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 「先生~! 待ちわびましたよぉ~っ!」

 「家のガキがまた熱を出しちまってえ~。」

 「婆さんが転んじまったんだぁ!」

 「ちょいと横入りするんじゃないよ!!」

 「俺が先だぁ!」

 小石川養生所の「顕幽閣」から戻ったばかりの高柳凌庵を、今か今かと待ち構えていた患者たちが地鳴りのような歓声とともに取り囲んだ。検死だけが能ではない。普段の凌庵は、地べたを這って生きる生身の人間を救う、八丁堀の頼れる町医者であった。

 凌庵が「天竜堂診療所」を構えるのは、岡崎町地蔵橋通り。北町奉行所筆頭与力・近藤清左衛門の広大な屋敷地を地借りした一画である。八丁堀与力は同心を指揮して警察・行政事務を行うのが役目だ。中でも近藤家は、現場を仕切る役人たちを束ねる筆頭与力の家柄。二百五十石以上の実収入を持ち、下級旗本を上回る経済力と権勢を誇っていた。

 しかし、どれほど権勢を振るおうとも身分は御家人格、御目見え以下。将軍に直接拝謁することも許されぬ「不浄役人」と蔑まれる身分には違いなく、その台所事情は決して芳しくない。幕府は格式を重んじさせるため御家人の副業を固く禁じていたが、背に腹は代えられぬ。彼らは許される範囲で内職を行い、さらに幕府に黙認された「副収入」で家計を支えていた。与力格に拝領される二百五十坪から三百五十坪の敷地に、「家作」と呼ばれる貸家や長屋を建てて町人に貸し、地代や家賃を取るのが一般的な割り切り方だったのだ。

 こうして生まれた「八丁堀拝領町屋敷」には多種多様な町人が住み着き、「小間物から荒物、寺子屋から遊女まで、八丁堀に無い物なし」と謳われるほどの活気を呈していた。特に社会的信用の高い医者や儒者が多く居を構えたことから、巷では「医者、儒者、犬の糞」という、八丁堀七不思議の一つに数えられる些か品のない俗謡まで流行っている。新太郎の実家である近藤家もその例に漏れず家作を持っており、凌庵はその土地を借りている、いわば近藤家の「店子」であった。

 「そう言えば聞いたかえ? 神田の三島屋で大騒動があったって。」

 「聞いた聞いた、娘のおはつさんが番頭と首を括ったんだろ。」

 「三島屋の伊左衛門さんは、お子さんに尋常じゃなく厳しいって評判だからねぇ。その反発じゃねえか?」

 「親に仲を引き裂かれて、この世で結ばれねえならあの世で、ってか。お芝居みてぇな悲恋だねぇ・・・。」

 好き放題に「心中話」を消費する患者たちの頭上へ、診療所の奥からピシャリと鋭い声が飛んだ。

「いつまで無駄話をしているんです! ほら次の方、早くお入りなさい!」

  痺れを切らした藤村彩乃である。彼女が本道と婦人科を、凌庵が外科を主に担当し、二人は天竜堂の屋台骨を支えていた。

 「次の患者、入りな。」

 呼ばれて診察室の椅子に座ったお常婆さんは、入ってくるなり雷鳴のごとき大声で騒ぎ出した。

 「先生ぇ~、聞いとくれよォ~っ!」

 「何だいお常婆さん、入って来るなり大声を上げて。他の患者が驚くじゃないか。」

 「何だも何もありません! うちのろくでなしの嫁の話ですよぉ!!」

 このお常婆さん、嫁とすこぶる仲が悪く、何かと喧嘩をしてはここに駆け込んでくる。だが、凌庵の記憶にある彼女は本来温厚で、ちょっとやそっとの家庭不和でここまで憤る人ではなかった。最近、明らかに輪をかけて怒りっぽくなっている。

 「それで、今日の喧嘩の原因は何だね?」

 「せめて楽をさせてやろうと、あたしが朝餉に味噌汁を作ってやったんですよ。だがあの嫁ったら、一口飲んで『辛くて飲めない』なんて抜かしやがったんです! あたしゃ自慢じゃねえが、死んだ爺さんにも倅にも、一度だって飯の文句を言われたことはない! なのにあの嫁と来たら! だからあたしはね、御盆の上のありったけの物を投げつけてやったんです!」

