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 向島の隅田川沿い。近隣には他にも武家や商人の隠宅が集っている。身分ある隠居の隠宅となれば、掃除が行き届き風雅な住まいのはずだ。無用斎の隠宅は他とは違った。旗本の隠宅としては、あまりにも寂れた門構えであった。手入れの行き届かない庭には雑草が生い茂り、まるで見捨てられた廃屋のようだ。

 「御旗本の隠居所にしては、随分と薄汚いですね。」

 薬篭箱を肩にかけた藤村彩乃が、小声で眉をひそめた。

 「用人が三日と持たずに逃げ出すので、口入れ屋の間じゃあ『曰く付き』として有名だって話だ。この荒れ果てようを見る限り、噂に違わぬ偏屈ぶりらしいな。」

 「こうなったからは、人間じゃなくて妖怪でも雇うしかないですね。先生はよく我慢できますね。」

 「嫌な患者はごまんといる、いちいち気にしていたら持たんよ。」

 「先生も図太いんですね。」

 「随分な物言いだな・・・。」

 ひそひそと毒を吐き合う二人の前に、竹箒を持った老侍がひょこひょこと姿を現した。来客自体が珍しいのか、目を丸くして二人を見つめている。

 「何だ、その方たちは?」

 「御召しを頂き参上いたしました。蘭医の高柳凌庵でございます。」

 「助手の藤村彩乃です」

 「おぉ、来てくださったか!儂は用人の木村太兵衛(きむらたへえ)と申す!」

 太兵衛は安堵のあまり涙ぐみ、凌庵の手を両手で強く握って上下にブンブンと振った。無用斎の悪評を恐れて誰も来ないのではないかと、心底戦々恐々としていたらしい。

 「御隠居の様子は如何ですか?」

 「芳しくない・・・。いや、はっきり言って最悪でござる。」

 「最悪とな・・・。」

 事前の知らせでは、縁側を踏み外し、庭石の上に落下して頭をしたたかに打ったという。通いの町医者もいたようだが、無用斎の凄まじい因業ぶりに愛想を尽かし、皆さじを投げて逃げ出した後だった。

 「気を悪くされるやもしれぬが、どうか、よろしく頼むぞ。」

 「承知した。医者にとって患者の口の悪さは病気の一種だ。」

 太兵衛に通され、埃の積もった粗末な廊下を渡る。突き当たりの部屋の手前で、太兵衛が恐る恐る声をかけた。

 「大殿、お医者様が参りました。」

 中から応答はない。だが、部屋の奥から獣のような低い呻き声が聞こえる。

 暫くの沈黙の後、「・・・入れ」と、地を這うようなしゃがれ声が響いた。

 部屋に踏み込むなり、二人を待ち受けていたのは、カビ臭い空気と老いた男の凄まじい「毒気」だった。 布団を頭からかぶり、背を向けたままの水谷無用斎。かつて「鬼の公事方」と恐れられた元勘定奉行の権勢は見る影もない。あらゆる医者に見捨てられ、怪我をしても公儀から御典医すら回してもらえない現実に、老人は完全に不貞腐れていた。

 「おい医者、名は?」

 「高柳凌庵と申す。一介の町医者でございます。」

 「高柳・・・・、そうか。貴様が噂の『死骸おろく医者』か?」

 「左様でございます。」

 無用斎は布団から濁った瞳を覗かせ、ゴミを見るかのような冷徹な視線を凌庵にぶつけた。北町奉行所の要請で死体ばかり弄っている不浄な医者が来たと、へそを曲げたのだ。 凌庵が冷静に一礼すると、無用斎の視線は隣の彩乃へと移った。

