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 彩乃と別れ、麹町に着く頃には空は段々と薄暗くなっていった。

 夕闇がさらに深まり、江戸の街々にぽつりぽつりと提灯の火が灯り始める頃。看板には「往診中」の一札を残してきたが、天竜堂をこれ以上長く空けるわけにはいかない。凌庵は藤村彩乃を診療所へと帰し、単身、神田麴町の御用商人・三島屋へと足を向けた。

 三島屋の重厚な門前にたどり着くと、そこでは既に見慣れた二つの影が、店の番頭と激しく火花を散らしていた。二つの影には見覚えがある。新太郎と仁吉だった。

 「何度も申し上げておりますが、旦那様は今誰ともお会いいたしませぬ。どうかお引き取りを。」

 「娘を亡くした心中お察しするが、これも公儀の御役目なのだ。通してもらおう。」

 「町方の御役目というのは、一人娘を失った傷心の親の傷口を、わざわざえぐることでございますか?」

 慇懃無礼に新太郎をせせら笑う番頭の態度に、凌庵は冷ややかな視線を向けた。上が上なら下も下。この番頭の傲慢さこそが、三島屋という大店の冷血な本質を何よりも雄弁に物語っている。

 このままでは乱闘になりかねないと、凌庵はまず仁吉に声を掛けた。

 「おぅ、仁吉に新さんじゃないか。」

 「兄貴!その様子だと、何か面白いもんを嗅ぎ付けてきた口だな?」

 「人を犬みたいに言うな。」

 肩をポンと叩かれ驚いた様子の仁吉が、相手が凌庵であると知りニヤリと笑みを浮かべた。その横では、新太郎が十手の紐を苛立たしげにいじりながら、鋭い眼光を三島屋の奥へと向けている。

 凌庵が苦笑して答えると、新太郎が真面目な顔で一歩踏み出してきた。

 「凌庵先生。あんたの検死で『他殺の線』が出たのは大きい。だが、こっから先は奉行所の仕事だ。あんたの手を煩わさずとも、俺たちの手で調べを付ける。仏の情けでこれ以上首を突っ込むのはよしてくれ。」

 「別に邪魔はしない。俺はただ、医者として伊左衛門殿の体調を見舞いに来ただけだ。」

 凌庵が涼しい顔で往診鞄を掲げてみせると、新太郎と仁吉は顔を見合わせて肩をすくめた。凌庵はただの野次馬ではない。その圧倒的な観察眼と蘭学の知識は、時に頑迷な大店の門をこじ開ける鍵になる。新太郎がそれ以上「帰れ」と強く出られないのは、彼への深い敬意があるからだった。

 「おや、そちらの方は?」

 番頭が怪訝そうに尋ねる。

 「蘭医の高柳凌庵だ。」

 「あぁ、巷で噂の『死骸医者』ですか・・・。その方のような不吉な方の出入りは・・・。」

 「おい、兄貴を疫病神みたいに言うんじゃねえよ!兄貴は三島屋さんの『往診』に来たんだ。娘さんを急に亡くされて、旦那様の胃の腑がひっくり返っちゃいねえか、心配して来てくれたんだよ。なぁ、兄貴?」

 仁吉が鋭く口を挟み、横目で凌庵を見る。

 「旦那様が心労で倒れられては、御用商人としての公儀への勤めにも差し支えるからな。」

 「・・・左様でございますか。往診とあれば、無下には出来ませぬな。」

 番頭は不承不承ながらも、三人を受け入れ店の中へと通した。案内された奥の間。そこにいた主の伊左衛門は、娘が死んだばかりだというのに、何食わぬ顔でパチパチと不気味なほど軽快に算盤を弾いていた。それどころか、その表情にはどこか「厄介払いが済んだ」と言わんばかりの、せいせいした面持ちさえ浮かんでいる。

