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 奥座敷の空気は、今しがたまでの酒脱な雰囲気から一変し、肌を刺すような緊張感に支配された。行灯の火がパチリと爆ぜ、揺らめく影が二人の男の顔を交互に照らし出す。

 「若・・・、お手を引きなされ。」

 金四郎の口から漏れた声は低く、地鳴りのようだった。彼は手にした猪口をゆっくりと卓に置くと、遊び人・金五郎の崩れた座り方を正し、無造作に寛げていた着物の襟を合わせた。その瞬間、彼の背負う「北町奉行」という巨大な公権力の威厳、そしてそれ以上に、ある一族の「影」として生きてきた男の重みが、狭い座敷を埋め尽くした。

 「ここからは町方にお任せいただき、お手を引きなされ。この『佐葦の露』とやら、その香りの深淵には、市井の小悪党では到底扱いきれぬ、巨大な闇の力が渦巻いている。これ以上踏み込めば、貴方様の御身もただでは済みませぬ。万が一のことがあれば、私はこの首を差し出しても、あのお方へ申し開きが立ちませぬ。」

 ――この一件から手を引け。この言葉は部外者に対するただの権勢ではない。ある者の行く末を案じて言っている。

 凌庵の背後にある、口にすることさえ禁じられた「至高の血筋」を引く者だ。

 ――その昔、雲上の住人たる最高位の貴顕と、側近くに仕える一人の侍女との間に、決して許されぬ情愛が芽生えた。身分という絶対的な壁を越えて結ばれた二人の間に、一人の男児が生を受ける。しかし、その誕生は祝福されるべきものではなく、泰平の世という巨大な秩序を揺るがしかねない「不都合な真実」として扱われた。もしこの子が「正統な血」の一端として認められれば、いよいよ軋み始めた日の本の国を支える屋台骨が真っ二つに割れ、惨劇が繰り返されることは火を見るより明らかであった。この所在は固く隠匿され、権力とは全く関係の無い場所で育てられた。だが、その「禁忌の御曹司」が存在する限り、残酷な運命は存在し続けている。金四郎が懸念しているのはこれだ。

 しかし、凌庵はその威圧を真っ向から受け止め、微塵も動じなかった。彼は静かに、しかし鋼のような意志を込めて、自らの白く細い指先を見つめる。

 「金さん・・・いや、景元。其方の懸念はもっともだ。だが、俺のこの手は、高貴な衣を纏うためにあるのではない。病を診て、死者の無念を拾い上げる為にこそある。」

 凌庵の声には、生まれながらの天賦の気品と、それを自ら泥に塗れさせようとする凄絶な覚悟が同居していた。

 「この香り水と悪行に毒され、虚飾の夢に狂わされたおはつは、死してなおその魂を冥府へ連れて行けずにいる。医者である以上、この街を蝕む病の源を見過ごし、安全な場所で耳を塞いでいることなど出来ぬ。もしも、俺の流れる血がそれを許さぬというのなら、自身の肉を切り裂いてでもその血を全て捨て、ただの野良医者として地獄の果てまで追いかける覚悟だ。」

 金四郎は、凌庵の瞳の奥に宿る「不滅の光」を見た。それは、いかなる権力をもってしても、決して屈服させることのできない誇り高き魂の輝きだった。

 「・・・貴方様には敵いませぬな。周りから何と言われようと、己が考えを曲げずに貫き通すその頑固な気性は、正にあのお方に瓜二つだ。」

  金四郎はふっと肩の力を抜き、再び「遊び人の金五郎」の顔に戻って苦笑した。彼は懐から取り出した扇子でパシッと己の膝を叩き、観念したように息を吐いた。

 「承知仕った。ただし、此方も無茶は承知で申し上げます。危ういと思えば、すぐにこの金さんを頼りなされ。それから、新太郎や仁吉を頼りなされ。あいつらも、貴方様のためなら火の中水の中だ。・・・江戸の闇を暴く『光』が貴方様一人であっては、この遠山金四郎の名が泣きますからな。」

