序
本作は実際の江戸後期・天保年間をモデルにしたフィクション作品です。時代考証はしてありますが、ストーリーの面白さを重視している為、相違点も見られます。また、登場人物の名前は実在した著名人と酷似していますが、人物像をモデルにした架空の人物です。拙い部分は多々見受けられますが理不尽な批判、誹謗中傷はご遠慮ください。何卒悪しからず。
その騒動は、正に青天の霹靂だった。点がそれを物語っていた。雲一つなかった青空には、薄曇りの暗雲が立ち込め、代わりに雷鳴が地を穿つ。小十人組頭の吉永十蔵の頬を伝う汗が、風に吹かれた雨と混じり合い顔を塗らす。目の前には、烏の如き黒装束に身を包んだ刺客たちが切っ先を向ける。小十人組に属する番士が地面に倒れ、何人かは既に息絶えている。血生臭さが漂い、それが鼻腔を刺激する。
真っ先に一触即発、しかし多勢に無勢。勝利は目に見えていた。
江戸の農地である目黒は、徳川将軍家が鷹狩りを行う「御鷹場」として有名、特に「目黒筋」と呼ばれる区域が駒場野や碑文谷周辺に広がっている。嘗て三代将軍はこの地で百姓に秋刀魚を馳走され痛く気に入り、其れが後に滑稽噺のモデルになった事はつとに有名だ。
十二代将軍・徳川家慶の嫡男である大納言・徳川家定の一行が、この農地を訪れていた。目黒では、御世継が鷹狩に来たと言う噂が広まり、物好きな者はこっそりとその様を覗きに行っていた。家定は馬上で心細げに身体を揺らし、時折不明瞭な言葉を漏らす。家定は将軍家御世継、すなわち次期将軍に内定している。血筋で言えば何の問題も無いのだが、唯一身体的、精神的な問題があった。生まれつき病弱な上に言語不明瞭、その上人間嫌いで癇癪持ちと言う負のハンディキャップを持っており、幕臣の中でも家定は君主の器にあらずと言う噂が立つぐらいだった。家慶はそれを良しとせず、心身鍛錬の為にリハビリテーションの機会を幾つも設けていた。今回の鷹狩もまた、心身及び社交性を鍛える為の行事と言う訳だ。しかし家定にとっては、こうした行事は苦行でしかなかった。
ケンッと言う音がこだました。近くで雉でも鳴いているかと思った。何かが飛び出した。しかしそれは雉でも野兎でも無く、弓矢だった。
「ひえっ!」
それまで将軍の子として威厳を保っていたが、突然の弓矢に情けない声を上げ落馬した。その直後、「ぐぁっ」と言う近習の鈍い悲鳴が聞こえたかと思うと次々とその場に倒れた。番士の体には、まるで針山の様に弓矢が突き刺さっていた。
番士らが倒された直後、目の前に黒ずくめの忍び装束に身を包んだ集団が飛び出して来た。何れも只ならぬ殺気を醸し出している。
生き残った近習の一人が、身震いをしながら刀を構える。
「貴様っ、何者じゃ!?」
「御世継様御逝去は世の定め、御命頂戴。」
「囲いを解くな!御世継を守れ!」
円形に取り囲まれる輪の中で家定は腰を抜かしながらも、震える手で白柄の刀に手を掛ける。しかし、体が強張ってどうにも抜く事が出来ない。帯同した書院番の男谷精一郎信友は、唯一洗練された剣技で刺客共を斬り捨てる。だが、如何に名立たる剣客として知られる精一郎とは言え、大勢と相対するのには限界がある。加えて生ぬるい雨が体を冷やす。悪い条件がそろっている。
「流石は聞こえた剣客・・・、ならばこれならばどうだ。」
頭目と思わしき者が、懐から回転式の短銃を構えた。剣と銃器では、圧倒的に剣の方が分が悪い。以下に剣の達人であろうと、鉛玉の前には太刀打ちできないのだ。
「これまでか・・・。」
死を覚悟した精一郎、誰もがそう思った。しかし、一向に銃弾は発射されない。