 「旦那様、北町の御役人様と、蘭医の高柳凌庵先生が参りました。」

 「・・・通しなさい。」

 伊左衛門は算盤の手を止め、口の中で密かにチッと舌打ちをした。その眼差しは、まるで汚泥でも見るかのように冷酷だった。

 「おや・・・北町の御役人様と、検死と称して娘の亡骸をなぶり物にした『死骸医者』ですか。あいにく、私はどこも具合は悪くございませんよ。」

 随分な物言いだが、凌庵は眉一つ動かさない。死体を好き好んで解剖する医者など世間にはいない。こういう侮蔑の視線には慣れっこだった。

 「俺はただの見舞いだ。用があるのは、こちらのお役人の方だ。」

 凌庵が促すと、新太郎がドカッと身を乗り出した。

 「伊左衛門殿。おはつさんの一件だが、殺しの線が浮上した以上、もう一度洗い直さねばならねえ。お前さんも辛えとは思うが、二、三聞かせて貰う。相対死の相手とされた番頭の甚助とは、本当にそれほど深い仲だったのか。他にも関わりのあった者がいなかったか、どんな些細な事でも良いから聞かせてもらいたい。」

 「全く、まだそんな下らぬ事を・・・。」

 伊左衛門は卓上に算盤をパチンと叩きつけた。その硬質な音が、部屋中に冷たい苛立ちを拡散させる。

 「死んだ娘の痴情を暴いて何になる。あやつは我が家の厳格な躾を蔑ろにし、危うく三島屋の看板を傾けようとした親不孝者だ。

 「あの出来損ないめが・・・。折角金と時をかけて、どこに出しても恥ずかしくない『道具』に仕立て上げたというのに・・・。」

 血を分けた娘をまるで「不良在庫」のように口汚く罵る伊左衛門に、新太郎の堪忍袋の緒が弾け飛んだ。

 「三島屋さん、あんた我が子が死んで悲しくねえのか!?あんたそれでも親か!」

 「はっはっは、悲しいですと?しいわけがないでしょうが!」

 伊左衛門は冷笑を浮かべ、あからさまに此方を誹る様にせせら笑った。

 「あのような出来損ない、いなくなっても痛くも痒くもない。私にはまだ、卯之(うの)(きち)という立派な跡取りがおります。使えなくなった不良品にかける情けなど、この手前にはございません。親不孝が・・・、死んでなお我が家に面倒事を起こしおって。ただでさえ、最近は『夢一芝居』などという下劣な裏遊びにうつつを抜かしていたのだ。それだけでも親不孝の極みだというのに!」

 「てめぇ・・・、この守銭奴がァ!」

 今にも殴りかかりそうな新太郎の身体を、仁吉が必死に組み付いて止める。

 「若旦那、いけねえ!ここでの揉め事はマズイ!」

 その騒ぎを、伊左衛門は冷徹な目で見下ろし、さらには圧力をかけた。 

 「とにかく御役人様、これ以上三島屋の周辺を嗅ぎ回るのはお控え願いたい。手前どもは幕府御用商人として、幕閣の高官の皆様にも多大なるご贔屓をいただいております。あまり騒ぎ立てれば、我が店の看板に傷が付く。それはひいては、御上への『不忠』に繋がりかねませんぞ。」

 公儀の権力を盾にした、明確な脅迫だった。悲しいかな、宮仕えは上を引き合いに出されては身動きが出来ない。新太郎は悔しさに歯噛みするが、これ以上の発言は立場上封じられる。だが、その横で、凌庵の蘭学医としての鋭い耳は、伊左衛門が口滑らせた決定的な単語を聞き逃さなかった。