 「恩に着るよ、金さん。」

 凌庵は静かに笑み、目の前の盟友と杯を酌み交わした。

 「兄ちゃん、入ってもいいかえ?」

 襖の向こうからおえんの声が響く。二人は瞬時に「医者」と「遊び人」の顔に戻り、事件の切り札たる「佐葦の露」を薬篭箱の中へ厳重にしまい込んだ。

 「おう、入りなよ」

 おえんと吉兵衛が、瑞々しい湯気を立てる盆を運んで入ってきた。 盆の上には旬の美食が並ぶ。目に鮮やかな紅色の身に、おろし生姜の香りが食欲をそそる初鰹の刺身。さらに琥珀色に輝くそら豆と雲丹の白和え、揚げたての車海老の天麩羅、新仔鰻の半助豆腐と、豪勢な料理が並ぶ。

 「ほお、こいつぁ豪勢だな!」

 「〆には良い浅利が入ったから、深川飯を用意しているからね。」

 「こいつぁ有り難い。」

 金四郎がさっそく鰹の刺身を箸でつまむ。

 「美味い。この初鰹を食うためなら、女房を質に入れてもいいってなァ。まあ、俺には質に入れる女房もいねえがな。」

 「・・・喜んで質に入る女なら、ここにいるんだけどねぇ」

 おえんがポツリと呟く。

 「何か言ったか?」

 「な、何でもないっ!」

 おえんは真っ赤になって顔を伏せ、慌てて酒を注いだ。金四郎はその様子を、全てを察したような微笑ましい面持ちで見つめている。おえんは取り繕うように、ため息混じりに世間話を始めた。

 「でもさ、近頃じゃこの初鰹さえ『贅沢だ』って役人が目を光らせてるんだから、本当に嫌になっちゃう。世の中どうなっちゃうんだろうね。」

 「老中・水野様が進める『天保の改革』か・・・。」

 吉兵衛も真面目な顔で頷く。

 「何かと喧しいですからねぇ。この間久しぶりに寄席に噺を聞きに行ったんですがね、役人の目が怖いのか当たり障りのないことしか言わず、どうにも物足りやせんでした。管良助(かんりょうすけ)一門とも思えねえ、薄っぺらな噺でしたよ。」

 「そうか。あの噺家は歯に衣着せぬ話しぶりが売りだってのになぁ。洒落本や滑稽本もめっきり減った。版元も頭の固え奴ばかりだと言うし、蔦重(つたじゅう)が見たら泣くぜ。」

 金四郎ががっくりと肩を落とす。奢侈禁制の倹約令は、衣類や菓子類だけでなく、人々の心の拠り所である寄席や芝居小屋にまで牙を剥いていた。締め付け政治に縛られ、庶民のストレスは限界に達している。中には、取り締まりを逃れるための袖の下を平然と要求する悪徳役人まで現れる始末だ。

 「解っていないのだろうな。」

 凌庵が静かに口を開いた。

 「娯楽があってこそ、庶民は明日への活力を見出し、生業に精を出すことができる。良い着物を着るため、美味い物を食うため、面白い芝居を見るために、人は一心不乱に働くのだ。それをも商いにする者にとっても、喜んでくれる客があってこその生業。取り締まるということは、江戸の活気そのものを全て否定することなのだと何故気付かねんだ。」

 「流っ石、龍三兄ちゃん! 兄ちゃんみたいな人が人の上に立てば、真っ当に明るくなるんだろうねぇ!」

 おえんが目を輝かせてじゃれ付く。

 「馬鹿を言え、俺など上に立つ器ではないよ。」

 凌庵は苦笑してその手をかわしたが、その一言を聞いた金四郎の表情が、一瞬だけ暗澹たる思考に曇った。

 (もし、本当に若が人の上に立つようなことがあれば、この国はひっくり返るほどの騒動になる・・・・)