代わりに「ギャッ」と言う鈍い悲鳴が聞こえたかと思うと、頭目は短銃を落とした。右手の甲には深々と小柄が突き刺さり、おびただしい血が流れていた。
「な、何奴!」
「生憎、其の方らの思惑通りにはならんぞ?」
目の雨に現れたのは、見事にな白馬に跨った侍だ。白い宗十郎頭巾に白装束、腰には白と金糸の混じった白柄の大小。うす辛い空の下には不釣り合いの男が立っていた。
「何だ貴様・・・。」
刺客の頭は睨みつける。そして驚愕した。白装束の紋所は三つ葉葵、徳川宗家の家紋。誰もが平伏す、絶対的権力の象徴である。
「葵幻之介・・・こちらにおわす御方の、守り本尊とでも言っておこうか?」
「ふざけた事を、死ねっ!」
黒ずくめの頭と思われる者の号令を聞き、配下たちは一斉に幻之介に斬りかかった。
「ヤアー!」
「トオー!」
掛け声と共に繰り出される剣撃を右に避け左にいなし、刀を合わせる事無くすれ違いざまに剣撃を見舞う幻之介。一人、また一人と黒ずくめの刺客たちは切り倒されていく。気が付けば、頭を入れて二人になっていた。
「くっ・・・、引けっ!」
その場に切り倒された配下達を見捨て、身を翻す様にその場から立ち去って行った。暫く面を食らっていた侍大将は、地面に突っ伏す刺客たちに目をやる。驚いた事に、刺客たちは全て重症ではあるも命まで取られていなかったのだ。
「一命は残しておいた、何者か素性を聞くが良かろう。」
「助太刀、感謝致す。」
「御免。」
「待たれい」と言う生き残った近習の止める声も利かず、幻之介は白馬に跨り足早に立ち去った。
新番頭は刀を収めながら、立ち去る幻之介を見送った。
この一件は、江戸城内で騒動の原因となった。
◆◇◆
「御世継様・・・、家定様・・・。」
御世継、家定が戻ったと聞きつけた老中首座の水野越前守忠邦は西の丸へ足を運んでいた。家定は布団を被り、ぶるぶると震えていた。家定に膝枕を貸し、その傍では大奥上臈年寄であり家定の乳母である歌橋が、我が子を甘やかす様に宥めていた。
「越前殿、何用でございますか?」
「目黒の地で刺客に襲われたと耳にし、ご尊顔を拝しにはせ参じた次第。」
歌橋は忠邦の訪問を歓迎してはいない、むしろ招かれざる客として怪訝な表情を向けてくる。
—また甘やかしておるか。
将来の君主の堕落した姿に、忠邦は改めて落胆した。その態度を悟られては事だ。忠邦はあくまで態度を変えず、ポーカーフェイスを決め込む。若君の御顔色は如何か、せめて一目と忠邦は声を掛け続ける。しかし、家定はこちらを見ようとはしなかった。目黒での事件以降、家定はこの西の丸から出てこようとはしなかった。三度の飯にも口を付けず、婚姻が内定した鷹司任子との対面も拒否する有様。
「若・・・、越前殿が参りました・・・。」
「あ・・わぬ・・・、か・・え・・れ・・・。」
歌橋の質問に、家定は拙い言葉で答える。
家定が忠邦を見ようとしないのには、理由がある。家定は歌橋にしか心を開こうとはせず、こうして西の丸に引き籠り歌橋の傍を離れようとはしない。まさにマザコンの引き籠りと言った具合だった。だが家定には、持って生まれた聡明さと言うか勘の良さを持ち合わせており、家臣共が自分に関してとやかく言っている事には察しがついており、人間嫌いに輪を掛けていた。中でもこの忠邦の事を家定は嫌っており、何度も対面を拒絶している。その理由に、忠邦は情け容赦の無い改革派で大奥の間でも良い噂は聞かれない。若年の家定の耳にもその噂は入り、一方的に嫌っていると言う訳だ。
「皆心配しておりまする、せめて一目ご尊顔を・・・。」
「去れっ!」
