第十二話 久田子水道の賭け
大三島を出陣した大三島水軍の船団が、激しい向かい風を突いて南下すること数刻。
昼すぎ、海霧の向こうに忽那諸島の島影がかすかに見えてくると同時に、ただならぬ地鳴りのような音が安成たちの耳に届き始めた。
それは、無数の木造船が激突し合う軋み音と、天を衝くような鬨の声――すでに大内勢と忽那水軍の戦端は、苛烈に開かれていた。
忽那水軍は、怒和島の北側海域で大内勢と相対していた。しかし、その戦況は一瞥しただけで素人目にも最悪だと分かった。
大内の先陣が鶴翼の陣を敷き、忽那水軍の小早どもをじわじわと包囲しつつあったのだ。このままでは退路を断たれ、数の暴力に圧殺されてしまう。
「な、何ということだ……」
陣代たる安房は、関船の甲板で思わず絶句した。水平線を埋め尽くす大内勢の戦船の数は、伝令から聞いていた予測を遥かに上回っていた。大内氏の宿老・白井房胤の本気度が、その圧倒的な鉄の規律と船の数に表れている。
「このままでは、忽那水軍が押し潰されてしまうぞ……!」
安房の苦渋に満ちた声とともに、本陣である関船の船上で、急ぎ軍議が開かれた。広げられた海図を囲み、番頭たちが血気盛んに声を荒らげる。
「陣代、このまま指をくわえて見てるわけにはいかねえ。勢いのまま大内勢の横腹を突いてやりましょうや!」
太い腕を振り回して気炎を吐く権左の頭に、老練な源爺がすかさず煙管を叩きつけた。
「馬鹿者。あの数にただ正面からぶつかれば、我らとてひとたまりもなく海の藻屑じゃわい!」
「痛ぇ……んだと、源爺!じゃあ見殺しにしろってのか!」
「やれやれ、これだから権左は。少しは頭を使え」
喜平が冷ややかに溜息をつくと、権左の顔が怒りで真っ赤に染まる。
「何だと喜平、てめえ」
「やかましいッ!!」
安房の一喝が響き、番頭たちが一瞬で口を閉ざした。緊迫した沈黙が流れる中、海図をじっと見つめていた安成が、ぽつりと呟いた。
「……このままでは多勢に無勢だ。使者を出して、忽那水軍を一度この海域から退かせよう」
安成の言葉に、全員の視線が集まる。安成は迷いのない手つきで、海図のある一点を指差した。
「ここへ逃げ込むんだ。あの大軍では一度に通れないだろ」
「久田子水道……だと?」
安房が眉を寄せ、険しい表情で海図を覗き込む。すかさず源爺が首を横に振った。
「越智様、そこは無理じゃ。久田子水道は今、ちょうど引き潮じゃ。恐ろしく潮が速い上に、隠れ岩礁が無数に転がっておる。いくら地の利がある忽那水軍とて、この激流を容易には通れん。全滅の恐れがありますぞ」
一同がそうだとばかりに頷く。
「そうか…………源爺が先導するとしても、やはり無理か…………」
安成がまっすぐに源爺の濁りのない眼光を見つめ返すと、一瞬の静寂の後、老頭領の口元がニヤリと歪んだ。
「――ほぉーーぅ、面白いことを言いなさる、越智様。儂を誰だと思っておられる。この瀬戸を遊び場に育った生粋の船頭よ。あの程度の難所、儂の舵さばきにかかれば造作もないわい!」
「よし、決まりだ。ならば忽那水軍のもとへ、俺が直接使者として行こう。源爺、船の伴をしてくれないか」
「良かろ、この老骨、越智様に預けるわい」
「お待ちください。安成様が行くなら、私も参ります」
それまで静かに闘志を燃やしていた鶴姫が、胸の鈴を高く鳴らして一歩前に出た。
「鶴姫、そなたは残れ。敵の矢面に立つ、極めて危険な役目なのだぞ」
安房が止めようとするが、鶴姫は凛とした笑みを浮かべて大薙刀を突き立てた。
「大丈夫です。 弓馬の道も船戦も、私は安成様より遥かに腕が立ちます。 それに、大祝の血を引く私が直接向かえば、疑り深い忽那水軍の頭領とて、必ずや一歩も引かずにこちらの言うことを聞くでしょう」
その言葉には、確かな説得力と一歩も退かぬ覚悟があった。安成と鶴姫の視線が交差する。安成が深く頷くのを見て、安房はついに折れた。
「……わかった。越智殿、鶴姫を頼む」
「承知しました。――それと、安房様。もし忽那水軍が久田子水道へ向かいましたら……その時は―――――お願いします」
安成が耳打ちした次なる一手を聞き、安房は目を丸くしたが、やがて不敵な笑みを浮かべて応じた。
「ふん、面白い。相分かった。お主の言う通りにやってみよう。全軍、これより軍師・越智安成殿の策に従い、動くぞ」
「「「応!!」」」
番頭たちの咆哮が響く。安成、鶴姫、そして源爺は、大三島水軍自慢の快速船・韋駄天小早へと飛び乗った。
「出すぞ、しっかり捕まっておれ」
源爺の怒号とともに、小早は矢のような速さで、大内の大船団が渦巻く、死地たる怒和島の海へと突き進んでいった。