 「ふん。その娘は妾か? 若いくせに結構なご身分よな。医道も地に落ちたものよ。」

 ふっふっふと淫猥な笑みを浮かべる老人に、彩乃の額に青筋が浮かぶ。

 「・・・本当に『おろく』にしてやろうか、このクソ爺・・・。」

 「およしなさい、病人の戯言だ」

  呪うように呟く彩乃の袖を、凌庵は片手でスマートに制した。

 凌庵は無用斎の枕元に膝をついた。頭部に巻かれたおざなりな包帯は赤黒く変色し、所々に黄色い膿のシミがついている。

 「少々沁みますぞ。」

 血で張り付いた包帯に、鉄瓶の白湯を含ませて優しく剥ぎ取る。現れた傷口は、案の定、酷く化膿して熱を持っていた。

 「何故ここまで放っておかれた。皮膚が腐敗し、内側に膿が溜まっている。このまま放置すれば、 頭骨の奥まで毒が回り、命に関わるところでしたぞ。」

 「たかが町医者の分際で、旗本の儂に説教か!」

 「説教ではなく医者としての事実です。これより、腐敗した部分を切開します。」

 「勝手にいたせ! この際どうとでもしろ!」

 凌庵は痛みのあまり舌を噛み切らぬよう猿轡を差し出したが、無用斎はフンと首を横に振った。死に損ないとはいえ、三河以来の直参のプライドがそれを許さないらしい。

 「御信望を・・・。」

 凌庵の細指がメスを握る。迷いなく刃先を走らせ、腐敗した傷口を切開した瞬間、無用斎の口から 「グッ・・・!」と割れたような鈍い悲鳴が漏れた。老人の顔面が苦痛で土気色に染まる。さっきまで「クソ爺」と心中で誹っていた彩乃だったが、心配そうに見つめている。凌庵は驚異的な手際で溜まった膿を押し出し、壊死した組織を切り取っていく。そして、オランダ製の絹糸で傷口を迅速に縫 合し、天竜堂特製の金創膏を貼って包帯を巻き直した。

 処置が終わると、無用斎は糸が切れた人形のようにガクッと脱力し、再び幕閣への恨み言をブツブツと零し始めた。

 「・・・儂は、幕府のために粉骨砕身、忠義を尽くしてきた。それを・・・老いたからと無役へ追いやり、見捨てるとは。どいつもこいつも、恩知らずの悪党ばかりよ・・・。」

 道具を片付けながら、凌庵はその言葉を冷然と遮った。

 「無用斎様。」

 「何じゃ?」

 「今後は子供のように意地を張るのは、お止めになる事ですな。」

 「子供だと!?」

 無用斎が激昂して跳ね起きようとするが、凌庵の鋭い眼光に気圧されて動きを止めた。

 「不貞腐れて御酒を過ごし、その挙句の転倒。このまま周囲に牙を剥き、片意地を張っていれば、それこそ本当に命を縮めますぞ。」

 「偉そうに! 貴様のような若造に、儂の何がわかるというのだ!」

 大声を出す無用斎に対し、凌庵は一歩も引かず、極めて重く、静かなトーンで告げた。

 「解りますよ。無用斎様、此度の怪我以前も、急に意識が遠のいたり、物事を思い出すのに異常に時を要する事が増えていたのではないですか?一段と怒りっぽくなり、箸を持つ手が思い通りに動かぬと感じた事は?」

 「う、くっ・・・。」

 無用斎の言葉が、喉の奥でグッと詰まった。図星だった。公事方の御用部屋で一瞬意識を失ったこと、重要な書類の文言がどうしても思い出せなくなった事に加え、稀に右手が奇妙に痙攣する事があったと言う。それら全ては、老いによる衰えではない。激務の果てに、彼の脳の細い血管が悲鳴を上げていた証拠だった。自分でも認めたくなかった「体の破綻」を、この若き蘭学医は見事に見抜いていた。

 「老いた身を厭えという御上の沙汰は、冷遇ではなく、これまで働いた身への愛情と知りなされ。このまま無理をして公務の場で倒れでもすれば、それこそ御家名に泥を塗り、断絶の危機を招きかねませぬぞ。」

 「御上の、愛情だと?」

 「御嫡男の右京之介様も、立派に家督を継がれた。そんな折に、大殿の奇行や悪評が囁かれては、 嫡男殿の御出世の足引っ張りになりかねません。今は静かに身を引くことこそが、真の忠義であり、親の務めというもの。」

 かつて誰の言葉にも耳を貸さず、鬼と言われたころを何時までも引きずっていた難物が、呆然と天井を見つめている。やがて深く長い溜息とともに、無用斎は力なく呟いた。

 「・・・御家のため、か。精々、心掛けるようにしよう。」

その変わりように、太兵衛も彩乃も信じられないものを見るかのように目を丸くした。

 「安静第一です。お出しする薬を必ずお飲みなさい。御自分は決して『無用』の存在などではない ことを、お忘れなきよう。何なら、もっと景気の良い号を名乗られい。」

 凌庵は、炎症を抑えて膿を排出する「排膿散及湯はいのうさんきゅうとう」と、組織の修復を早めるオランダ由来の「紫雲膏(しうんこう)」を処方した。

 診察を終えて廊下へ出ると、用人の太兵衛が黒漆の盆を恭しく捧げて待っていた。

 「先生、本日は誠にありがとうございました。少ないですが、これは水谷家からの薬礼でござる。」

 盆の上に載せられていたのは、和紙で固く包まれた二十五両の切り餅が一つ。 町医者の往診に対する謝礼としては、文字通り破格、いや狂気の沙汰とも言える大金だった。

 「ご用人殿、これはいくら何でも多すぎます。過ぎた薬礼は・・・。」

 凌庵が真面目に首を横に振る。

 「いや多い事は御座いませぬ、水谷家は三千五百石の直参旗本。大殿の命を救っていただき、御家の危機をも救ってくださった名医を、ろくな薬礼も払わずに帰したとあっては、それこそ家名に瑕が付く。どうか人助けと思って、受け取ってくだされ!」