家定は突然癇癪を起こし、使っていた箱枕を投げつける。それは忠邦の右肩にぶつかった。鈍い痛みに顔を顰めたが、黙って平伏する忠邦。その様子を見て乳母の歌橋が「お世継ぎ様、お静まりを」となだめる。すると家定は、まるで赤子が拗ねたかの様に歌橋の膝に顔を埋める。
「水野殿、御控なされ。」
「御控えなされとは随分な物言い・・・・。」
「黙らっしゃい!御世継様は御心を痛めておる御様子、これ以上の尋問は無礼に御座ろう。姉小路様の申す通り、水野殿は血も涙もない政で知られる御方。まさか水野殿は、政の為には徳川家御世継の身も危うくする御つもりか?」
無礼呼ばわりをされ、此処まで誹りを受ける筋合いはない。
だが忠邦は反論一つしようとしない。対する歌橋は将軍家の御世継たる家定の乳母であり、大奥の中で幕政や幕府人事をも左右するほどの権力を持つ年寄の一人。大奥の歴々の中には、幕臣を汚らわしい物と見下す者も多かった。時には老中の首でさえ、簡単に挿げ替える事が出来るいわば女帝である。
「これはしたり・・・。」
江戸城の女帝の言葉にぐうの音も出ず、忠邦は二の丸を後にした。その最中、あからさまに呆れた顔で深い溜め息を付いた。
幕臣達はこれを重大事として、日々頭を悩ませている。
廊下で一人の幕臣とすれ違う。幕臣は目上の忠邦の前で跪いて、家定の様子を解いた。
「水野様、御世継様のご様子は如何で御座ろうか?」
「大事ない・・・。」
幕臣に家定の様子を聞かれるが、忠邦は多くは答えない。だが、その本心は深刻だった。
「あのお方は駄目やもしれぬ・・・」それが忠邦の抱いた本心だ。
江戸城本丸、御用部屋に集められた幕府閣僚達は深刻な面持ちだ。
外では激しい雨音、時々雷鳴がこだまする。まだ夕暮れにもならないと言うのに、まるで夜中を思わせる程の曇り空。それと同様に、江戸城には暗雲が立ち込めていた。奧から五番方と言われる将軍家の親衛部隊、目付、南北町奉行、若年寄、老中と言った幕府閣僚が鎮座している。その真ん中には、幕府の最高責任者たる大老の井伊掃部頭直亮、老中たる堀田備中守正睦が並んでいる。双方ともに、徳川将軍に成り代わって幕府を取り仕切る閣僚だ。
「御世継様襲撃とは、不届き至極。」
「天も恐れぬ大悪人、町方はどう対処なさる御つもりか?」
会議の忠臣にあるのは、町の治安を預かる北町奉行の遠山金四郎景元、南町奉行の鳥居耀蔵忠耀だった。まず口を開いたのは、耀蔵だった。
賊が横行しているのは、自身の役目たる町の治安維持が成されていない。つまり、職務怠慢を追及しているのだ。自身らの職務に自信があると言うなら、反論の一つでも出来よう物だが、今回はそうはいかない様だ。
「この一件は、市井の治安を預かる落ち度と恥じ入るばかり。」
「恥じ入るばかりでは事は解決せぬ、今後町方はどういたすつもりか?」
「一層取り締まりを厳しく致します。」
すると金四郎が、じろりと耀蔵を見る。
「鳥居殿はどうやら、他の取り締まりに懸命で肝心な部分が疎かになっている御様子。今一度、取り締まりの方法を見直した方が良いのでは?」
「遠山殿、それはどういう意味かな・・・。」
「改革に反する者の摘発も結構だが、それが返って歪んだ考えを持つ者を増やす事になってはいませんかな?今少し視野を広げられては・・・。」
「遠山殿こそ、相変わらず改革への反論に躍起になっておられる御様子。庶民の暮らしがどうのと、常日頃申されているが、今回の一件もそうした甘やかしが原因ではないかな?」
西の丸から戻り、上座へ座る水野忠邦へ目を向け耀蔵は不敵な笑みを浮かべる。
「両名とも、落ち着かれい。」
