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ストレス発散の娯楽作品として書いており、極力時代考証はしておりますが、ストーリーの面白さの為に実在の人物の生没年や人間性、当時の年齢など歴史上伝わっている史実とはかなり相違点があり、内容にも少々無理のある描写がありますが、フィクションの御愛嬌として大目に見てください。他作品に酷似している部分もありますが、ご理解いただけますと幸いです。また作品への願掛けとして、実在の人物の名前を少し文字って使用して至りしておりますが、あくまで架空の人物です。念のため。

 「おぅ来たか、中へ入れろ」

 「へい。」

 下っ引きの文七に促され、その男は悠然と姿を現した。

 初夏を過ぎ、照り付ける強い日差しが容赦なく肌を刺す朝方のことである。天を仰げば、ギラギラと照り付ける太陽の光が江戸の黒土をじりじりと焼き、ねっとりとした不快な湿気がまとわりついて、息をするのも忌々しい。

 しかし、小石川養生所の広大な敷地の最奥、傾斜地にひっそりと佇む死体安置室「不帰ノ蔵(かえらずのくら)」へ一歩足を踏み入れれば、外の盛夏が嘘のように、独特の骨まで凍てる冷気と硝子を溶かしたような薬品の臭気が鼻腔を突いた。

 北町奉行所与力の近藤新太郎(こんどうしんたろう)と、十手持ちの江戸屋仁吉(えどやにきち)は待ちわびた様子でその男を蔵の中に招き入れる。入り口の前では、数珠を繰る住職の天海(てんかい)和尚、そしてこの養生所の責任者であり肝煎医師の稲垣蓬洲が佇んでいた。蓬洲は、養生所の創始者である小川笙船の縁戚に当たる高名な医学者だ。だが、その隣に並ぶ面々―合同調査を命ぜられた南町奉行所筆頭同心の村上伝助(むらかみでんすけ)と、その配下の御用聞きである鳥越(とりごえ)権蔵(ごんぞう)は、明らかに不機嫌そうな面持ちで、まるで障壁のように立ち塞がっていた。

 「ハァ・・・、来たか。」

 怪訝な面持ちで、蓬洲が声を掛ける。 幕府直轄の養生所に、町奉行所の役人が顔を出すのは珍しい事ではない。だが蓬洲は、この二人のことを決して歓迎していない様子だった。特に伝助は蛇蝎を見るような目で、大袈裟に溜め息をついてみせる。

 「近藤の若旦那ァ・・・、またその曰く付きのおろく医者を引っ張って来たのですかい? 北町は余程人手が足りんと見えますなァ。」

「村上殿、これは御上も重きを置く大切な御役目ですぞ。身元の如何を問う場ではありませぬ。それにこういう事に長けた人間は、私は他に知りませぬ。」

 新太郎がキリリと眉を吊り上げて反論するが、伝助は取り合わない。 「はいはい、仲の宜しいこって。まあ、そのオランダ崩れの青二才がどこまでやれるか、精々見物させてもらいましょうや。」

 「まあ、好き好んで死骸(おろく)を弄繰り回す医者なんて、他にいませんからねぇ~。」

 権蔵があからさまに若年の新太郎らを見下し、下卑た笑いを漏らす。

 だが役人どもの醜い小競り合いなど、新太郎が連れて来た男―高柳凌庵(たかやなぎりょうあん)にとっては通り犬の遠吠えにも等しかった。彼は黙って蓬洲と視線を合わせ、挨拶代わりに軽く会釈をする。やや乱れた馬の尾のような総髪に、紺色の十徳、そして無造作に穿いた袴。片手には年季の入った南蛮物の薬篭箱を提げている。身の丈は六尺近く、並み居る男たちの頭一つ分ばかり抜き出ていた。顔立ちは深く精悍で、まさに美丈夫という言葉が似合う端正な外見をしながらも、その素浪人然とした佇まいのせいで、どこかみすぼらしく見える。だがその無精さの奥底に、隠しきれない高貴な上品さと気品が、色香のように漂っていた。

