第十四話 激流の先導者
久田子水道。それは引き潮の時刻となれば、牙を剥いた白波が渦巻き、海面下に無数の隠れ根が潜む、瀬戸内でも有数の海の難所である。
大内勢の包囲を抜けた安成の乗る韋駄天小早は、その地獄の入り口へと躊躇なく突っ込んでいった。
「――おっと、揺れるぞ! 舌を噛まねぇように気をつけな!」
艫で舵を握る源爺の目が、いつになく鋭く光る。
船が潮に乗り、凄まじい速度で加速した。激しい上下の揺れと、横から叩きつけるような波飛沫。甲板にいた安成は、立っていることすらできず、必死の形相で船べりにしがみついた。
「うおわぁっ!? げ、源爺、本当に大丈夫なんだろうな!?」
「越智様、 騒ぐこたぁねぇ。潮の流れを読めば、ここはただの散歩道じゃ」
源爺は飄々とした顔を崩さぬまま、まるで意思を持っているかのように暴れる舵を、神業のような力加減でさばいていく。右へ左へと、小早は波を滑るように走り、目と鼻の先で白波を立てる岩礁をことごとく避けていった。
その船の艫では、大揺れする甲板にしっかりと足を踏ん張った鶴姫と側仕えの妙林が、後続の忽那船団へ向けて腕を激しく振り、必死に指示を出していた。
「忽那の衆! 我らの航跡の、一尺たりとも外を走ってはなりません! ぴったりとついてきなさい!」
「遅れるでないぞ! 命が惜しくば、前だけを見ておれ!」
源爺は煙管をくわえたまま、迫り来る激流をにらみ、振り返り、背後へ向かって笑い飛ばした。
「やるな! ひよっ子が! 儂の船に遅れるでないぞ!」
その後方、必死の形相で追随する関船の甲板から、忽那通光が顔を真っ赤にして怒鳴り返した。
「抜かすな、誰がひよっ子じゃ! この老いぼれめ! 誰が遅れるかよ!」
「親父! 危ねぇ、そこだ! すぐ左に隠れ根があるぞ!」
息子の通乗が、血相を変えて海面を指差した。波の裏に、黒々とした岩の頭がかすかに見えている。
「わかっとるわい! お前ぇは黙って見てろ、通乗!」
通光は意地になって強引に舵をきろうとした。しかし、引き潮の潮流は恐るべき早さで通光の船を横滑りさせ、まさにその隠れ根へと押し流そうとする。
「しまっ――」
通光の顔が凍りついた。その時である。
「忽那の! そこは危ねぇ! 舵を戻せ!」
並走していた韋駄天小早の速度が、一瞬だけ落ちた。と同時に、源爺が電光石火の速さで長柄の熊手を突き出し、忽那の船べりへと引っ掛けた。
「ぬんッ!」
老人のものとは思えぬ剛腕が、引き潮の力に抗って忽那の船首を強引に引き寄せる。
ガガッ、と船底が岩をかすめる不穏な音が響いたが、すんでのところで通光の関船は隠れ根を回避し、激流の主流へと復帰した。
「……ッ!」
あまりの神業に、通乗は言葉を失い、ただただ感嘆の息を漏らした。
「すげぇ………これが『波濤の源次』の力なのか………!」
命を救われた形の通光は、きまずそうにそっぽを向いて悪態をついた。
「……チッ、余計なことを。自力でかわせたわい」
そんな意地の張り合いを乗せながらも、忽那水軍は引き潮の潮流を完璧に味方につけ、驚くべき速さで久田子水道を南下していった。
やがて、荒れ狂っていた波が嘘のように穏やかになり、目の前が開けた。 視線の先には、緑豊かな伊予の陸地がはっきりと、大きく見えている。
「抜けた……。久田子水道を、本当に抜けちまった……」
安成は船べりから手を離し、へたり込みながら安堵の息を吐いた。
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「安房様、物見より報せが。――忽那水軍が動きました。大内の包囲を破り、久田子水道を南下した模様!」
番頭の喜平が、弾んだ声で駆け込んできた。
目を閉じていた大祝安房は、ゆっくりと顔を上げると、その厳格な面持ちに微かな、しかし確かな笑みを浮かべた。
「そうか……。越智殿が、やってくれたか」
安房は立ち上がり、腰の刀の柄に手をかけた。その瞳には、瀬戸内の均衡を揺るがす決戦への覚悟が宿っている。
「ならば、我らも動くとしよう。大内を討つ好機、逃す手はない。――全軍、出陣の支度をせよ!」