あからさまに金四郎を誹る耀蔵を、正睦がけん制する。議論の本題は家定に関する事だが、実態はただ政敵の揚げ足の取り合いだった。何時の世も、自分の意に反する者の落ち度を会議の場を借りて追及し、本題から逸れると言うのは同じである様だ。
本題そっちのけで、相手の落ち度を追及する耀蔵の態度に御側衆、御用取次役を兼ねる本郷丹後守信泰が言葉を投げかける。
「御一同、話が逸れておる。今はいがみ合っている場合では無かろう。」
将軍と幕臣の間を取り次ぎ、意見を伝える御用取次を通さねば老中ですら意見を伝える事は出来ず、時には将軍の意見すら取次を拒否する事さえあるいわばご意見番の立場にある丹後守。その大物の言葉に、金四郎も耀蔵も口をつぐんだ。
「直に南町の月番、だがこの際月番だ縄張りだと拘っている時ではない。南北力を合わせ、家定様のお命を狙ったものを突き止められい。」
「はっ。」と返事をする二人を、火付け盗賊改の長谷川兵庫が鋭い眼光でギロリと見て付け加えるように言う。
「御老中、町方の御役目は賊の捕縛だけにあらず。御用繫多、手が足りぬとあらば不詳、この長谷川兵庫が任に当たりまする。」
ハッキリと言っている訳では無いが、あからさまに町方をけん制する物言いである。
管轄範囲を指定され、生け捕りを原則とする町方と違って必要とあらば管轄、領土を越え罪人の斬殺権「斬り捨て御免」を認可されている火付け盗賊改と町奉行所の関係はすこぶる悪い。盗賊改配下の与力同心の中には、奉行所の与力同心を「町方風情」と蔑み、大して町方が「手柄泥棒」と揶揄するぐらいだ。
「お気遣い痛み入りまする。しかし、任せきりにするつもりは御座らぬ。」
兵庫のけん制を、金四郎がきっぱりと跳ね返した。すると暫く、御用部屋は重苦しい静寂に包まれた。
「にしても曲者を相手に、番士共が手も足も出ぬとはな・・・。」
「お恥ずかしい限り。」
番頭が老中から議論の場を利用して叱りを受けていた。正に公開処刑だ。
「以前も五番方に属する番士が、刀が重くて敵わぬと不平不満を言っていたとか。」
「何と情けない、それでも武士か。」
「上様も危惧されておった。」
配下の情けない有様に、ただただ番頭は頭を下げるしかなかった。
「しかも、事もあろうに葵の御紋を無断使用する不届き者に窮地を救われるとは・・・。」
幕閣は三つ葉葵を謎の剣士が使用していた事を問題視していた。徳川一族の家紋たる三つ葉葵は無断使用も悪用も厳禁とされ、一言誹ろうものなら一族郎党が厳罰に処される絶対的権力の象徴だ。八代将軍御落胤を自称した詐欺師の天一坊改行、三つ葉葵を盾に婦女暴行を重ねた葵小僧芳之助と言った葵の御紋を騙る犯罪者が存在し、幕臣達は白装束の剣士を葵の御紋を悪用する不届きものとして警戒の対象とした。
「本郷殿、上様はなんと申されておった?」
「窮地に備え、今まで以上に鍛錬の場を増やすべしとの事だった。」
「三つ葉葵の不届きものに関しては?」
「探索に及ばず、捨て置けと・・・。」
「何と無関心な・・・。」
「であれば我々だけで、事態を収束させるしかありますまい。まずはもし謀反人が現れた場合に備え、鍛錬を重ねるべきかと。」
「書院番の男谷精一郎様を指南番とし、番士を徹底的に鍛える。如何かな?」
「結構でござる。」
堕落した番士の対応は直ぐに終わり、議題は本題である御世継に関する話になった。この議題は長時間行われるも、突破口は開けなかった様だった。
暫くすると、代表して西の丸へ家定のご機嫌伺いに行っていた忠邦が戻って来た。
「水野様、御世継は如何で御座ったか?」
「御一同お察しの通り。」
「やはり歌橋様の傍を離れませぬか。」
「二の丸に籠り、対面を申し出ても出て行けとけんもほろろ。婚礼が内定した御簾中様も例外ではなく。」