 蓬洲と凌庵は、親子ほど年が離れてはいる。二人を包むその空気感は実の親族のように気心が知れている。

 「おぅ、朝早くからご苦労だのう。」

 「とっつあん、朝早くから騒がせて済まぬ。」

 「お互い様じゃ。全く御役人は我々を都合よく使うのぅ。」

 「まあ、不自由はしていないよ。」

 「なら良いがなァ。」

 凌庵は八丁堀岡崎町と竹島町のちょうど間に居を構える蘭学医である。「天竜堂診療所」という大層な看板を掲げてはいるが、その実一介の町医者に過ぎない。凌庵がこの八丁堀に住み着いてから、まだ年月はそう経っていなかった。

 近隣の住民は、最初はこの若い医者をひどく疑っていた。噂では幕府の奥法印医師と所縁があり、あのかのシーボルトの門下として長崎の鳴滝塾で最新の蘭学を修めたというとんでもない本格派だという。だが、そういった大袈裟な看板を掲げるもの程、実は見掛け倒しだというのは世の常だ。おまけに凌庵は年若く、さらに幕府から睨まれた蘭学弾圧事件の渦中にあるシーボルトの弟子とくれば、周囲の人間が邪推するのも無理はなかった。

 しかし、その懸念は瞬く間に杞憂と化した。凌庵の医術の技量は、まさに看板に偽りなし。他の町医者など足元にも及ばぬほどに抜きん出ていたのだ。他人が匙を投げるような困難な外科手術も難なくやってのけ、血肉の飛び散る目を背けたくなるような治療も、一度として拒否した試しがない。そればかりか、本草学、鍼灸、整骨にいたるまで、あらゆる医術の素養を網羅していた。

 これほど万能な名医であれば、さぞかし治療費も高かろうと誰もが身構えた。だが、それも裏切られた。金のある武家や豪商からはそれなりにふんだくるが、貧しい長屋の住人には「ある時払いの催促なし」が当たり前。どれほど手を尽くしても、十六文以上は受け取らない。十六文といえば、屋台の蕎麦一杯と同然の安値だ。「上手くて、安い」という評判は光の速さで江戸中に広まり、上は旗本から、下は夜鷹や泥水に生きるごろつきまで、天竜堂の敷居を跨ぐようになった。

 患者たちから不満の声が聞こえたことはない。強いて言うなら唯一、彼には致命的な悪癖があった。かつての平賀源内(ひらがげんない)よろしく、知的好奇心に駆られると、奇妙奇天烈な実験をせずにはいられないのだ。新しい薬草の調合や、エレキテルを模した妙なカラクリ機械を造っては、「物は試しだ」と、たまたま居合わせた知り合いや患者を巻き込む。決して人体実験の類ではなく身体に害はないのだが、とにかく危なっかしくて仕様がない。

 「具合が悪いなら、天竜堂の二八先生に診てもらいな」

 そう勧められて命を救われた長屋の連中は、一様に安堵した後に決まってこう溜め息をつく。

 「あの『物は試し』の悪癖さえなけりゃあ、最高の生き仏様なんだがねぇ。」

 その巷での圧倒的な名声こそが、この小石川養生所にスカウトされる決定打となった。養生所は外科二名、本道(内科)二名で構成され、幕府直轄の寄合医師や小普請医師の中から医療スタッフが任命される習わしだった。しかし、時代が流れるにつれて患者は増大。その一方で、重労働の割に実入りが極端に少ない養生所の任務は「医師の墓場」と忌避され、引き受け手が誰もいなくなるという慢性的な人材難に陥っていた。