 「・・・『夢一芝居』。最近、役者や芸者の間で流行っているという、あの闇の片手業ですか?」

凌庵が静かに問いかけると、伊左衛門はハッとして、しまったという顔で口をつぐんだ。だが、すぐに鼻で笑って誤魔化す。

 「フンッ、医者のくせによくご存知で。」

 伊左衛門は吐き捨てるように続けた。

 「おはつは二年ほど前から、中村歌之丞(なかむらうたのじょう)という役者崩れに入れ込んでおりました。あの歌之丞とやらは、かつてこそ飛ぶ鳥を落とす勢いでしたが、先の天保の改革で贅沢が禁じられ、芝居小屋を追われてからは鳴かず飛ばずの有様だったとか。夢一芝居とかいう違法な裏稼業に手を染めていても不思議はありませぬ。あのような負け犬の役者と通じていた不心得者め・・・。」

 最後まで娘の死を「家の恥」と断じる伊左衛門。その救いようのない毒親ぶりに、地回りの仁吉でさえ、怒りを通り越して呆れ果てた表情を浮かべた。

 「・・・もう結構だ。失礼する。」

 新太郎はこれ以上この部屋の空気を吸うことに耐えかね、背を向けた。部屋を出る間際、背後から伊左衛門が番頭に「不浄な足跡に塩を撒きなさい」と冷酷に命じる声が聞こえた。

 「あの強欲爺め、権力を盾にしやがって! あれは人間じゃねえ、ただの化け物だ!」

 夜の神田麴町に飛び出すなり、新太郎は苛立ちをぶつけるように夜の闇を思い切り蹴りつけた。

 「収穫なし・・・。こいつは思っていた以上に厄介な大物だ。」

 仁吉ががっくりとため息をつく中、凌庵だけは、夜空に浮かぶ月を見上げて静かに笑みを浮かべていた。

 「何を言ってるんだ、生前おはつがその役者崩れの中村歌之丞と深く関わっていたことが判明したんだ。これ以上の収穫がどこにある?」

 「そう言えばそうだ。」

 凌庵の言葉に、新太郎がハッと目を見開く。

 「まずはその筋から調べてみることだ。中村歌之丞がかつて身を置いていた一座のタニマチを裏から洗ってみたらどうだ? 案外、三島屋を脅せるような大物の名が出てくるかもしれんぞ」 新太郎は深く深呼吸をすると、拳を強く握りしめた。

 「この際だ、この一件の裏にいる悪党どもの化けの皮を、根こそぎ引っ剥がしてやる!」

 「その意気だ。だが、頭に血が上って空回りしなさんなよ?」

 「解っている! じゃあ俺たちは行くぜ。」

 「じゃあな兄貴、また世話になるときは頼んだぜ!」

 鼻息荒く歩いていく新太郎の後を、仁吉が慌てて追いかけていく。その頼もしい背中を見送った凌庵は、さてどうするかと顎を一撫でした。疑惑の香り水「佐葦の露」、そして「夢一芝居」の役者・中村歌之丞。悪事の役者がそろってきたわけだ。ここで一つ、この江戸の街のすべてを差配する「ある男」に会わねばならない。

 「帰る前に、ちょっと寄っていくか。」

 一介の町医者である凌庵は、余程のことがない限りは徒歩で移動する。歩けぬ距離ではない。凌庵は夜風に乱れる総髪を軽く整え、迷うことなく呉服橋へと足を進めた。その先に居を構えるのが、北町奉行所である。

 呉服橋の擬宝珠を越えると、武家特有の厳めしい空気が漂う奉行所の門が見えてくる。門前では体格のいい門番が、険しい面持ちで六尺棒を握りしめて立っていた。

 「金さん、まだいるだろうか。」

 凌庵が案じるのは、この巨大な奉行所の中枢で激務に追われているはずの男――北町奉行・遠山金四郎その人であった。天保の改革の暗雲が江戸を覆う今、人々の息の根を止めるかのような厳格な奢侈禁制に対し、民の目線で真っ向から異を唱え続けている孤独な奉行。かつて過酷な運命の中で死にかけ、凌庵の医術によって命を繋ぎ止めた金四郎とは、時に医者と患者として、時に志を同じくする男として、魂を通わせる希有な間柄だった。