「左様か。このままでは、とても将軍位は継承出来ませぬな。」
暫く沈黙が続く、すると他の老中の一人が口を開いた。それに関して、他の老中が食って掛かる。
「廃嫡しかないだろうのう・・・。」
「それは、時期尚早かと・・・。」
「もしもの時の話、直ぐにそう致すべしとは言っておらぬ。」
「もし御世継様の継承が叶わぬ時は、如何されましょうや?」
「やはり御三家、御三卿の親藩より迎えるのが肝要かと・・・。」
「しかしそれは時期尚早・・・。」
徳川家に限らず、現当主の実子が途絶えた場合、兄弟従弟ないし親族を養子とし継承させるのが通例だ。徳川家には尾張、紀州、水戸の御三家、田安家、一橋家、清水家の御三卿を筆頭に継承権を持つ近親者がいる。もし家定が駄目になった場合は、これらの御家から養子を迎える事になる。もし家定が廃嫡となった場合、早々に次を見つける必要がある。
暫く老中らの押し問答が続き、最後に忠邦が最後に強く言った。
「先ずは町方及び火盗力を合わせ賊の捕縛に尽力すべし。御世継様襲撃の下手人も、葵の御紋を悪用する者もな。よろしゅうございますか、御大老。」
殆ど忠邦が議論の場を仕切り、中央に座る大老の井伊掃部頭は返答を振られ「うむ。」とだけ答えた。会議と言うよりも、相手の落ち度を探る罵り合い。ただ不毛な議論が続いた。
「丹後、景元、世が指さす先には何が見える。」
「はい。」
江戸幕府十二代将軍、徳川家慶は側近たる丹後守に向かって言う。丹後守は主君が指さす先を見る。江戸所天守閣に立ち将軍が指差す先は江戸の街並みだ。丹後守の後ろには、呼びつけられた金四郎が控えている。
「この指が差す先には、どれ程の命が生きているのだろうな。」
「神君家康公の代より十二代、今や江戸にはあふれんばかりの民が暮らしている物と。」
将軍に成り代わって町の治安を預かる金四郎が答える。
それに家慶が返答する。
「江戸だけではない。この日ノ本六十四州だ。老若男女、数え切れぬ程の人々がそれぞれの暮らしを送っておる。徳川家の肩にはその数え切れぬ程の、生きとし生ける者の人生がかかっているのだ。」
「流石は上様・・・、天晴なるお考えで御座ります。」
「世辞は良い。だが着物と同じく、長い年月で随分綻びが出来た様だ。」
「綻びとな?」
「家定の事よ・・・。あ奴は今、様子はどうじゃ?」
将軍の言葉に笑みを浮かべていた丹後守は、家定の名を聞き表情を暗くした。
「自身に刺客を差し向けたのは幕閣にあると考えられ、閉じ籠ったままとか。様子を見舞いに参った御簾中様に対しても、出て行けと正にけんもほろろとか・・・。」
「それで、乳母の傍を離れぬ有様か・・・。」
「左様・・・。」
一向に改まらぬ息子の行状に、家慶は深いため息を付く。息子の落ち度は親が治すべきなのだが、将軍は一般人とは訳が違う。江戸幕府将軍たる自分が、直接息子を諭す事は出来ない。自ずと乳母に任せるしかない。自分の子に親らしい事が出来ない。家慶にとっては、最大の悩みであると言える。
そして、何かを覚悟したかの様に神妙な面持ちになった。
「彦左、諦めるしかないか・・・。」
「上様・・・、早まってはなりませぬ。」
「余とて次期将軍の座には我が子をと思っておるが、肝心の家定があの有り様では幕府の屋台骨は音を立てて崩れ去る。事は徳川家だけの問題ではない・・・。」
息子を廃嫡になんて、本心で言えばしたくない。家定がどのような状況でも、親として見捨てるような真似は避けたい。日ノ本の国を治める徳川家に何かあれば、事は日本全土に及びかねない。その事は将軍たる自分自身がよく解っていた。