 そこで幕府は対策として、町医者の中から特に優れた「鬼才」を呼び寄せる特例措置をとった。凌庵もまた、その技量を買われて養生所の闇を支える一人となったのである。

 無論生きた患者の診察も行うが、凌庵が本当に「必要」とされるのは、別の一件―患者を無償で救う養生所が、その裏に隠し持つ「もう一つの顔」の為である。

 「さあ、中へ入ってくれ。」

 「全く、朝早くから酷い事をする。」

 「済まねえな。権蔵じゃねえが、こういう厄介事に長けた医者を、俺は他に知らねえんでな。」

 「それは褒めているのか?」

 「無論だ、心から頼りにしている。」

 悪びれず人懐っこい笑顔を向ける新太郎と仁吉に対し、南町の伝助たちはいまだ怪訝な面持ちを崩さず、ねちねちと憎まれ口を零し続けている。

 「全くたまらねえや。オメエのキチガイ趣味に付き合わされちゃなァ。」

 「その通りですねぇ。あっしらも暇じゃねえってのに。」

 あまりの怠慢ぶりに、新太郎の語気が強まる。

 「口が過ぎましょう、村上殿! 凌庵先生も御役目ゆえに仕方なく・・・。」

 「しかしねぇ若旦那ァ、本心がどうかは解りませんぞ? この男は、何分『曰く付き』ですからなァ。」

  兼ねてより蘭学を嫌い、蘭学弾圧の黒幕とも噂される南町奉行の手先らしい物言いだ。凌庵は 「何時のものことだ」と一顧だにせず、今にも食って掛かりそうな新太郎の肩を片手で制した。

 「行こう、新さん。・・・死骸が呼んでいる。」

 蔵の重い木戸が開かれ、凌庵は冷気の満ちる奥の間へと誘われた。 今から彼が診るのは、生きた人間ではない。「死骸」である。 事件性の疑われる死骸の正式な弔いと、その徹底的な吟味は、幕府の御法でも定められた厳格な義務であった。蔵の中には、この日のために特別に誂えられた小さな氷室が置かれ、死骸の腐敗を遅らせる処置が施されている。屋敷のような構造を持つこの蔵は三つの部屋に仕切られており、凌庵はその最奥、集光鏡の鈍く光る「顕幽閣(けんゆうかく)」の中へと足を踏み入れました。

 中央に据えられた石台には、二体の死骸が冷たく横たわっている。 検使医――またの名を検屍官。謎に包まれた遺体が見つかった際、その皮膚や骨の微細な変化を調べ上げ、闇に葬られかけた真相を引き摺り出すのが彼の役目だ。もっとも、そんな大層な役職名は公には存在しない。町方の役人たちが「役名がなけりゃ呼び辛い」と勝手に付けた、いわば通称に過ぎない。非常時にのみ駆り出される非常勤の職であり、禄米をもらえるわけでもなければ、地位が上がるわけでもない。言ってみれば、金に困った偏屈な医者や学者が片手間に引き受ける、アルバイトのようなものである。

 しかし、その重責は計り知れない。この検使医のたった一言の見解が、それまで決まりかけていた捜査の結論を、根底からひっくり返すことさえあるのだ。

 ――死人に口なし。

 辞典を開けば、この言葉は「死者を都合のいい証人に仕立て上げ、無実の罪を着せる」という悪しき意味で記されている。人間、息の根が止れば何も訴えることはできない。怨霊となって祟るか、墓から蘇ってゾンビのような化け物にでもならぬ限り、己を殺した犯人を指差す術はない。だが、それは芝居小屋の中だけのファンタジーだ。現実の死骸は、言葉を発しない。

 だが、彼らの「声」を聞く手段は、確かに存在する。それこそが「検死」だ。

 当時、享保年間から数えて二百六十年の間に、一万以上の法が制定された。その中で検視がこれほど重視されたのは、被害者が受けた傷が原因で死んだのか、あるいは死因は負傷とは関係のない別の持病によるものか、医師の正確な知見が必要不可欠だったからである。もし変死者を内緒で届け出ず葬ったことが露見すれば、寺院には五十日間の閉門、親族には多額の罰金が科せられるほど、幕府は変死体の取り扱いに神経を尖らせていた。同十八年に出された御定め書きにも、「死者の郷国がわかれば、遠国であっても通知し、親類縁者が引き取りに来たら証文をとって引き渡すこと。身元不明ならば三日間さらし、病状を書いた札を建てて土葬にすべし。」と細かく規定されており、不審な死には必ず医師の立ち会いが求められた。

 嘗てこの立ち合いに応じた小石川養生所の創始者・小川笙船(おがわしょうせん)は、時の名奉行・大岡忠相(おおおかただすけ)に、ある危機感を訴えた。江戸の人口が激増するにつれ、行き倒れや心中、身元不明の変死体が急増。当時の検使は役人の「目視」に頼る部分が大きく、毒殺を病死と見誤るような恐ろしい冤罪が多発していたのだ。