 「これは凌庵先生、何か御用ですかな?」

 門番が凌庵の姿に気付き、声をかけた。

 「御奉行は中にいらっしゃるか?」

 「一寸仔細があってな」

 そう凌庵が答えたその時、中から出てきた北町奉行所吟味方与力・神山平蔵とバッタリ目が合った。

 「おぅ、凌庵先生じゃねえか。新太郎の奴がいつも世話になっているようだな。」

 「神山様。私はただ、お節介を焼いているだけですよ。」

 「相変わらず謙虚だな。御奉行に用事か?」

 「はい。独自に調べを進める中で、少々お耳に入れたきことが。」

 「そうか、恐らく自室にいらっしゃるはずだ。行ってみるといい。」

 神山に促され、凌庵は慣れた足取りで奉行所の奥へと進む。だが、奉行所の中へ入り奉行邸宅へと続く渡り廊下で、今度は内与力の蒲生武太夫(がもうぶだゆう)が立ち塞がった。眉間に刻まれた深い皺と灰色になった鬢が、彼の心労を物語っている。

 「凌庵殿ではないか。御奉行は公務でお疲れだ。報告があるなら手短にな。それと、あの方をあまり夜の街へ連れ出さんでいただきたい。内与力の胃の心労も考えてもらいたいものじゃ。」

 「解っているよ。」

 小言を巧みにかわし、凌庵は奉行の執務室の襖の前に立った。

 「御奉行、蘭学医の高柳凌庵でございます。お耳に入れたきことがあり参上仕った。」

 謹厳な口調で声をかけるが、中からは物音一つしない。

 「・・・御奉行、失礼いたす。」

 そっと襖を引くと、そこには主の姿はなく、行灯の火だけが静かに揺れていた。机の上には、四角い印判と山積みにされた吟味書類が置かれており、湯飲みの中の茶はすっかり冷めきっている。

廊下を見渡しても、人影はない。

 「さては・・・、いつもの奴だな。」

 ふと机の上を見ると、書類の端に子供が描いたような悪戯書きが残されていた。一見すれば、他愛のない落書きだ。しかし、凌庵の鋭い観察眼はその奥にある「意図」を瞬時に読み解いた。

 満開の桜の木の下で、「鶴」と「亀」が楽しげに酒を酌み交わしている。そしてその上空を舞うのは、一頭の「天竜」。

 「金さんめ、また逃げやがったな。」

 この落書きは、煩わしい激務から逃れた金四郎が残した凌庵へのメッセージだった。残しておけば、血眼になった蒲生武太夫に速攻でバレてしまう。野暮な真似はしたくないと、凌庵はその紙を素早く懐へとしまい、何食わぬ顔で部屋を出た。

 三之間の辺りで、案の定、待ち構えていた武太夫と再び遭遇した。

 「何じゃ、もう済んだのか?」

 「はい、話は済みました。お騒がせしましたな。」

 「お主の来た理由は、察するに三島屋の一件だろう。御奉行に何か進言をしに来たのだろう。放っておけぬ気持ちは解かる、お前さんのお陰で心中でないことは解った。だが、あとは町方の役目だ。任せておけ。」

 「そういたします。では、邪魔をした。」

 足早に奉行所を後にする凌庵。門の外へ出た瞬間、背後の奉行所内が急に蜂の巣をつついたように騒がしくなった。

 「御奉行ォ! 御奉行はいずこへ!またいなくなられたぞーーっ!」

 武太夫の悲鳴に近い怒声が夜空に響き渡る。頻繁に天竜堂を留守にする自分が言えた義理ではないが、金四郎もまた隙を見つけては姿を眩ませる常習犯だった。武太夫の大声を聞いた凌庵は、プッと吹き出した。