暫く控えていた丹後守だったが、妙案が浮かんだらしく立ち上がった。
「上様、源七郎君を呼び戻されては・・・。」
「源七郎か。」
「御腹違いとは言え、上様の実の御兄弟。万が一、御世継様に何かがあった場合は源七郎様だけが頼りでございます。」
「源七郎であれば、余もやぶさかではない。しかしあ奴は我が父、すなわち先代の将軍が附け女中に産ませ、その素性を隠匿し市井に出された言わば落し胤。その様な曰く付きの者を、尾張や紀州等の御三家や御一門、幕閣連中が納得するだろうか?」
「我が子の望めぬ御台様を気遣い、止む無く宿下がりをなされただけの事。御母上にも源七郎様にも、何の落ち度も有りませぬ。」
丹後守の提案を聞き、家慶は黙って考え込んだ。将軍の弟となれば、順当に行ってお世継ぎに最も近い。将軍位御控すなわち第二継承者である弟を養子に迎える。家定が使い物にならない場合、それが一番の得策である。
しかし、金四郎の答えは意外なものだった。
「お恐れながらそれは時期尚早、些か危う御座います。駿河卿の一件もござりまする。下手に御世継様を差し置いて他者を頼っては、騒動の火種になりまする。」
「無礼な、源七郎君を騒動の火種とは・・・。」
「止めい二人共。」
今にも言い合いを繰り広げようとする金四郎と丹後守を、家慶が窘める。
「景元は徳川家の、源七郎の事を考えて言うてるのだろう。そう攻めるな。しかし、父上も罪な事をしたものよ・・・。騒動を褒めたくはないが、あの一件で源七郎の素性が明るみに出た。そうで無ければ、今頃どうなっていたか・・・。」
「運が良かった・・・、亡き母上の御加護でしょうな・・・。」
「であろうか、当人は将軍位継承の気はないのか?」
「左様でございます。蟠竜様は常々、次期当主は御世継たる家定様が相応しいとお考えでございます。蟠竜様の御考えを、無になされてはなりませぬ。」
金四郎の考えを黙って聞いていた家慶は、うんと頷いた。
「余とて我が子を見捨てたい訳では無い、源七郎の想いも汲み、家定を信じてみようか。」
「そうなされませ上様、本郷殿も異論はありますまいな?」
信頼する中心の言葉に、将軍は黙って応じた。
「異論などあろうはずはない。ならば遠山殿、一刻も早く賊を捕らえねばなりませぬぞ。」
「解っており申す、二度と同じような失態は犯しませぬ。」
「其の方らに苦労を掛けるのぅ、任せきりで済まぬ。」
「勿体なき御言葉、天地神明に誓い、江戸の治安を守る為に働きまする。」
「この丹後も、命尽きぬ限り上様を尾支え致しまする。」
「余こそ、其の方らの様な忠臣を持って幸せに思うぞ。」
父より将軍の地盤を引き継ぎ、その治世は順風満帆と言う訳にはいかなかった。正直言って、自分の能力は微力。こうして天下泰平の世を保つ事が出来たのはこうした頼もしい忠臣あればこそ、誰よりもそれは、自分自身が一番理解している。
「上様、そろそろ昼餉の刻限でございます。」
「食欲が無いのぅ、近頃味付けが薄くなったように思えるが・・・。」
「贅沢はならぬと言う水野様の改革の波は、上様の御膳にまで及んでいるようですな。」
「余の御膳だけなら良いが、民の暮らしが危ぶばれねば良いがのう。」
溜め息を付きながら家慶は、彦左衛門に着いて江戸城の中へ戻って行った。 世を騒がせる盗賊の捕縛、家定の態度が正される事。それを心から願いつつ、家慶は普段の生活へと戻って行った。
「折角自由の身となり、居場所を見つけたあのお方をまたかごの鳥にする事はない・・・。あの御方のお手を煩わさずとも・・・。」
金四郎は言葉にせず、心中でそうつぶやき、そしてキュッと褌を絞め直した。