 「裁きに誤りがあっては、死者も浮かばれぬ。」

 忠相はすぐさま、八代将軍・徳川吉宗に直訴。医学の力で「死者の声」を正確に聞き取るための特務機関の設立を打診した。承認を得た笙船は、幕府の蘭学振興を担っていた「甘藷先生」こと青木昆陽(あおきこんよう)や、本草学者の野呂元丈(のろげんじょう)を招聘。長崎から極秘裏に入手した蘭方医学の知見と、古来の東洋法医学を融合させるための聖域を設計した。それがこの「不帰ノ蔵」、この「顕幽閣」が存在した理由である。

 中央に鎮座する重厚な石造りの解剖台には、血抜きの溝が深く刻まれている。天井を見上げれば、オランダから輸入された特殊な反射鏡を組み合わせた集光装置が怪しく鈍い光を放ち、昼間は太陽光を、夜間には数十本の蝋燭の火を一箇所に集め、執刀部位を白日の下に晒す。 壁一面には精密な人体解剖図が掲げられ、その隣の「黙示棚(もくしほう)」には、過去の凄惨な事件で取り出された不自然に損傷した臓器や、骨に突き刺さった弾丸などが、琥珀色のアルコール液の中に浸され、沈黙の証言者としてずらりと並んでいた。宝暦年間に山脇東洋が日本初の腑分けを行い、杉田玄白(すぎたげんぱく)らが『解体新書』を翻訳したことで、医学が闇を照らす力は飛躍的に向上した。そのすべての先人たちの知識が、いま凌庵の頭脳に脈々と息づいている。

 「死骸の身元は神田麴町の呉服商、三島屋伊左衛門の娘で名はおはつ。弱冠十七。男の方は三島屋の番頭で名は甚助(じんすけ)、齢三十二。第一発見者である定町廻りの話では、甚助がおはつを絞め殺し、自らも罪の意識から梁に縄をかけて首を括ったという事だ。要するに、よくある痴情の縺れによる相対死だな。」

 新太郎の丁寧な説明を聞きながら、凌庵はすでに十徳の袖を無造作に捲り上げ、死骸の観察を始めていた。彼にとって、この冷たい肉体は、生前よりもはるかに饒舌に真実を語る「書物」そのものだった。

  傍らで聞いていた蓬洲は、「相対死」という言葉に鋭く反応した。

 「相対死? 心中ですかな。」

 「はい、その可能性が濃厚です。」

 「だとしたら、三島屋はただでは済みませぬぞ。」

 蓬洲の言う通りだった。これがもし相対死――心中自殺であった場合、遺された遺族には地獄が待っているのだ。当時、戯作者の近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)などの戯曲によって「現世で結ばれぬのなら来世で」と著しく美化され、それに影響されて心中が流行していた。しかし幕府は「風俗の退廃」であり、延いては「治世を憂いて死ぬという政治批判」に繋がるとして、最大の御法度であるとしていた。そのため、相対死は不義密通と同等の厳罰に処された。一人が生き残れば死刑、二人とも生き残れば晒し刑ののちに人間以下の身分に落とされ、その罪と恥辱は遺族にまで連座したと言う。

 蓬洲は、またしても町方から厄介な政治の火種を持ち込まれた凌庵に、同情混じりの視線を向ける。

 「全く、如何に大家の頼みとは言え、安請け合いし過ぎではないか? それに養生所を、あまり血生臭い用事に使わんで欲しいわい。」

 「蓬洲先生ぇ、おいら達を疫病神みてえに言わねえでおくんなさいよォ。」

 「左様、これも御役目なのです。御迷惑は掛けませぬ故にご了承を。」

 仁吉と新太郎がそれぞれの口調で宥めるが、蓬洲は鼻で笑う。

 「凌庵殿、養生所はただでさえ出費がかさむのだ。早々にな。」

 「解ってますよ、とっつあん。・・・じゃあ、始めるぜ。」

 凌庵は左手に付けていた数珠を外し、掌に掛けて静かに目を閉じて拝んだ。これが、彼が検死に入る前に必ず行う、死者への儀式だった。

 この二体の死骸は、山王権現の宮司が山林の土手で発見したものだ。おはつは納棺前の遺体のように綺麗に手を組んだ状態で草むらに横たわり、そのすぐ傍の木から、甚助が首を吊ってぶら下がっていたという。