 お常の文句は止まらない、立て板に水とはまさにこのことだ。

 「その前は孫に玩具を買ってやったら甘やかすなとぬかしやがって。あぁ、こうなったらあたしなんざ御役御免って事なんでしょうなあ・・・。このままくたばっちまった方が、みんなの為に良いんですかねえ。」

 騒ぐだけ騒ぐと、疲れ果てたのか、今度はしゅんと肩を落とし涙ぐんでみせる。

周囲の患者は口々に「また始まった」、「甘いの次は辛いかい」とクスクス笑っているが、凌庵の目は笑っていなかった。

 凌庵の引き締まった顔は、いつになく真剣だった。

 (・・・おかしい。単なる嫁姑の確執ではない。)

 普段なら「まあ仲良くしなさい」と聞き流すところだが、最近の彼女の「変化」が、蘭学医としての凌庵の脳内で不穏な符丁を結んでいく。嘗ては完璧にこなしていた料理の味付けが激変したこと。注意されたことに対し、異常なまでの被害妄想と激しい怒りを示すこと。そして、その後に訪れる急激な気分の落ち込み。

 「老耄の始まり・・・。」

 現代で言うところの認知障害、その初期症状だ。脳という器官の微細な不具合が、人間の心を変質させていく。家の者は単なる「意地悪な姑のワガママ」としか捉えていないが、これは医者という玄人が介入しなければ、いずれ家庭が崩壊する。そして、こういう状態の患者に対し、下手な正論で否定することは最も治療から遠ざかる禁忌であった。

 「お前さんはよく頑張っているよ。だがな、苦労を本当に理解させるためには、次からは出来るだけ嫁とともに台所に立つことだ。お前さんの長年の『塩梅』を、横で教えてやるんだ。互いに手を動かし、意見を言い合う。そうすれば、あの嫁さんもお前さんの偉大さが解るはずだ。」

 「そういう物かねぇ?」

 「そうだ。片方に任せきりにするから、味のズレが揉め事になる。共にやることで、互いの苦労が身に染みるというものさ。」

 目の前には親子ほど年下の若い医者。だが、その眼差しには絶対的な包容力があり、言うことは至極もっともだとお常婆さんは深く納得したように、何度も何度も頷いた。

 「解りましたよ、先生。アタシだってあの嫁が憎い訳じゃないんだ。少し、やり方を変えて努力してみますよ。」

 「そうしな。では、いつもの薬を出すよ。」

 お常の持病である高血圧症をコントロールする為の薬を手際よく調合していく。そしてのぼせや頭痛、便秘を改善して肝の昂りを抑える「大柴胡湯(だいさいことう)」。そして、不安や不眠、神経症的なイラつきを緩和する「柴胡加竜骨牡蛎湯さいこかりゅうこつぼれいとう」。これらを絶妙な比率で調合した天竜堂特製の漢方薬だ。それを受け取ると、お常婆さんは銭差しでカチリとまとめた十六文をしっかりと机に置き、憑き物が落ちたような顔で帰っていった。

 「老耄が始まったとはいえ、金払いだけは普段と変わらん。生活の型はまだ崩れていないな。……ならば、まだ手遅れじゃない。」

 凌庵はその十六文を見つめながら、静かに息を吐いた。

 お常婆さんの次に診察室に入ってきたのは、地回りのヤクザ者と大喧嘩をして担ぎ込まれた魚屋の銀次だった。一心太助を気取った喧嘩っ早さで、烏の鳴かぬ日はあっても、棒手振り銀次が拳を振るわない日はないと言われる近所でも有名なトラブルメーカーだ。