 おもむろに腹の虫がグゥと鳴る。懐中時計を取り出すと、時刻はちょうど暮れ六つ(午後六時)を指していた。

 「成程。刻限を見て、鶴亀屋(あそこ)へ行ったのだな。」

 凌庵は金四郎が提示した「約束の場所」へ向かうべく、江戸の夜を歩き始めた。呉服橋から東へ進み、日本橋川に沿って江戸橋へと差し掛かるにつれ、厳格な武家地の空気は一変し、巨大な白壁の蔵が連なる「商」の喧騒へと色を変えていく。さらに川沿いを進み、やがて神田川が隅田川へと注ぎ込む柳橋へとたどり着いた。


 橋の袂には柳の枝が夜風にしなしなと揺れ、料亭から漏れる明かりが川面を艶やかに照らしている。柳橋は、江戸でも一級の芸者街。ここにあるのは、雑多な活気ではない。研ぎ澄まされ、洗練された「粋」と「情念」の香りだ。

 竹垣で囲まれた見事な店構え。玄関には、鶴と亀が刺繍された華やかな暖簾が掛けられている。銘酒と極上の川魚料理を出す銘店――「鶴亀屋」であった。暖簾をくぐると、鶴亀屋の半纏を着た恰幅の良い主人・吉兵衛が凌庵に気付いた。

 「おや先生、いらっしゃいまし。随分とお久しぶりじゃありませんか。」

 「吉兵衛さん、お邪魔するよ。」

 「へえ、いつもの奥の御座敷で、金さんが待っておりやすよ。」

 吉兵衛の言葉が終わるか終わらないかのうちに、奥から艶やかな黄色い声が響いた。鶴亀屋の女将であり、江戸っ子肌の美女・おえんだ。仁吉の実の姉でもある。

 「龍三兄ちゃん!! ちっとも顔を見せないから、どこかの路地裏で野垂れ死んでるんじゃないかって心配したんだよ!」

 おえんは凌庵の姿を見つけるなり、昔馴染みの甘え方でその腕にぐっとじゃれついた。

 その言葉を聞いた途端、おえんは露骨に唇を尖らせて腕を解いた。

 「なあんだ、金さんがお目当て? 二人とも、会えばいっつも奥の部屋で密談ばかりしてさぁ。まさかとは思うけど、男色の気があるんじゃないだろうねぇ?」

 「馬鹿を言え。薄汚い町医者とただの遊び人のどこにそんな色気がある。」

 「どうだかねえ。とにかく、お腹が減っているならお酒と料理を運ばせるよ。」

 「ああ、頼む。ただし、彩乃殿にブツブツ言われん程度にな。」

 おえんたちが奥へ引っ込んだのを見届け、凌庵は一人、勝手知ったる足取りで最奥の離れの小部屋へと向かった。廊下の突き当たり、微かに漂う上質な酒の匂い。そして、微かに感じる人の気配。

 「金さん、いるかい?」

 凌庵が静かに襖を引くと、そこには一人の男が胡坐をかいて一足先に美味そうに酒を煽っていた。紺色に白縞模様の鯔背な気流し、粋に結った髷。この遊び人風の男が、巷で「名奉行」と囁かれる北町奉行・遠山金四郎であるとは、誰も思いはしないだろう。

 「遅かったなァ、凌庵先生。」

 「金さん、何だこの御奉行所の悪戯書きは。内与力の蒲生殿が大騒ぎしていたぜ?今に蒲生様の胃の腑に穴が開くぞ?」

 「はっはっは! 今頃大騒ぎだろうよ、愉快極まりないな。」

 「暢気なもんだなァ、全く。」

 金四郎は猪口を弄びながら、不敵な笑みで凌庵を迎え入れた。その眼光は、遊び人の軽薄さを装いながらも、江戸の闇を射抜く奉行の鋭さを一点も失ってはいない。

 「それで先生、奉行所までわざわざ足を運んだって事は、何か急用があったんだろ?」

 凌庵は金四郎の前に座り、運ばれてきた酒を酌み交わしながら、先ほど三島屋伊左衛門の口から聞いた剥き出しの非情、そして「夢一芝居」と役者「中村歌之丞」の存在について詳細に話した。