 金四郎はその思考を振り払うように、一気に酒を煽った。

 その時、おえんがひくひくと鼻を動かした。

 「ねえ兄ちゃん、さっきから花というか、何だか不自然に変な匂いがするよ?」

 凌庵は、隠すまでもないとおえんの前に例の「佐葦の露」の小瓶を取り出してみせた。

 「これか?人伝に偶然手に入った今噂の香り水だ。欲しいのか?」

 凌庵は瓶を見せる。おえんも年頃、流行の香り水に興味を持っても不思議はない。しかしおえんは瓶に鼻を近づけ、一瞬だけ顔を顰めると即座に首を振った。

 「いらないよ、こんなの。不自然すぎて気味が悪い。大体さァ、女だったらこんな薬で相手を化かす前に、自分の芸や心を磨かなきゃ。魂が磨かれてりゃあ、香りに頼らなくたって人は振り向いてくれるもんさ。」

 粋を誇る辰巳芸者の流れを汲む、おえんならではの言葉だった。者に頼らず己を磨く、上辺ばかりの女も多い昨今おえんの様な女がまだいる。凌庵は嬉しくなり、心底感心したようにおえんの頭を優しく撫でた。

 「おえんは本当に綺麗だよ。身も、心もな。」

 「やっだぁ、龍三兄ちゃんったら! 子ども扱いしないでよ!」

 照れくさそうに身をよじり、凌庵の右肩をパシンと叩くおえんの明るさが、座敷の澱んだ空気を束の間だけ晴らした。


 穏やかな座敷の笑い声をかき消すように、耳をつんざく様な黄色い声が聞こえて来た。

 「おっ、歌之丞様だ!」

 「待ってました、成海屋!」

 「歌様ぁ!」

 和気藹々とした団欒を破るように、外の川面から派手な囃子言葉と喧騒が聞こえてきた。 鶴亀屋の桟橋に一艘の豪華絢爛な屋形船が着き、中から現れたのは、当代随一の女形・中村歌之丞であった。その装束は奢侈禁制などどこ吹く風、極彩色の刺繍が施された贅沢な絹を纏っている。肌は透き通るように白く、なまめかしいその風貌は、遠目には絶世の美女と見紛うほどだ。だが、その瞳の奥には、光を吸い込むような冷酷な虚無が宿っていた。

 「あら、あれって中村歌之丞じゃないかい?」

 「ええ、うちの猪牙船を一艘貸して欲しいとのことでしてね。」

 「へえ、今どき珍しく羽振りがいいんだねぇ。」

 凌庵は居ても立ってもいられなくなり、「ちょいと済まねえ」と離れ座敷を飛び出して桟橋へと向かい、船に乗り込もうとする歌之丞に声をかけた。

 「おや、随分と陰気臭い御人ですが。後にしてくれませんかねえ、お客さんが夢から覚めちまうよ。」

 歌之丞は振り返り、ねっとりとした視線を凌庵に向けた。

 「俺は蘭医の高柳凌庵だ。生前、あんたと関わっていたとされる『おはつ』の検死を請け負ったものだ。」

 「あぁ・・・死骸医者と呼ばれる恐ろしいお方がいると聞いたが、お前さんかえ。それで、あたしに何か?」

 歌之丞の表情が、目に見えて不快そうに歪んでいく。凌庵がおはつの最期について問い詰めると、彼は大袈裟に袖で顔を覆ってみせた。

 「あのお可哀想な娘さん。確かに二三度、私の『夢』にお付き合いいただきましたが、あのような儚い最期を遂げられるとは。一時でも私の芝居で夢を見たのなら、それを糧に長生きしてほしかったものです。」

 一見、慈悲深い嘆きに聞こえる。だが、その声の端々に透けて見えるのは、世間知らずの娘を「金を運んでくる愚かな家畜」としか見ていない、底冷えするような蔑みだった。

 「芝居、か。貴殿の演じる夢のために、彼女は現実を捨てたのだ。」

 凌庵の低い声に、歌之丞は「ふふっ」と薄ら寒い笑みを漏らした。

 「先生、今のご時世は何かと喧しい。聞けばあのおはつさんも、碌でもねえ親に縛られて現実を捨て、夢の中へ逃げようとしたのです。本当ならば歯を食いしばって頑張るべきですがね、それもままならねえと嘆く娘の涙を、あたしがくみ取ってあげただけですよ。」    