 「またお前か、銀次。」

 凌庵が心底呆れた声を出すと、銀次は血塗れの頭を掻きながらへらへらと締まりのない笑みを浮かべた。

 「へへへ、面目ねえ。町娘に割り込みで絡んでやがった地回りをぶちのめしたら、ちょっとドジッちまいやして。」

 「馬鹿者が、いい加減に懲りろ。」

 凌庵はピンセットで傷口を洗浄すると、オランダ製の鋭い縫合針を手に取り、ざっくりと斬られた銀次の頭皮を躊躇なく縫い合わせていく。

 「痛ってえええええーーー!!!」

 診療所に銀次の絶叫が木霊するが、凌庵は眉一つ動かさず、凄まじい速度で縫合を終えて包帯を巻いた。他の患者ならば、悲鳴が聞こえれば不安の一つでも感じる物だが、お常の愚痴同様に銀次の治療もある意味名物なのだ。

 テキパキと治療を終え、金創膏を張り付けると銀次の悲鳴も止んだ。

 「これに懲りたら、少しは拳を引っ込めろ。次、脳天を割られたら、いくら俺でも繋ぎ止められんぞ。」

 「へ、へーい。先生、こいつは治療の御礼でさぁ。」

 銀次は懐から十六文を取り出すと、さらに天秤棒の桶の中から、今朝仕入れたばかりのピチピチと活きのいい初鰹をドスンと机に置いた。

 「鰹か。美味そうだな。」

 診療所は、今日も江戸の下町らしい人々の笑顔と泥臭い活気で満ち満ちていた。凌庵はその光景を、どこか愛おしそうに、そして遠い目で見つめる。彼自身、かつて時代の残酷な荒波に飲み込まれ、すべてを失いかけた身だ。だがそれに抗い、多くの奇跡に生かされて、今こうして医者として看板を掲げている。本来なら、このような平穏な風景を見る権利さえ奪われていたはずだった。だからこそ、長屋の住人たちの何気ない笑顔が、凌庵にとっては竜宮城の鯛や鮃の舞い踊りよりも、遥かに華やかで尊いものに見えるのだ。

 「・・・本日も、見事なまでに十六文の山ですね。」

 いつの間にか隣に立っていた彩乃が、憮然とした顔で小銭箱のカウントを始めていた。中には武家や豪商からふんだくった金銀の小粒や小判も混ざってはいるが、二十人以上の大行列を捌いた報酬としては、あまりにも不釣り合いだ。

 「先生、もう少しちゃんと薬礼を受け取ったらどうなのです? 銀次さんの外科手術も、おばあさんの長い世間話も一律で十六文。その上、払えない者には『ある時払いの催促なし』。これでは新しいオランダ製の医療器具どころか、先生の来月の酒代だって怪しいものですよ。少しは、相手の懐具合を見て値段を吊り上げるという商売人の知恵を持てないのですか?このままじゃいずれ・・・。」

 彩乃は口を尖らせてぶつぶつと小言を言うが、凌庵はどこ吹く風で、薬篭箱の整理を続けている。

 「まあ、いいじゃないか。十六文あれば、夜泣き蕎麦の一杯が食える。相手にとっても出しやすい値だ。なまじ吹っ掛ければ、貧しい長屋の連中は病を隠して死ぬことになる。それより彩乃殿、手が空いた時で良いからお常婆さんの息子夫婦の家へ伝言を頼む。」

 「えっ? 伝言ですか?」

 「ああ。これからは、出来るだけお常婆さんと共に台所に立つこと。そして、婆さんが作ったものは、どんな味であれまず『美味しい』と褒めてやることをな。あれは老耄になりかかっている。最初の対応を間違えて自尊心を傷つければ、引きこもって一気に老いさらばえる。家族の言葉こそが、何よりの薬だ。」

 「 全くもう、すぐにそうやって真面目な話にすり替えるんだから!」

 彩乃はぷっと頬を膨らませた。少しは自分の身体も心配してほしい、という彼女なりのもどかしさが、その怒り顔には詰まっている。

 「おーい、凌庵先生!居るかね?」

 彩乃の小言をかき消すように威勢のいい声と共に庭先へ入って来たのは、近所の百間長屋を仕切る大家の幸兵衛(こうべえ)と、その妻のお(とよ)だった。幸兵衛の手には、ずっしりと重いザルが握られている。