話を聞き終えた金四郎の顔から、遊び人の笑みが完全に消え失せた。

 「商売、商売ねえ。実の娘の命より、店の金看板の方が大事とはなァ。だが先生、天網恢恢疎にして漏らさず。私欲に溺れて人の道を外れた報いは、いずれ身代を潰す形で必ず返ってくるさ。今に見ていろ、あの強欲爺さんにも手痛い罰が当たる。」

 金四郎の言葉は、怒りを孕んだ予言のように静かに響いた。だが、凌庵はそこからさらに話を核心へと切り替える。

 「ところで金さん。おはつの検死をしていた時、遺体から不自然なほど強い花の香りがしたんだ。それを追って調べていくうちに、こういう物が手に入った。」

 凌庵は薬篭箱の奥から、井筒屋で手に入れた琥珀色のギヤマン小瓶を取り出し、金四郎の前に差し出した。

 「此奴は、近頃流行りの『佐葦の露』か?」

 「流石は早耳の御奉行、ご存知だったか。江戸の粋人たちの間でモテ囃されている香り水だ。」

 金四郎は怪訝そうに小瓶を手に取り、そっと栓を抜いた。その瞬間、座敷の空気が一変した。行灯の灯火さえも揺らめかせるような、濃密で甘美な芳香が立ち込める。

 「・・・こりゃあ、妙な香りだな。だが、鼻の奥が微かに痺れるような・・・それでいて、もっと嗅ぎたくなるような奇妙な力がある。」

 「井筒屋の万蔵さんが譲ってくれた。ただの香り水なら俺も気に留めはしないが、これには対峙した相手を瞬時に魅了し、理性を麻痺させる『蘭学の秘薬』が混ぜられているらしい。おはつも、この香りの虜になり、理性を奪われていたと見える。」

 凌庵の鋭い眼差しに、金四郎は小瓶の栓を強く閉じた。

 「確かに香り水ってえのは元来、人を引き寄せるもんだ。だがこの『佐葦の露』とやらは、一線を越えているな。先生、お前さんの勘通りだ。これは単なる嗜好品じゃねえ。何やら巨大な悪事に使われている臭いがぷんぷんしやがる。」

 「だからこそ、御奉行たるあんたの耳に入れておこうと思ってな。それと金さん、この『夢一芝居』という片手業、公儀の耳にはどこまで入っている?」

 「・・・知っているも何も、幕閣の議論の中でも度々上がっていたよ。水野様や鳥居殿が、風俗を乱す由々しき問題だと騒いでいた。」

  「そうか・・・。ならばこれを利用して、奴らは益々厳しい奢侈禁制を唱えるようになるだろうなァ。」

 「かもしれねえな。」

 金四郎は注がれた酒を一気に煽り、真剣な目線を凌庵へと向けた。その視線の先で、凌庵の手が微かに、それでいて激しく震えていることに気付いた。

 「金さん。この一件、俺はどうしても町方に任せきりにする気にはなれんのだ。」

 凌庵の口調は静かだったが、その瞳の奥には地獄の業火のような怒りの炎がメラメラと燃え盛っていた。

 「三島屋の番頭も、口封じの帳尻合わせのために殺された。その上、一時でも心中の片割れだと汚名を着せられて死んでいった。何よりおはつの遺体には、身籠った跡があったんだ。」

 金四郎が息を呑む。

 「これから生まれ、この江戸の街を生涯を歩むはずだった『命の芽』だ。それを親の道具として扱い、挙句の果てに謀の道具として使い潰し、跡形もなく摘み取るような奴らを・・・俺は医者として、絶対に許しちゃおけねえんだ。」

 医者としての、そして「おろく医者」としての、魂の底からの告発だった。 だが、その言葉に対し、遠山金四郎は、はっきりと「手を貸してくれ」とは言えなかった。彼の背後には、幕府という、あまりにも巨大で冷酷な政治の壁が立ち塞がっているからである。

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