 「嘆きの涙・・・。やはりあんた、裏の『夢一芝居』に加担しているな。」

 「悪しきことのように言いなさんな、あたしのやっていることは人助けですよ。」

 歌之丞は慇懃無礼に胸を張る。

 「あれはいけねえ、これは御法度だと騒ぎやがる。夢も希望もない世の中、夢を見せてあげても罪にはならねえでしょう? 今の世の中、夢を見るのも御法度なのですかい?」

 「・・・夢、か。」

 「もう良いですかい? 夢を見たいという患者が待っているんでね。あ~やだやだ、陰気臭い臭いを嗅いじまったよ。」

 歌之丞が再び船へと戻っていく背中から、あの「佐葦の露」の濃密な香りが風に乗って漂ってきた。

 「あんた、随分と良い香りがするな。」

 「何だい? ああ、こいつかえ? 香木とは比べ物にならない逸品さね。あんたみたいな貧乏医者じゃ手に入らないだろうよ。じゃあ、あたしゃ行きますよ。陰間なら他を当たっておくれ、アタシにだって選ぶ権利がありますからね。」

 取り巻き共と高らかに笑いながら、歌之丞は猪牙船に乗り込んだ。その船影が闇に消えていくのを見送りながら、おえんは憤慨して肩を震わせた。

 「何だいあの態度は!龍三兄ちゃんをコケにしやがって、ああいう無駄に着飾った奴にろくな奴はいないよ!あんななまっちろい奴より、龍三兄ちゃんの方がよっぽどいい男だよ!!」

 「おえんちゃん、落ち着け。」

 「さあさ、座敷に戻って飲み直しましょう。

 凌庵はおえんを宥めつつ、吉兵衛と共に座敷に戻りながら「夢一芝居」の背景について情報を集めた。おえんの話によれば、締め付け政治のせいで食い詰めた芸者や役者が裏稼業として荒稼ぎしており、入れ込んだ商家の馬鹿息子が家を潰す例が後を絶たないという。

 「夢一芝居をこれほど流行らせるには、一人の力では不可能だ。土地の興行師や、背後に巨大なタニマチがいるはずだな・・・。」

 凌庵の脳裏の中で、事件のピースがそろい始めていた。頭に事件に関する事がある限り、酒の味はしない様だ。


 「では、おえん、吉兵衛さん、世話になったな。金さんも、あまりのみすぎるんじゃねえよ?」

 「解っているよ。」

 「泊まっていけばいいじゃないか。」

 「そうもいかぬさ、明朝早くに患者が来る。朝帰りなどしようものなら、彩乃殿に何を言われるか解らんからな。」

 「あはは、大変だねぇ。きっとまた来ておくれよ!」

 軽く挨拶を交わした凌庵は、天竜堂を目指して歩き出した。柳橋の喧騒を離れ、隅田川から吹き抜ける涼風を浴びながら、背筋を伸ばして歩く。大川の土手道は静まり返り、対岸の深川方面には点々と夜釣りの篝火が揺れていた。

 ふと、背後に確かな気配を感じ、凌庵は足を止めて振り返った。 そこに立っていたのは、一見、商家の御隠居に扮した佇まいの老爺。しかし、その身から放たれるただならぬ武士の覇気は隠しようもない。将軍の側近にして幕閣のご意見番、本郷丹後守その人であった。