 「先生、これ、佃島の知り合いから融通してもらった蜆だ。身が大きくって美味いよ!」

 「こっちは畑で採れた大根。これでお味噌汁でも作りなさいな。」

 お豊もにこやかに風呂敷包みを差し出す。

 「済まねえな、いつもいつも。」

 幸兵衛はふと、彩乃の膨くれた顔を見てニヤリと笑った。

 「何だい彩乃先生、また先生の『お人好し』に愚痴を零してたのかい?」

 「だって幸兵衛さん! 先生ときたら仕事は丁寧ですけど、患者の愚痴にまで半日近く付き合って、これじゃあ商売になりません。この間だって、百間長屋の店子の店賃を肩代わりしたりしたんですよ!? 普段からタダ働き同然なのに、お人好しを通り越してただの馬鹿です!」

 バツが悪そうに頭を掻く凌庵。すると、幸兵衛はゆっくりと首を横に振った。

 「それは違うよ、彩乃先生。先生はただ働きをしてるんじゃねえ。この八丁堀に『情け』を貸してるのさ。そして、こうして俺たちが野菜や魚を持ってくるのは、その恩を、気持ちで少しずつ形にして返してるんだよ。」

 彩乃はハッとしたように机の上の初鰹と、瑞々しい蜆に目を向けた。 情けを気持ちで返す。貨幣のやり取りだけでは決して成立しない、江戸の下町に息づく強固な助け合いの絆。これが垣間見えた瞬間だった。

 「助け合い・・・。」

  彩乃が小さく呟くと、凌庵は桶で手を洗いながら悪戯っぽく笑った。

 「幾ら気持ちでも、幸兵衛さんのお小言だけは勘弁して貰いたいがな。」

 「おっと、こいつは一本取られたねぇ!」

 はっはっはと豪快に笑い出す幸兵衛夫婦の姿に、診療所の空気は一気に和んでいく。

 「まあ、せっかく来てくれたんだ。珈琲(カフェー)でも淹れよう。」

 凌庵は南蛮製の豆挽き器のハンドルをガラガラと回し始めた。芳醇な、しかし町人にとっては異質な香りが広がる。薬包紙に挽いた粉を入れ湯を注ぐと、黒い滴がポタポタと落ちていく。

 「最初は泥水かと思いましたが、今はすっかり慣れましたよ。」

 「慣れると、これなしでは朝が始まらんようになる。」

 幸兵衛が珈琲を啜る横で、彩乃はこれでもかと砂糖を投入していた。彼女はまだ、このオランダ由来の苦味には慣れていないようだ。

 人心地ついたところで、凌庵は幸兵衛に向けて、先ほどから気になっていた件を問いかけた。

 「幸兵衛さん。さっき患者たちが口々に言っていたが・・・三島屋の事件は、もう町中に噂が広がっているのか?」

 「ああ、三島屋の事件でござんしょ? 八丁堀の連中は早耳ですからねぇ。ですがね先生、気の毒だがあそこの旦那には、誰も同情しちゃいませんよ。一人娘が番頭と心中したってのに、がっくりした様子がありゃしねえ。それどころか、跡取りである兄貴の祝言が滞りなく進むかどうか、そればかり気にしてるって話です。」

 「番頭と浮名が流れるような娘なんて、家名の傷としか思ってないんだろうねぇ。情けねえ親もいたもんだよ。」

  お豊が眉間に皺を寄せ、吐き捨てるように言った。

 「三島屋は以前から黒い噂が絶えませんからね。」

 幸兵衛が声を潜めて続ける。伊左衛門の商売第一、非情なまでの独裁ぶりは有名だった。

 「おはつさんへの『躾』ってのが、まあ異常だったらしくてね。門限一つとっても尋常じゃなく、以前も想い合っていた男と無理やり仲を引き裂かれたとか・・・。あの店じゃあ、娘は人間じゃねえ。ただの『道具』なんです。」