 水無月の中頃といえば、天下祭りと名高い「山王祭り」の真っ最中である。江戸の守り神である山王権現を讃えるこの祭りは、近年、幕府の政策によって奢侈禁制が喧しいこの時世にあっても例外として、武家屋敷はおろか江戸城内への神輿の立ち入りすら許されるほどの華やかさを放っていた。

 その徳川将軍家ゆかりの神聖な祭りの最中に起きた、不吉極まる変死体。寺社奉行の阿部伊勢守正弘はすぐさま南北町奉行所を招集し、早期解決のために管轄を超えた特命調査を依頼したのだ。その結果、若輩ながら吟味を任された新太郎が現場に臨場し、信頼を置く凌庵をここに引っ張ってきたというわけだ。

 凌庵はまず、おはつの亡骸を確認した。確かに人の手で強く絞められたと思われる生々しい痣が残っている。十中八九、彼女の息の根を止めたのはこの番頭の手だろう。

だが、凌庵が次に甚助の死骸に注目したとき、強烈な違和感が彼を捉えた。

 「ふむ・・・。」

 凌庵は慣れた手つき、玄人目で死骸を吟味する。

 男の手には、一切の傷がなかったのだ。通常素手で首を絞め殺される場合、被害者は死に物狂いで抵抗し、犯人の腕をひっかいてその爪の間に肉片を残す。だが、甚助の腕は滑らかそのものだった。

 おはつが抵抗を一切しなかったと言うのか。それとも、自死と見せかけた他殺なのか。

 更に謎を解くべく、凌庵はおはつの衣服の下、その下腹部へと手を滑らせた。長い指先で慎重に触れ、わずかな抵抗と、独特の弾力を確かめるように軽く圧をかける。

 「何てこった・・・、女の方は子を孕んでいるな。二月か、三月といったところだ。」

 「何だと!?」

 新太郎が驚愕のあまり声を裏返した。女が新しい命を宿していたという決定的な事実は、絶望の果ての心中という町方の見立ての足元を、根底から覆すものだった。

 「命を宿しながら、生まれることすら出来なんだか・・・。」

 下腹部から手を離すと、不意に凌庵の鼻腔を何かの匂いが刺激した。この顕幽閣の中では決して香って来る事はない、香木と言うか香り水の様な香しい香りだった。年頃の娘だから、匂い袋でも持っていたのだろう。その時の凌庵はそう考え、特に気にはしなかった。

 凌庵の目は甚助の方に向いていた。もし女が身重であったのなら、人の手が加わったことは確実だ。だが、望まぬ妊娠の口封じに男が殺したのなら、なぜ男まで首を吊る必要がある。横恋慕の果ての無理心中という仮説も浮かぶが、凌庵の脳裏には、甚助もまた別の「誰か」の手にかかったのではないかという仮説が明滅していた。

 しかし、甚助にも目立った抵抗傷はない。だが、よく目を凝らすと、首元の縄の跡の他に、僅かに重なるような別の歪な絞め跡が見て取れた。

 「ひょっとして、見えぬ痣が隠されているか・・・。」

 凌庵は持参した薬篭箱から、擂鉢で丁寧に練り上げた特製の練り薬を取り出した。白梅の果肉、甘草の根、葱白、粗塩、そして山椒の果皮を絶妙な比率で調合した、独特の酸味と刺激臭を放つ泥状の薬である。これを甚助の首周りから胸元、そして両腕の体幹部へと、躊躇なくまんべんなく塗布していく。その上から、発酵した酒糟で厳重に覆い、大きな金創膏を張り付けた。かの河合甚兵衛尚久かわいじんべえなおひさが和訳した日本最古の法医学書『無冤録述』に記された、時間の経過とともに消え入りそうになった皮下出血を、薬物の刺激によって人為的に浮き上がらせる「験屍」の秘術であった。文字通り「冤罪を無くす」ための先人の知恵だ。