 「しかし、それでもこれは・・・。」

 押し問答が始まろうとしたその瞬間――凌庵の眼前から、凄まじい風切り音とともに二十五両の包みがひったくられた。

 「お任せくださいご用人様ぁ! 確かに、武士の家名は何より大切ですものねえ!」

 さっきまで無用斎を呪い殺しそうな目で見ていた彩乃が、満面の笑みで二十五両を両手でしっかりと抱きしめ光の速さで懐へと収めていた。黒い二つの眼が、完全に山吹色の小判の輝きになっている。

 「無用斎様ぁ! 御隠居なされても体面を保つのはさぞや大変でございましょう! 私どもが責任を持って、この『重み』をしっかりとお預かりいたします!」

 そのあまりの猛烈な勢いに、部屋の奥から覗いていた無用斎も「お、おぅ。」と気圧され、布団に潜り込むしかなかった。

 屋敷を出た後、凌庵は深いため息をついた。

 「彩乃殿・・・、養生所の蓬洲とっつあんに似て来たな。」

 困り顔の凌庵に「てへっ」と可愛らしく舌を出す彩乃。だが、その瞳には真剣な光が宿っていた。

 「何を言っているんですか。先生が普段十六文しか取らないから、天竜堂の薬棚はいつもスカスカなんですよ? この大金があれば、長崎から新しいギヤマンの器具も、高価な西洋薬も仕入れられます。私は天竜堂の『良心』なんです!」

 「良心ねぇ・・・。まあ、助かるのは事実だが・・・。」

 「金の掛かる良心だ事・・・」と苦笑いを浮かべる凌庵。その時、凌庵の鼻腔を、奇妙に甘く、しかしどこか冷ややかな香りがかすめた。

 処置中は血と膿の匂いで気付かなかったが、無用斎の衣服、あるいは寝所の奥から漂ってくるその香り――それは、小石川養生所の「顕幽閣」で検死した、三島屋の娘・おはつの死体から漂っていたものと全く同じ、場違いな花の芳香だった。 凌庵の顔から笑みが消える。

 「無用斎様。失礼ながら・・・この部屋に漂う花の匂いは、一体?」

 無用斎は怪訝そうに鼻を鳴らした。

 「ふん、鼻が良いな。若い妾にせがまれてようやく手に入れた、『佐葦(さい)(つゆ)』という香り水よ。役者や柳橋の芸者がこぞって愛用している高価な代物だそうだ。昨今は御上が贅沢品を厳しく規制しておるゆえ、手に入らなくなる前に買い叩いたのだ。」

 「佐葦の露・・・。」

 「興味があるなら、両替町の『井筒屋万蔵(いづつやまんぞう)』の店に行ってみるが良い。主にあそこが取り扱っておる。主も出来た人間だ、良い話が聞けるだろう。」

 「・・・承知仕った。」

  凌庵は深く一礼し、無用斎の隠宅を後にした。だが、彼の足は八丁堀へは向いていなかった。その眼差しの先にあるのは、両替町の問屋街だった。紀国橋を渡り、両替町へ入る。軒を連ねる小間物問屋の中でも、ひときわ垢抜けた洗練された店構えを持つのが「井筒屋」だった。

 「おや、先生。誰かいい人に贈り物ですか?」

  隣を歩く彩乃が、懐の二十五両の重みで上機嫌になりながら、意地悪く凌庵を小突いた。

 「揶揄うな。顕幽閣のあの死体と同じ匂いだと言っただろう。確かめに来ただけだ。」

 彩乃はあからさまに肩を落とし、深いため息をついた。

 「全く・・・。何を楽しみに生きているのやら。そんな堅物だから、長屋の連中に『若先生は仏の生まれ変わりか、さもなくば枯れ木だ』なんて噂されるんですよ。」

 「何とでも言わせておけ。」

 色鮮やかな暖簾をくぐると、店の中からは威勢のいい商人声ではなく、静かで温かみのある声が聞こえてきた。

 店主の井筒屋万蔵が、涙を浮かべている幼い丁稚の頭を優しく撫でているところだった。

 「いいかい? 番頭さんはお前が粗相をしたから怒ったんじゃない。銭の重さ、大切さを教えようとしてくれたんだよ。間違いは誰にでもある。次から気を付ければいい。お前もいずれ独り立ちして金を扱うようになれば、今の言葉の重みが解るはずだよ。」

