白昼夢
あの少年は──幻ではない。幽霊でもない。晴れの日にレインコートを着て、ひとりで電車に乗っていく。まぎれもなく、この世に存在する男の子だ。バス停の待合室で遭遇して以降、やっと姿を見かけることができたが、謎は深まるいっぽうだった。
週明けの午後、昼休憩から次の授業のあいだ、空き時間が発生した湯村は、定位置の席にすわるとトートバッグを枕にして仮眠をとった。なにかとさわがしい構内をうろつくより、からだを息めていると、水島と星野の話し声がきこえた。
ねえ、水島くんって、いつからメガネなの? ……小学四年くらいのときかな。そんなに早くから、目が悪かったんだ。コンタクトレンズにはしないの? とくに興味なし。目玉にレンズとか無理っぽい。……そっかぁ残念。なにが残念なんだ。だって、もったいないから。メガネ代が? ちがうちがう、水島くんはメガネをかけないほうが、カッコいいと思う。……そんなこと云われたのはじめてだな。みんな、見る目がないね。ははっ、サンキュー。ねえ、ちょっとはずしてみてよ。ふたりきりのときに、はずしてやるよ。なにを? メガネだろ。……あのね、水島くんになら、ブラジャーをはずされてもいいよ(こそっと耳打ちをする)。……星野? ねえ、こんど、わたしのウチに遊びにこない? このまえ休んだ授業のノート、見せてあげる。ノートなら、湯村にコピーしてもらったから。湯村くんに? ああ。……ふうん、そうなんだ。
たわいもない会話だが、水島が湯村の名前を口にした途端、星野の声は低くなった。むだに甲高い声をだされるより、だいぶマシではあるが、星野の恋路をさまたげてしまった気分になり、どうにもおちつかない。自宅に誘われた意味を理解していないのか、水島は流行の鼻唄を歌っている。女子学生のチャレンジ精神は見事なのに、恋人候補が鈍感では進展は期待できない。星野は「はぁ……」とため息を吐いた。寝たふりで気力を消耗した湯村は、よけいに疲れてしまって、午後の授業には集中できずに終わった。
帰宅してすぐシャワーを浴びた湯村は、ルームウエアに着がえて夕食をすませると、二階の部屋にこもり、トートバッグのなかからフルーツ牛乳と切符を取りだした。サークル活動の件は、いまだに悩んでいる。
「……あの子は、誰なんだろう。……学校は行ってるのかな」
電車をつかって移動する姿を見かけた以上、男の子の存在は神出鬼没ではなくなった。鷹尾のときのように、駅で待ちぶせすれば、そのうち逢えるはずだ。顔をあわせたところで、かけることばは思いつかない。湯村は聞き手であればいい。そもそも、退屈というよりは、窮屈に感じる日々を過ごしてきた湯村に、談笑ほど神経がすり減るものはない。好きなひとができるたび、遠くから見つめるだけで満足した。けっして、声はかけない。それが、本人を含め、周囲に迷惑をかけずにすむ方法だと思いこんでいた。
おい、湯村。おまえさ、最近◯◯のことよく見てるよな。──え? まさか無自覚かよ。だとしても、やめたほうがいいぜ。このあいだ、湯村の視線が気持ち悪いって云ってたからサ。……ご、ごめん。なんでおれにあやまるンだよ。◯◯に云ってやれば。……う、うん。おっ、ちょうど来た来た。おーい、◯◯! 湯村のやつ、おまえに話があるってよ。なんだよ、湯村。お、おはよう……。はよ。で、なに? ──その、ごめんなさい。なにが? えっと……。おはよー、◯◯くん! ねぇねぇ、ちょっとこっち来てー(女子生徒の明るい声) 今いく。じゃあな。……う、うん……。あ~あ、行っちゃった。まあ、次から気をつけろよ。──うん。
好きになったひとはクラスの人気者で、いつも女子生徒から声がかかった。その他大勢の視線のなかに湯村も含まれていたが、ひとりだけ名指しで除外されてしまい、今すぐ早退したいくらいショックを受けた。次の日、ほんとうに熱をだして学校を休んだ。
「なんでこんなこと、思いだしたんだろう……」
湯村のからだのなかに、ぽっかりとした孔がある。すきま風がとおり抜けるたび、悪寒を感じて身じろいだ。
「湯村、だいじょうぶか。顔がまっ青だぞ」
昼食のあと、教室でぼんやりしていた湯村は、定位置の席ではなく、窓辺にたたずんでいた。夜、布団で眠りについたところまではおぼえている。しかし、朝から現在にいたる過程はあいまいで、気がつけば大学にいて、となりには水島が立っていた。
「……あ……れ……」
「おっと、危ない」
めまいがして倒れそうになると、水島の腕が背なかを支えた。近くの椅子に誘導されて腰をおろすと、「具合が悪いのか」と体調を確認された湯村は、「平気」とこたえた。
「平気って顔には見えないけど」
「……ぼく、どんな顔してる?」
「消えそうな感じ」
「消えないよ」
「たとえ話だろ。ほんとうにだいじょうぶなんだな?」
「……うん、だいじょうぶ」
水島は、床に落ちているトートバッグを拾いあげ、湯村のわきへ置いた。少しさきに転がっているフルーツ牛乳を見つけ、それも拾って差しだした。
「ありがとう」
「持ち歩くほど好きなんだな、フルーツ牛乳」
「うん。水島だって、好きなものはそばに置いておきたいだろう?」
「まあな」
といって、なぜか水島は真剣な表情に変わる。苦々しく思い起こされた過去は、湯村の思考を停止させる。水島の手が太もものうえに置かれた感覚だけははっきりとして、困惑の表情を浮かべた。
「湯村は知りたくないだろうと思うけど、おれ……」
なにかを云いかけて星野に呼ばれた水島は、「つづきはあとで話すよ」と、笑って見せた。
✦つづく