 「おいおい、何を遊んでいる。そんな泥んこ遊びか呪術まがいの事で、死人が喋るとでも言うのかよォ。」

 南町の鳥越の権蔵が鼻を鳴らして嘲笑うが、凌庵はやはり一瞥もくれない。

 「兄ぃ、こいつは薬なのかい?」

 仁吉が尋ねると、凌庵は手を休めずに淡々と応じる。

 「そうだ。こうすると、死体の中に隠された、目立たなくなった痣が浮き出てくるんだ。」

 「へえ、粕漬でも作ってるのかと思いやしたよ。」

 「馬鹿、そんな訳ねぇだろうが。」

 素っ頓狂なことを言う文七の頭を、仁吉が小気味よく小突いた。

ふと気が付くと、隣に立つ新太郎の血色がみるみる悪くなり、今にも倒れそうに小刻みに震えていた。新太郎は昔から、血や死骸の類が極端に苦手なのだ。

 「新さん、嫌なら見ない方がいいぞ。ここで倒れられては敵わん。」

 「・・・心配、ない。これも、与力としての修行だ。」

 蒼白な唇を噛み締め、じっと死骸を凝視し続ける新太郎。修行と言えば聞こえはいいが、単なる強情っ張りにも見える。

 凌庵はただその場に立ち、懐から南蛮物の懐中時計を取り出し、静かに時を測った。顕幽閣を張り詰めた沈黙が支配する。

 四半時(約三十分)が経過した頃、凌庵はおもむろに立ち上がり、甚助の肌から金創膏と酒糟を勢いよく剥ぎ取った。

 「こ・・・、これは!?」

 「やはりそうか。」

 思わず絶句したのは、後ろで静観していた蓬洲だった。 甚助の首から肩にかけて、どす黒い漆黒の痣が、まるで皮下に巣食う生き物のように鮮やかに浮かび上がっていたのだ。それは、自ら首を括った際にできる一本の綺麗な縄の跡ではない。背後から別の人間が力任せに押さえつけ、太い縄で窒息するまで締め上げたことを示す歪な複数の指の痕跡と、激しく擦れ合った二重の擦過傷、そして背中を強く固定されたような足跡であった。

 「どうだ先生、何か出たか?」

 「新さん、あんたの考え通りの結果だ。自害ではない、これは明確な『殺し』だ。この痣が何よりの証拠だ。」

 凌庵の細い指が、浮き出た黒い痣をなぞった。

 「背中を足か何かで押さえつけて後ろに締め上げ、もう一人の片方が暴れる両手を押さえつけて動きを封じたのだろう。おはつを殺した真の下手人が、仲間を募ってこの番頭を殺し、そのあとで死体を木に吊るして相対死に見せかけた。つまり、偽装だ。」

 「本当だ、無かった痣が浮かび上がっている。」

 「これは、兄貴の言う通り、お上の見立ては大間違いだな。」

 仁吉と新太郎は、甚助の身体に刻まれた「死者の告発」を見て、これが心中などではないことを確信した。

 しかし、南町の伝助は、バツの悪そうな顔をしながらも、なおも冷笑を浮かべて言い放った。

 「痣だぁ? 木にぶら下がってたってんなら、どこかにぶつかって出来たのと何が違うってんです。」

 「流っ石旦那、御明察!」

 権蔵が太鼓持ちのように同調する。

 ――此奴ら、本当に役人か?

 凌庵は内心で呆れ果てていた。彼らとて場数を踏んだ南町のベテランだ。この手法が、幕府も認める医学書に基づいた正規の検屍技術であることくらい、知らぬはずがない。ただ、相手に難癖を付けたいがために、軽はずみな言葉を吐いているのだ。バツが悪くて捨て台詞をほざく無様な姿は、役人というより不貞腐れて文句を言う悪ガキのそれだった。

 「村上さん」

 見かねた新太郎が、鋭い声で割って入った。

 「凌庵先生はこの道の玄人だ。気に入る気に入らないは勝手だが、少しは意見に耳を傾けたらどうだ!」

 「別に疑っちゃいませんよ、私なりに意見をですねェ。行っちゃあ悪いが、凌庵先生はまだまだお若え。年嵩の意見も必要と思いましてねえ……。しかし近藤様も御気の毒に。オランダ崩れの青二才の意味のねえ悪戯に付き合わされちまって。」

 「無意味ではないと言っている!」

 一回り以上も年上の伝助に対し、新太郎は一歩も引かずに語気を強めた。

 年上のアドバイスなどと調子のいいことを言っているが、その本質は虫の好かない相手への難癖だ。伝助の嫌味は、凌庵だけが的ではない。キャリア組の若きエリート与力・新太郎への、叩き上げ同心としての嫉妬と嫌がらせだった。