 奉公人を使い捨ての道具のように扱う大店が多いこの時代において、万蔵の言葉は誠実そのものだった。井筒屋の先代である伊三蔵(いさぞう)は、髪結い床から裸一貫で店を起こした苦労人で、その教えは万蔵にも受け継がれており、人としての器の大きさが窺える。

 「いらっしゃいまし。小間物の御用事ですかな?」

 万蔵は凌庵たちに気付くと、実に腰低く頭を下げた。

 「いや、買い物ではない。蘭学医の高柳凌庵と申す。」

 「おぉ、貴方様があの『二八先生』ですか!お噂はかねがね伺っております。して、本日はどのような?」

 「こちらの店で扱っている『佐葦の露』という香り水を見せていただきたい。」

 「おや、どなたかへの贈り物で?」

 万蔵の問いに対し、凌庵は声を潜め、「ある検死の現場で、その香りを嗅いだ」という事実だけを告げた。万蔵の表情が、一瞬にして曇る。

 「何と・・・、若きお嬢さんの亡骸からうちの香り水がねぇ。少々お待ちくだされ。」

 万蔵が店の奥から持ってきたのは、美しいギヤマン製の小瓶だった。蓋は閉じられているにもかかわらず、周囲に妖艶な花の香りがふわりと漂う。

 「こちらでございます。」

 「・・・っ、凄くいい匂い・・・・。」

 彩乃が思わずうっとりと目を細める。流石に年頃の娘だ。だが、凌庵の目は酷く冷徹だった。間違いない。顕幽閣でおはつの遺体から漂っていた、あの強烈な香気だ。

 「長崎の蘭学に通じた高名な御仁が監修したものでしてね。沈香を基調に、異国の秘薬を調合しているとか。柳橋の芸者や歌舞伎役者がこぞって買い求めております。・・・何でも、一口では言い表せない『人を強く惹きつける効能』があるとかで、最近は意中の人を射止めたい町娘や色男たちが、無理をしてでも手に入れる大流行の品でございますよ。大きな声じゃ言えませぬが、このご時世儲けが無く途方に暮れていた時に、ある御方からこの香り水に関して教えて頂いだのです。」

 万蔵の説明を聞きながら、凌庵は小瓶を見つめた。単なる香り水にしては、香りを吸い込んだ瞬間に脳の奥がピリピリとしびれるような、奇妙な感覚がある。

 「しかし・・・、妙ですなァ。」

 万蔵が首を傾げた。

 「大抵の客なら覚えておりますが・・・、三島屋のお嬢様が、この店に買いに来られたことは一度もございませんよ。」

 「何? 豪商の娘なら、これくらい容易く手に入るのでは?」

 「先生、三島屋の伊左衛門殿の評判をご存知でしょう。あそこは娘を『商いの道具』としか見ていない。悪い虫がつかぬよう、華美な装飾品や香り水など一切買い与えず、厳格な花嫁修業を押し付けていたはずです。お嬢様が自由に使えるお足など、一文もなかったはずですがねぇ・・・・。」

 長屋の幸兵衛たちが言っていた噂は事実だったのだ。支配され、自由を奪われていたおはつ。そんな彼女が、なぜ手に入るはずのない最高級の香り水を身に纏っていたのか。

 万蔵は悲しげにため息をつき、声をさらに潜めた。

 「・・・ああいう恵まれぬ境遇の娘さんほど、心の隙間を突かれ、江戸の闇で流行る『悪しき遊び』に手を染めてしまうのかもしれませんな。」

 「悪しき遊び?」

 「先生は、『夢一芝居(ゆめいちしばい)』というものをご存知ですか?」

 凌庵は眉を寄せた。凌庵自身芝居小屋には行くが、そのような名は聞いたことがない。

 「形の上では『芝居の稽古』と称しておりますが、実態は違います。大金を払った客のために、雇われた役者が『想い人』や『親密な身内』を完璧に演じてみせるという裏の商売です。客のためだけに甘い言葉を囁き、望むままの虚構の時間を売りつける。最後の一線を越えることは稀ですが、金次第ではそれも・・・・。一度のめり込めば、身も心も、そして実家の蓄えをもすべて吸い尽くされるまで抜け出せない、底なしの泥沼でございますよ。」

