙にしろ!」


 喜平が冷徹な手つきで長剣を振るい、命乞いをする敵兵を次々と一刀の下に伏せていく。


 さらに別の船では、大三島水軍でも一、二を争う巨漢の古参番頭、庄助が、大太刀を振り回して敵兵を小早もろとも粉砕していた。


「ガハハハハ! どうした大内の兵ども! 陸の上じゃあ強くとも、この揺れる板の上じゃ赤子同然じゃなぁ!」


「ひえっ、化け物め! くるな、撃て、矢を撃て!」


「そんな鈍い矢なんぞ当たりゃあせんわ!」


 庄助の横から飛び出したのは、身軽な若手番頭の新太だった。


 新太は敵船の放った矢をかいくぐり、猿のような俊敏さで敵の関船の帆綱を駆け上がる。


「大将首はどこじゃあ! 逃げる奴ぁ背中から叩き斬っちゃらぁ!」


 新太が上空から飛び降りざまに敵の指揮官を組み伏せると、大三島の兵たちの士気はさらに沸騰した。


 また、後方から関船を指揮する冷静沈着な熟練番頭、鉄次が、的確な指示を飛ばして敵の退路を完全に潰していく。


「庄助、深追いすんじゃねぇ! 右の隠れ根に追い込め! 新太ァ、敵の舵取りを狙って矢を射掛けれぇ! 潮が引ききる前に、動けねぇ大船をみな片付けんだぁ!」


「おうよ、鉄次の叔父貴! 任せとけぇ!」


 大三島の猛将たちの波状攻撃に、恐慌状態の大内勢はなされるがままに討ち取られていく。

 戦意を喪失し、海へ飛び込んだ兵たちも、久田子水道の容赦ない激流と無数の隠れ岩礁に巻き込まれ、次々と海の藻屑となっていった。


 美しい紺碧を誇る瀬戸内の海が、見る見るうちに重苦しい赤黒い色へと変貌していく。




 遠く、久田子水道の南側。

 激しい揺れが収まった韋駄天小早の甲板から、越智安成は動くこともできず、ただその光景を凝視していた。


 燃え盛る無数の炎。天を衝くような大三島水軍の怒号。そして、それに掻き消されていく、数え切れない人間の絶叫と悲鳴。


(……俺が、言ったことで……)


 安成は自分の両手を見つめた。何も汚れてはいない。血の一滴すらついていない。しかし、その掌の向こう側で、今この瞬間にも何百、何千という命が消えていっている。


(あんなに多くの人たちが、死んでいく……)


 周囲の兵たちが「大勝利だ!」と抱き合い、お祭り騒ぎのように高揚している声が、不思議と遠く聞こえた。まるで世界の音が遮断されたかのように、安成の耳には、心臓が早鐘のように打つ音だけが響いている。


 胸を、尋常ならざる力で強く締め付けられるような激しい痛みが襲う。

 彼らにも、故郷に待つ家族がいるはずだ。愛する者がいて、平穏な生活があったはずだ。それを、自分のひと言がすべてを無慈悲に奪い去った。その事実の重みと恐ろしさに、安成は全身の震えを止めることができなかった。


「安成様!」


 背後から、鈴の音とともに弾んだ声がした。


 大薙刀を握り直した鶴姫が、頬を紅潮させ、興奮気味に駆け寄ってくる。


「我らの大勝利です! 忽那水軍の窮地を救い、あの大内の大軍を打ち破りました! すべては、安成様の見事な策のおかげ、で、す……」


 歓喜に満ちていた鶴姫の言葉が、途中で止まった。


 振り返った安成の顔が、あまりにも蒼白で、その瞳が深い絶望に引き裂かれていたからだ。


 安成の目から、大粒の涙が溢れ、一筋頬を伝って甲板へと流れ落ちた。


「……俺は、あんなに多くの人間を……殺してしまった……」


 絞り出すような、掠れた声だった。


 鶴姫は息を呑んだ。安成が抱える巨大な業。


 戦うことでしか生きられない水軍の人間には決して持ち得ない、そのあまりにも脆く、そして尊い心を、彼女は目の当たりにした。


「安成様……」


 鶴姫はためらうことなく一歩踏み出すと、大薙刀を手放し、安成の身体を、その頭をがばっと己の胸の中へと抱き込んだ。


「しかし……多くの民を守ったのも、安成様です。あなたが策を立てねば、忽那の皆が死に、大三島が焼かれ、私たちの民がすべて蹂躙されていました」


 鶴姫は安成の震える肩を、壊れ物を労るように強く、優しく抱きしめ続けた。髪飾りの鈴が、安成の耳元で小さく、子守唄のようにチリンと鳴る。


「安成様……どうか自分を責めないで……その痛みを鶴にも分けて下さい」


 周囲では、戦いの終わりを告げる凄まじい勝ち鬨が五月蝿いほどに響き渡っていた。その狂乱の騒音の中、安成は誰にもその姿を見られることなく、誰にもその声を聞かれることなく、鶴姫の胸の中で、子供のように激しく咽び泣いた。

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