 「道具・・・、ですか」

 彩乃の顔が曇る。凌庵は静かに珈琲を飲み干した。

 「ああいう歪んだ親に限って、すべては『子供のため』だと嘯くものさ。だがその実、子供を道具としてしか見ていない。上手く躾けている自分に悦に入るためのな。」

 「親子ってえのも、窮屈なもんですな。あんなろくでもねえ親なら、死にたくなるのも無理はねえ。・・・先生、検死をして来てどう思いました?」

 幸兵衛の鋭い視線に、凌庵はふっと目を逸らした。

 「さあな・・・、あとは役人の仕事だ。俺は同心ではないからな。」

 凌庵の瞳の裏に、顕幽閣の石台で見たおはつの姿が重なる。安らかというにはあまりに無念そうな、あの凍りついた表情。血を分けた父親に道具として扱われた娘が、最後に選んだのが「心中」という逃げ道だったのか。それとも、それを利用した凶悪な陰謀なのか。検使医の職分としては、見解を述べればそこで終わりだが、その結末が気にならないと言えば嘘になる。

 だが、凌庵には目立ってはならぬ事情があった。表立って功名を立てる気などさらさらない。 何より、彼には目の前の生きた患者を治すという、何よりも重い「医の義務」があるのだ。

 凌庵はおもむろに、腰の南蛮製懐中時計を開いた。

 「いかん、そろそろ往診の刻限だ。」

 「おや、お忙しいことで。どちらまで?」

 お豊の問いに、凌庵は使い込まれた往診鞄を手に取りながら答える。

 「向島の旗本、水谷無用斎様のお屋敷だ。」

 「うげえっ! あのクソジジイですか!?」

  彩乃が、これ以上ないほど嫌悪感を露わにした声を上げた。

 「おいおい、鶏が絞められたような声出すなよ。」

 「ですが先生! あの御仁は元勘定奉行という過去の栄光を鼻にかけて、これまでに何人の奉公人を理不尽に泣かせて追い出してきたか・・・! あの老いぼれは、まさに江戸の害悪です!」

 厄介極まりない老害、クレーマー患者に対して容赦なく毒を吐く彩乃。幸兵衛夫婦は笑いを堪えるのに必死だ。凌庵は薬篭箱を肩にかけると、彩乃を真っ直ぐに見つめた。

 「彩乃殿。助けて欲しいと願うなら、相手が犬畜生でも診るのが医者だ。かつて御典医の栗崎道有(くりさきどうう)先生は、天下の悪名高き吉良上野介(きらこうずけのすけ)様の傷をも平然と治療した。命の重さを、個人の好き嫌いで天秤に掛けることなど、あってはならないことだ。」

凌庵のその言葉は、彩乃の胸に深く突き刺さった。

 ――思い出されるのはあの日、この男に叩きのめされた、嘗ての傲慢な自分を思い出すからだ。

 三河以来続く名門医家・藤村玄瑞(ふじむらげんずい)の娘として生まれた彩乃は、かつて己の生まれの良さと才能を鼻にかけ、患者を身分や貧富で選別するような傲慢不遜な振る舞いを平然と行っていた。だが、その鼻を根元からへし折り、激しく叱り飛ばした男がいた。それが、父が幼少の頃から我が子同然に育てた弟子であり、弟の玄信(げんしん)とともに育った高柳凌庵だった。 持って生まれたプライドを完璧に砕かれた彩乃は、「いつかこの男を見返してやる」という強烈な反骨精神から、実家を出て天竜堂の看板を叩いたのだ。だが、あの日からどれほど時が経とうとも、凌庵のこの「医の絶対的正義」だけは何一つブレることがない。

 (・・・ふふ、本当に、この人は変わらない)

 彩乃は小さく吹き出し、観念したように自分の薬篭箱を肩にかけた。

 「何がおかしい? さあ、あの御仁を待たせると偏屈に拍車がかかるぞ。」

 「そうですね。無用斎様は三千五百石の御隠居。今度こそ『十六文』じゃなく、がっぽり黄金の薬礼を毟り取ってやりましょう!」

 ニヤリと不敵な笑みを浮かべる彩乃に、凌庵は「やれやれ」と肩をすくめ、初夏のじめついた風が吹く江戸の街へと一歩を踏み出した。

 「おっ、二八先生! 往診ですかい?」

 「二八先生! お陰様で親父の胃の腑がすっかり良くなりやした!」

 道を行く町人たちが、親しげに凌庵に声をかける。 凌庵はどんな大手術であれ、一律十六文の安値で患者を診察する。十六文といえば、夜泣き蕎麦と同額だ。夜泣き蕎麦は別名、「二八の十六文」で商うことから「二八蕎麦」と呼ばれており、凌庵はその安さに引っ掛けて「二八先生」という、およそ医者とは思えないふざけたあだ名で呼ばれていた。裏の顔を知る役人からは、死骸を見る「おろく医者」とも呼ばれる。 だが、そこには侮蔑など一切ない。すべては、この八丁堀の住人たちの深い親しみと信頼の裏返しだった。凌庵自身、この呼ばれ方を酷く気に入っている。