 その言葉を聞いた瞬間、凌庵の脳裏で、すべての符丁がピシャリと噛み合った。厳しい家訓、非情な父親、道具としての人生。息の詰まる日常から逃れるため、おはつがその「夢一芝居」の偽りの愛に救いを求めていたとしたら?あの番頭との心中事態が、何者かによって仕組まれた「芝居の幕引き」だったとしたら?凌庵の脳裏に様々な仮説が浮かぶ。

 「・・・親の呪縛に縛られた魂の、成れの果てか。」

 凌庵は低く呟いた。人間の孤独と不幸に付け込み、大金を貪り食う巨大な悪意の存在が、江戸の闇に蠢いている。

 「万蔵殿、その『佐葦の露』、一つ譲ってくれぬか。」

 「ええ、構いませんとも。」

 「彩乃殿、先ほどの二十五両から代金を払いなさい。」

 「えっ!?でもこれは天竜堂の・・・。」

 「同じことだ。これも『医者の仕事』のうちだ。それに全部使い分けでは無いから、問題はない。」

 彩乃はブツブツと言いながらも、切り餅の包みを丁寧に解いて代金を支払った。最新の流行品だけあって、かなりの高額だった。ちらりとこちらを見る彩乃の視線が刺さる。

 万蔵は香水を紙袋に入れながら、神妙な顔で世相を憂いた。

 「しかし先生、嫌な時代ですなあ。こういうささやかな贅沢さえ、昨今は悪しき者だと役人に睨まれる。南町が月番の時、華美な簪を挿した娘が捕まり、身ぐるみを剥がされたなんて物騒な噂も聞きます。地獄の沙汰も金次第、多くの同業者は袖の下を使って商売を続けておりますが・・・私は人の道に外れる真似だけはしたくない。親父が裸一貫で始めた商売、お天道様に恥じる真似はいたしませぬ。まあ、店の経営は芳しくありませぬが。」

 「あんたのような商人が増えれば、町方も少しは楽になるだろうな。」

 「滅相もない。それを言うなら先生こそ、十六文という安値で貧民を救い、他人が嫌がる検死の役目まで進んで引き受けておられる。こんなお方は他にいませんよ。」

 万蔵の賞賛に、凌庵は何だかくすぐったくなり鼻を掻いた。すかさず彩乃が横から口を挟む。

 「買い被りですよ、井筒屋さん。父上の教えだか何だか知りませぬが、儲けを出さないせいでいつもカツカツなんですから!何だったら、取るに足らない世間話にもお足を取りたいくらいです!」

 「ははは、これは手厳しい!」

 万蔵の豪快な笑い声が店内に響く。不穏な事件の調査ではあったが、束の間の温かい時間だった。

 「長居をしたな。お互い、真っ当に生きるとしよう。」

 「ええ。良いお人が出来ましたら、是非うちの小間物をお買い求めください。」

店を出ると、初夏の風が暖簾を揺らした。彩乃が小瓶の入った袋をじっと見つめる。

 「先生、この香り水どうするんです?」

 「そう言えば井筒屋で随分うっとりしていたが、欲しいか?」

 「要りません。確かにいい匂いには違いないですが、匂いのきつい物は患者さんの迷惑になりますし、私はもっと自然な香木の方が好きです。・・・それより先生、この香水を身につけて、どなたかにお会いになりたい方でもいるんですか?」

 彩乃がジト目で凌庵を覗き込む。

 「いちいち変な邪推をするな。この香水には、人を引きつける奇妙な成分が含まれている可能性がある。小石川養生所の顕幽閣へ持っていき、薬草の成分を分析するだけだ。」

 「なら良いですけど・・・変なものを使って、変な女狐に引っかからないでくださいよ?」

 ブツブツと小言を並べる彩乃。その姿は、弟子というよりは完全に口うるさい世話女房のようだ。

 ふと、凌庵が足を止めた。彩乃もそれに合わせて足を止める。天竜堂で共に過ごすうち、彼女には凌庵が次に何をしようとしているのか、手に取るように解るようになっていた。

 「・・・先生。やっぱり、三島屋のことが気になるんですね?」

 「解るか?」

 「これだけ一緒にいれば、嫌でも解りますよ。どうぞ、行ってらっしゃいませ。もし三島屋のどなたかの具合が悪ければ、医者の出番でしょう? 天竜堂の留守は、この私がしっかり番をしておきますから。」

 彩乃はそう言うと、悪戯っぽく微笑み「佐葦の露」の袋を凌庵の手に握らせた。

 「困難な患者が来ても無理はするなよ。後で俺が診る。」

 「はいはい、お気をつけて。」

 抜群の信頼で結ばれた助手を八丁堀へ帰し、凌庵は踵を返した。

 彼の目指す先は、疑惑の豪商――神田麴町、三島屋であった。

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