 「方々、探し回りましたぞ。若様。」

 丹後守の声は、凌庵が幼少の頃、幾度となく耳にした厳格な響きを帯びていた。

 「ようやく直々に姿を現したな、爺。」

 「若・・・、何とお痛わしや・・・・。」

 「どこも痛くはないぞ。」

 凌庵は気さくに笑ってみせたが、丹後守の表情は晴れない。

 「如何に御家のためとは言え市井無頼の中に交じって暮らす等、とんでもない事を。」

 「近頃新顔の錠剤屋が天竜堂に来るが、あれも其方の差し金であろう?」

 「何かあっては一大事でございますゆえ。万が一にも貴方様の御身に傷が付けば、この老骨、冥土で御先代様に申し訳が立ちませぬ。」

 丹後守は淡々と、しかし一点の曇りもない忠義の色を浮かべて頭を下げた。凌庵はため息をつき、単刀直入に問いかけた。

 「ところで、直々に現れてまで何の用だ?」

 「・・・御世継様の御容態が、芳しくありませぬ。」

 その一言に、凌庵の酔いは急速に冷めきった。

 「御世継様の周りには、名の在る御典医が集っているはずだ。」

 「藤村玄瑞先生や、本草学者の荻原淳軒(おぎわらじゅんけん)先生が不眠不休で試行錯誤を繰り返しておりますが・・・・、病状は一進一退にございます。」

 凌庵を育てた玄瑞、そして同門の淳軒。江戸の叡智を結集しても手を焼くとなれば、事態は深刻だ。丹後守は一歩歩み寄り、声を極限まで低めて本題を切り出した。

 「若・・・、どうかお戻りください。御世継様が万が一の場合、貴方様が頼りだと・・・兄上様も、そのようにお考えでございます。」

 深々と頭を下げる老臣。「御落胤」という残酷な宿命の鎖が、再び凌庵を絡め取ろうとする。だが、凌庵の答えは最初から決まっていた。彼は鋭く、食い気味に言い放った。

 「お断りだね。俺などが今更出しゃばってどうなる。余計な権力争いの種を蒔くだけだ。江戸の平和を壊したいのか?」

 「しかし、貴方様は正真正銘、あのお方の・・・・。」

 「それ以上は言うな。壁に耳あり、障子に目ありだ。誰が聞いているか解らん。」

 凌庵は静かに、自らの胸元を指し示した。

 「この国の君主は兄上と、その御世継様のみ。俺のような余分な血の入る隙など、どこにも無い。現に俺がかつてあの場所にいたがために、どのような危機が訪れたか、其方とて忘れたわけではあるまい。それに俺は身の丈に合わぬ暮らしは望まん。一介の町医者、高柳凌庵で充分だ。・・・まあ、神田三河町のあの広大な御屋敷を、空き家のままにしておくのは勿体ないとは思うがな。」

 冗談を交えながらも、言葉に込められた不退転の覚悟に丹後守は遂に口を閉ざした。

 「・・・やはり、そうでございますか。正直に申し上げて、若ならそう仰ると思うておりました。 その頑固なまでの清廉さこそ、私が仰ぎ見る若の真髄。この爺、安心いたしました。」

 「俺は天衣無縫に生きながら、この世の中の綻びを繕い、兄上の治世を日陰から支えられればと思っている。兄上の身の回りのことは任せたぞ、爺。きな臭い奴らが多い幕府には、其方のような頑固な盾が必要だ。」

 「承知仕りました。この本郷丹後、天地神明に誓って努めまする。」

去ろうとする丹後守を、凌庵は呼び止めた。

 「待て爺。一つ、お前が付けたあの錠剤屋に調べて欲しいことがある。」

 凌庵は「佐葦の露」、そして「夢一芝居」の背後にいる巨大なタニマチの存在について告げた。町方の手入れが及ばぬ武家や幕閣の「聖域」を洗うには、丹後守が動かす影の力が必要不可欠だった。

内容を聞いた丹後守は、老練な目をギラリと光らせ、重々しく頷いた。

 「承知仕った。必ずやその根を掘り起こしてみせましょう。」

 「あまり根を詰めすぎるなよ、爺。患者としてならいつでも来い。十六文で診てやる。」

 「何を仰います。手前を年寄り扱いしないでくだされ。これしき、まだまだガタは来ておりませぬわ!がっはっは。」

 「ふん、頑固爺め。」

 丹後守の背中が、夜の闇に吸い込まれるように消えていく。残された凌庵は、大川の土手に寄りかかり大きく深呼吸をした。酔いは完全に消え去り、頭は冷徹なほどに冴え渡っている。

 「・・・さてと、引き続き夜風に当たるか。」

 凌庵は鼻歌を混じえながらも、その瞳には死者とおはつの腹の中の命の無念を晴らすための、鋭い 外科医のメスのような光を宿し、天竜堂のある八丁堀へと歩き出した。夜空には、ただ冷ややかに六 月の月が浮かんでいた。

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