 与力と同心は、生まれながらにして身分が固定されている。株の売り買いでもしない限り簡単に身分は変えられない。どれほど場数を踏み、筆頭同心まで上り詰めようとも、伝助は三十俵二人扶持の小役人に過ぎない。対して新太郎は、奉行の右腕として他の与力同心を差配する筆頭与力の息子。ノンキャリアの意地と、若きエリートのいがみ合いは、いつの時代にも存在する、醜い組織の縮図だった。

 すると、それまで沈黙を守っていた蓬洲が、静かに一歩前へ出て凌庵を庇った。

 「村上様も御人が悪い。この凌庵は『無冤録述』を正しく修めた者。幾ら若年とはいえ、適当な事は申しますまい。」

 「・・・左様か。」

 伝助の顔がわずかに引き攣る。

 「儂も、ここで骸の検分が行われることを本心から良しとしている訳ではありませぬ。しかし、凌庵殿のやっていることが無意味な悪戯でないことくらいは、誰よりも知っているつもりです。」

 「ふう・・・。御典医として場数を踏まれ、御上より直々に肝煎医師に任命なされた蓬洲先生の御言葉なれば、間違いはございませんなァ。」

 相手の肩書きを見るや、手の平を返して態度を変える伝助の姿の、なんと無様なことか。だがその助け舟のおかげで、ようやく顕幽閣に静寂が戻った。

 「兎に角、新さん。俺が医者として出来るのはここまでだ。あとはお前さんたち役人の仕事だぜ。」

 「解った。あとは任せてくれ。」

 「それからな、新さん。仁吉もよく聞け。」

 凌庵は、あからさまに敵視してやる気のない南町の連中を完全に無視し、北町の二人にだけ顔を近づけて声を潜めた。

 「女が身重であったという事実。これが、殺された最大の要因の可能性がある。・・・それと、もう一つ。」

 凌庵の鋭敏な嗅覚が、おはつの遺体の襟元から漂う、わずかな違和感を捉えていた。

 「この死骸の胸元から、奇妙な花の香りがする。伽羅や香木じゃない。脳を狂わせるような、人工的で妖しい匂いだ。これの正体も、視野に入れておいた方がいい。」

 「何と・・・気の毒な事だな。解った、視野に入れよう。とにかくご苦労だった。」

 新太郎が痛ましそうに遺体を見つめ、深く頷いた。

 「では、診療所に患者がそろそろ集まる刻限だ。私は失礼させてもらうぜ」

 凌庵が十徳の袖を戻しながら立ち上がると、蓬洲がその背中に苦笑いを向けた。

 「おう、ある時払いの催促なしも結構だがな、凌庵殿。うちへの店賃のことも、忘れるでないぞ?」

 「解っているよ、とっつあん。」

 背後からは、伝助の苦し紛れの捨て台詞が投げかけられる。

 「やい青二才、調子に乗るんじゃねえぞ! テメエみてえな曰く付きは、何時でも牢屋に叩き込めるんだからな!」

 凌庵はそんな脅しを馬耳東風と決め込み、気怠げに首を回しながら、顕幽閣、そして小石川養生所を 後にした。

 昨今、江戸の街を騒がせる「蘭学弾圧」の不穏な嵐により、かつて杉田玄白や山脇東洋らが命懸けで切り拓いた「腑分け」の技術は、今や幕府の手によって厳しく制限され、滅多に行われることはない。腑分けだけでなく、外科治療そのものが規制の対象とされていた。それが傷病に苦しむ患者を救う唯一の術であったとしても、例外は認められない。医療の光は、政治の闇によって遮られつつあった。

 だが、高柳凌庵は止まらない。

 お触れ書きがどれほど厳しかろうと、役人がどれほど目を光らせようと、彼は手元にある限りの蘭学の知識と、古来の秘術のすべてを用いて、理不尽に奪われた「死者の声」を、その冷たい肌から貪欲に聞き取り続けるのだ。それが、生きる者をも狂わせる、江戸の巨大な闇の幕開けになるとも知らずに。

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