 栄耀栄華の暮らしなど、彼にとっては糞食らえだった。身の丈に合った、ささやかな暮らしの中で、目の前の命を救えればそれでいい。

 その無欲な生き方は、彼の壮絶な半生がもたらしたものだった。 凌庵は両親の顔を知らない。祖父・高柳道庵(たかやなぎどうあん)を養い親として育った。道庵の話によれば、医学の素養のあった母はある武家に見込まれ、病弱な正室の附女中として仕えていたが、やがて当主の寵愛を受けて凌庵を身籠もり、正室を憚って宿下がりをして自分を生むと同時に命を落としたのだという。それ以来、実の父親から声がかかることもなく、医者の子として育てられた。

 そして齢十歳の折、唯一の肉親であった祖父をも失う。当時、江戸を震撼させた「コロリ」の猛威。祖父・道庵は「生水を飲むな」「人混みに出るな」と正しい防疫措置を必死に訴え続けたが、それが死の恐怖に狂った庶民の目には、却って「不安を煽る混乱の種」と映ってしまった。暴徒と化した患者や住民は高柳家に火を放ち、祖父は炎の中で非業の死を遂げた。運よく生き延びた凌庵は、一瞬にして天涯孤独の孤児となったのだ。

 そんな彼を救い、医術のイロハを叩き込んでくれたのが、前述の奥法印医師・藤村玄瑞だった。道庵に恩のあった玄瑞は、凌庵を我が子と分け隔てなく育ててくれた。 その後、さらなる最先端の医学を学ぶため、凌庵は長崎へ遊学。フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの「鳴滝塾」に入門し、そこで驚異的な西洋外科手術を目の当たりにする。同時に、長崎奉行所の要請で死体の検死を行うオランダ医官たちの姿を見て、古来の東洋医学と西洋医学を融合させた検死技術を貪欲に吸収した。祖父・道庵の言葉が、彼の魂の根底に赤々と燃えていたからだ。

 『上医は国を医すもの。生ける者を治すのも、死骸の無念を晴らすのも、等しく医者の務めである』

 しかし、その蘭学の光は、暗黒の政治によって突如として遮られる。 国防上の最高機密である日本地図を持ち出そうとした「シーボルト事件」。これにより多数の学者が獄死・改易され、さらにその十年後、幕府の鎖国政策を批判した高野長英や渡辺崋山が捕らえられた「蛮社の獄」が勃発。蘭学弾圧の嵐が吹き荒れ、蘭学を修めた者は例外なく「大逆の徒」として日陰へ追いやられた。

 凌庵もまたその弾圧の巻き添えを食らい、あわや捕縛・極刑という危機に瀕したが、ある「強力な救いの手」によって極秘裏に助け出され、この八丁堀へと匿われたのだ。 筆頭与力の敷地を借りて暮らすというのは、実のところ、幕府役人の監視下に置かれているという体に良い「首輪」に過ぎない。

 だが、出世欲も権力欲もない凌庵にとって、そんな政治の思惑など眼中にすらなかった。 雨風を凌げる天井があり、毎日、蕎麦一杯の十六文と美味い珈琲があればそれでいい。身の丈に合わない贅沢な暮らしなど、彼にとっては窮屈極まりない監獄と同じなのだから。

 「さあ、彩乃殿。偏屈爺さんが痺れを切らす前に、ひと走りするぞ。」

 「もう、待ってください先生! 歩幅が大きすぎます!」

 梅雨の冷たい雨がぽつりぽつりと江戸の街を濡らし始める中、二八先生と生意気な助手は、力強く地を踏みしめて歩んでいく。

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